サイト管理人の人生と信心

(工事中のページ・進捗70%

文書量が多く、文字が小さい。PC表示150倍の拡大を推奨。)

少し特殊な持病=難病を抱えた状態での、これまでの人生。

学校、仕事、旅行、病院、信心(寺院参詣を含む)全てにおいて、

特殊な疾患を抱える者がどんな状態で日々を過ごしているかを記載します。

外見に現れやすい身体障害とは異なり、外部から見えない内部疾患である難病を抱えて生きる日々には、どのような困難があるか。

これは信心(お寺)を含めた、社会への問題提起でもあります。

ここは全部書いた後に、目次(ページ内リンクを作る予定。)









【誕生~小学校卒業まで】

生後二か月の頃、小児喘息を発症。

入院・点滴の他に、深夜の発作で母に自転車で病院へ連れて行ってもらう事も多かった。

当時は大気汚染エリアに住んでいた。

3歳の頃、父親の転勤で関東へ引っ越すが、喘息は続いた。

日蓮正宗の御授戒は赤ん坊の頃に頂く。

(家族構成は両親と姉、私の4人家族。当時、父親は未入信の状態。)

【小学校3年生(9歳)の頃、1型糖尿病を発症。】

下痢・嘔吐・体重減少・熱感・自立歩行が困難なほどの衰弱等の症状。

喘息を見てもらっていた市民病院のICUに入院。

症状から、風邪による極度の脱水・衰弱と診られていたが、一向に改善の気配がないため、不審に思った母が主治医に何度も検査を依頼する。点滴にブドウ糖が追加される直前に、ようやく検査をしてくれた。

そこで異常に高い血糖値とヘモグロビンA1cが発覚。主治医の判断で、小児専門の難病を扱う県立こども病院へ救急車で転院。

黒く変色した足の指から、同じ病棟の患者からは死亡を疑われるもインスリン点滴で容体は急回復。

3日で点滴が外され、自己注射・血糖測定など病気の勉強と、長引いたケトアシドーシスで萎えた筋肉のリハビリを開始する。2カ月~3カ月ほどで退院。

この期間は、主治医が子供向けの勉強本(絵本学習)と共に医大生向けの専門書と辞書を貸してくれたため、自分の将来と自由の確保のために、必死で勉強をした。

(自分で自分の病気を正しく理解し、適切に対処できるようになる事で周囲に余計な心配を掛けず、自由な行動を取れるようになりたかった。)

【退院後の生活】

退院後は1年以上、大量の抜け毛が続いた。ハゲるかと本気で心配したw

(当時は主治医も教えてくれなかったが、30代の時、ある事が切っ掛けで原因と対処がわかった。

糖尿病に伴うポリオール代謝異常により、イノシトールの不足が起きる。これにより抜け毛や関節痛に悩んでいた事が分かった。サプリメントで対処できる。)

日々の生活では、血糖測定の結果とその後の食事量・運動量の予測から必要なインスリン量を自分で決定する訓練を実地で始めるようになる。

当時の主治医の摂取カロリーは1800キロカロリーの指示。9歳の私には、多すぎてとても食べられる量ではなかった。入院中は日々胃痛に悩まされ、胃薬を飲みながら食べていた。

退院後の自宅でこれを繰り返すことはできず、自力で食事とインスリン量の程よいバランスを試行錯誤する事となった。退院後は学校へ行く前、それまでよりも2時間早く起きて、血糖測定の後、30分~1時間かけて必要なインスリン量を検討していた。

(その瞬間の血糖値の補正 + 朝ごはんの量と種類 + その日の学校の予定 体育があるかどうか等

これらを加味して、必要なインスリン量を決める。慣れないうちはとても時間がかかった。食事は血糖値を上げるが、運動は血行促進でインスリンの効果が強まる(早まる)ので、低血糖リスクとして計算する。

学校の給食の時間も、その日の献立と午後の授業内容を勘案して、インスリン量を決める。食事は、その種類によって消化時間=血糖の上昇速度が異なるため、同じカロリー・同じ炭水化物量でも、必要なインスリン量が変わってくる。

1型糖尿病の患者は、皆、これを日々繰り返して、大人になるころには瞬時に決められるようになってくる。)

【エピソード】

ある日の朝、朝食を食べきれずに学校へ行った事があった。(7割方食べた状態。)

インスリン量と食事量が合わないと低血糖をおこす危険が増すので、かなり努力して食べていたが、どうしてもお腹がいっぱいで食べられない。胃が痛い。

致し方なく、不安を抱えながらも学校に行き、結果的に何事もなく帰宅した。

帰宅後に朝の事を母親に話すと、ひどく感情的に怒られた。

入院中は食事量の多さと胃痛に理解を示してくれた母だったが、退院後は違った。私はてっきり、今後について落ち着いて一緒に考えてくれる(相談に乗ってくれる)と思っていたが、結果は真逆だった。

母の口調は明らかに怒っていたが、表情は泣き出しそうだったことを覚えている。

私はこの時から、母に全てを話してはいけないと悟った。子供にとっての現実(自覚症状の辛さ)よりも、母自身の感情(子供が心配だという感情)が優先される事を知った。

以降は、母に相談するのは現実の7割に留めるようになった。どのみち、誰が何を言おうと、どんなアドバイスを受けても、結果を受け止めるのは自分の体だ。それをよく覚えておいた上で、自分で判断・対処すれば良いのだと思った。

この判断が後に、高校時代と20代後半から起きる問題のフラグになるとも知らずに...w ( ̄― ̄)ニヤリ

【患者としての精神的苦行の始まりw】

発症してから高校を卒業するくらいまで、ある苦行に耐えることになるw

それは、他者からの気遣い・思いやりによる希望的観測と励ましを受け取り続ける事だ。

患者の年齢が低いほど、自己注射などの話は痛ましく映るようで、事情を聞いた大人たちからは(学校の先生も含めて)「(必ず)良くなるから、大丈夫よ」「もう治った?」「きっと治るよ」「元気になった?(元気になるよ)」そんな言葉を度々かけられた。

しかし、1型糖尿病は今の医療では治る病気ではない。難治性疾患だ。そして、2型糖尿病のように軽快したり、寛解するものでもない。

患者として病気の原因を知る私にとって、それらの言葉は辛いものだった。病気の原因を説明しても同じ言葉を掛けられるし、詳しく説明するほどの関係にない人(その場だけの付き合いの人)にはもう、説明する時間も機会もない。

なので結局、私は微妙な笑顔で「どうも...。」「ありがとうございます」としか言葉を返せなかった。

連日、夜間も乱高下する血糖値に付き合って夜鍋し、ローギアで運転し続ける車のような体で生きる私が、元気になる日など、あろうはずもない・・。 非現実的な言葉は、無視するに限るw

義理を欠かぬように、病人に対する気遣い・思いやりの気持ちだけを受け取って、ありがとうと返事をする日々。 成人後の今でも時々あるが、これは本当に苦行だ。(正直、現実を無視した要らんことを言ってくれるなという状態だ。負担にしかならない。)小学生から、本当によく耐えてきたと思う。

他者からの祈りにさえ似た励ましと希望的観測、低血糖時の具体的な手助けなどは、気持ち的には有難い反面、何1つ御礼を返せない自分の身体状況を自覚する事にもなるため、嫌だった。

何の御礼ができなくても、自分が元気で動き回れる姿を見せる事が、他者と一緒に行動できる体力を得ることが何よりの御返しだとわかっている。それさえも、延々と叶う事のない体の現実が辛かった。気遣いや思いやりを、励ましを受け取り続けるだけで、どれだけ努力しても何1つ伴わない現実が嫌だった。

【小学4年生の夏休みから、

1型糖尿病患者のためのサマーキャンプに参加する。】

これは医療スタッフとボランティア、そして患者本人だけで出かけるキャンプである。(家族は同行しない。)

ここで患者仲間と出会い交流を深めたり、普段親に注射をしてもらっている子供は、医療スタッフと自己注射の訓練に励んだり、山登りや海水浴など色々な経験を通して、生活上での病気の対処を学ぶイベントである。1型糖尿病は発症数の少ない難病であるため、患者仲間との出会いや交流は貴重だ。

患者が成長するにつれてサマーキャンプの参加者は減っていく傾向にあるが、生活上の対処を学び終えた子供の場合は、社会生活での工夫を患者仲間と話し合う場として重宝するようになる。

(病気への無理解や、誤解によって起きる学校とのトラブル。アルバイト先での困った経験などを話し合う場となる。)

私はここで、他の患者たちとのデータの違いを知る事となった。

同年代の患者たちは、主治医の指示通りのインスリン量(と食事量)で良好な血糖値を保っていた事に驚く。

私の場合は入院中であっても、かなり高血糖に傾いたデータだったからだ。

そして、その証拠と言えるような体力の差を目の当たりにした。

私の体はいつも怠く熱感があり、動きにくかったが、他の子どもたちはキャッキャと走り回っており、楽に動いていた。(もちろん、健康な子供に比べれば少し怠そうだったが。)

なぜだろう...。 子供心に心配になった。1日5回の血糖測定と、1日4回の注射。必要な時はさらに回数が増えるほど、慎重に丁寧に対処してきた私にとってこの事実は辛かった。

血糖の変化を体調不良として察知しやすい体は、測定前の予想が90%以上の確率で的中するほど、血糖測定の回数も多かったのに。

「まだ、足りないのか」「どうしたら良いのか。」

毎月の外来で主治医に相談しても、主治医は何も言わない。ただ、見守るだけだった。もちん、「どうにもならない、それ以上できる事がない」という理由から、そうなっていたのだと成人した今ならわかる。しかし、当時はとても悩んだ。

そんな本人の心配をよそに、サマーキャンプでできた友人たちの親は、「ほら、お前もサイト管理人さんみたいに頑張りなさい(=血糖値の予測が90%当たるくらいに、優秀な患者になりなさい)」と言っていた。

そのせいか、私の周りには友人たちが眼を輝かせて「どうしたらサイト管理人さんみたいになれるの? 私もそうなりたい」そんな風に言ってくることが度々あった。

これはとても辛かった。確かに、血糖の変化を適切に察知して、高血糖でも低血糖でも、大事になる前に手が打てることは良い事だ。だけど、そこまでできても私の血糖測定の1カ月の結果は、友人たちよりはるかに悪かったのだから。

その表を提示しても、友人たちは気にしていなかった。ただ「凄い」と。「羨ましい」と。そう言っていた。

体に自覚症状がここまで現れなければ、私だって頻回に血糖を測る事はなかった。そして、友人たちの様に主治医の指示通りの事をして、良好な血糖値とA1cを保っていられるなら、楽しく走り回れる体力を保持できるなら、こんなに病気について対処能力が上がる事もなかった。その必要がないからだ。

サマーキャンプでは病気の勉強として、授業と筆記試験もあった。そこで満点に近い点数を取った私を見て、「羨ましい」と言った可能性もあるが、それだって... 日々の大変さの結果だ。

医師達の授業(子供向けの授業だが、基本的な大事な内容)は発症してから何度も聞いた話だが、それでも、基本事項から考えられる次の治療方法、自分の体に合った新しいインスリンの使い方はないか、新しい血糖への対処のヒントが得られないだろうか、そんな視点をいつも持っていたからだ。

苦しい体を、何とかしたかった。だから勉強した。努力もした。夜だって、乱高下する血糖値に落ち着いて寝られない。対処に追われて、いつも眠らずにローギアで体を運転している状態だ。

「とてもそうは見えない。いつも明るくて、しくて...」そんな風に言ってくれる友人もいた。とても嬉しいが、それは私にとって自然なことだった。難しいことではなかった。

病気があるという理由だけで、精神的に参る事はなかったからだ。体が少しでも動くなら、今を一緒にいる人たちと楽しむ事が最優先だ。自分の体調不良など(同じ患者であっても)他人には関係のないことだから。

凄いのは、インスリンがマニュアル通り、主治医の指示通り効く体を持っている友人たちの方なのだ。そして、数の割合で見れば、サイト管理人が少数のデータ不良患者の1人なのだ。決して羨ましい状態ではない。

だけど、それでも・・・ いくら話しても、友人たちは「そうなりたい」と言っていた。

後にそれが、友人たちを取り巻く環境による精神的な辛さの裏返しだとわかったのは、中学2年生から高校生にかけての頃だった。(精神を病む仲間が増えていった時期。)

【信心の状態(幼稚園~小学校卒業まで)】

私が小学生の頃は、特に何もしていなかった。(数回、自主的にひらがなのお経本で勤行をした覚えはある。御本尊様の落ち着いた雰囲気と、引き出しの中の木とお線香の混ざった香りが好きだった。)

夏休みに祖父母の家へ遊びに行って、2週間~1カ月くらい過ごす間に祖父母の所属寺院へお盆に行ったり、御開扉に連れて行ってもらう事はあった。 

1型糖尿病を発症した時、ICUに入院中は父方の親戚から邪宗のお守り(たぶん健康祈願)を私の名前で貰ったそうだが、母が処分してくれた。

幼稚園から小学校低学年までは、両親が年末年始に初詣の行先で喧嘩をする事が多く、最終的には父の意向で邪宗の寺院で初詣に行っていた。

私が1型糖尿病を発症後は、よく覚えていない。小学校6年生からは、年末年始に邪宗の寺院へ行くことはなくなったように思う。

また、1型糖尿病を発症後、時折母が私を連れて所属の寺院へ行くようになった。(イベントに関係ない時期。)三唱をして帰ったり、お塔婆の申し込みで寄るような感じだったと思う。


【中学校入学】

中学校へ入学する際、校長や教頭、教員に病気について説明することになった。

特殊学級(重度身体障害や、重度の学習障害がある子供のためのクラス)へ入る事を勧められたが、両親が丁寧な説明を続けてくれたおかげで、私は通常の学級へ入る事ができた。

小学生の頃と同様に、学校へも血糖測定器や注射セットを持って行き、お弁当の時間や高血糖が辛い時に注射を打ち、低血糖の時には砂糖やキャラメルを口に入れた。

小学生の時も、担任の先生や校長先生に許可を取っていた。砂糖については、近所の開業医の先生に訳を話して、院内処方で薬用の白い袋に砂糖を詰めてもらっていた。

(「学校でお菓子を食べている」とクラスメイトに誤解されない為に、見かけのカモフラージュに協力してもらった。実際に、低血糖用の捕食(お菓子)の恐喝もあったので。 また、県立こども病院から処方されるグルコースサプライでは、サイズや量の点で、学校の中では使いにくい部分があった。)

中学生になると、生徒たちの様子は小学生の頃より落ち着きが出て、教室内で比較的安全に注射が打てるようになった。小学生の頃は、教室の中でハサミを投げ飛ばす子供たちもいたため、安全が確保できなかった。

(そんな時は注射の度に保健室へ行く事になるが、教室から保健室までの距離が長く、時間的な不便があった。)

成長期を迎えた私には、急激な成長による節々の痛みが始まった。インスリンの自己分泌がなかった時期に伸び悩んでいた身長が、インスリン注射で一気に成長の遅れを取り戻し始めたのだ。

お陰様で順調に身長が伸びて、制服のブラウスを買い替える事が多かった。肌には成長痛を和らげるための市販の湿布を沢山はって、膏薬の臭いを周囲に漂わせていたw

この頃、学校での人間関係に悩む事はあったが、病気のせいで・・・というよりは、【病欠(入院など)で登校日数が少ないにもかかわらず、テストで人並みに点数が取れる(科目によっては高得点)のは気に入らない、先生の覚えがめでたいのは気に入らない】という理由で変なやっかみに遭う事が時々あった。

実際、特に中学時代は校内で低血糖により意識がなくなったり、倒れたり・・という事が多く、先生に電話で呼ばれた母が、中学校へ車で私を迎えに来て病院へ連れて行くこともよくあった。なので、他のクラスメイトと比べて出席日数が非常に少ない状態だった。

(ちなみに、小学校の頃は体操服がなくなったり、画びょうが置かれているとか・・たまに、そんな事もあった。ただ、こういう事は健康状態に関係なく、誰でも少しは経験がある事の1つだと思う。女子生徒同士の嫌味な人間関係とか、まぁ... 色々と。^^;)

中学3年生になり、受験が始まった。この時、私は初めて病気と社会についての現実を知る事となった。

姉の通っていた高校を第一志望としたが、受験の際に筆記試験の直後、私だけ別室に呼ばれて面談を受けた。

面接官から1型糖尿病についての説明を求められたのだが、その主な内容は「通院の頻度はどれくらいか。学校を休む必要があるのかどうか」という事だった。

通院については、1型糖尿病の専門医が必要なため、どうしても遠方の県立こども病院に行かざるを得ず、学校を休む事になるのは必至だ。それでも、勉強には決して遅れは取らないと必死でアピールした。学校行事やイベントも中学ではすべて出席したと伝えた。

しかし、面接官からは最終的に「毎月1回の通院が必要なんですね。通院が多いと我が高校の東大進学率に関わるので、念のために伺いました。」との言葉があった。

後日、受験の結果は不合格と伝えられた。

私の中学の担任はこの結果と経緯について、高校へ問い合わせの電話をしてくれた。高校側は理由の説明を拒否したが、何度も連絡を続けてくれた担任の先生の頑張りのお陰で、渋々こう話したそうだ。「数学の点数が足りなかった」と。「では、数学のどの問題が?」と尋ねた担任に対して、もう何も話さなかったらしい。

しかし、その高校は当時【進学科(Ⅲ類)・普通科・英語科(Ⅱ類)】と3つの科に別れていて、私の成績では普通科が確実。どんなに調子が悪くても、英語科には確実に入れるレベルだった。担任も私の成績はよく知っていたので、高校側の言い分が嘘である事を見抜いていた。

私は愕然とした。病気を理由にした不利益な扱いは、1型糖尿病のサマーキャンプで聞いてはいた。就職や学校で不利な扱いを受けた事のある先輩たちの話、他の同年代の患者の話を聞いていた。(学校での不利な扱いとは、保健室の先生や担任から注射について暴言を吐かれたり、酷い態度を取られる・修学旅行への参加などを拒否されるという内容。)

けれど、私の場合は小学校・中学校ともに問題はなかったため、就職はともかく、学校という教育機関の中では真っ当に扱われると信じていたからだ。

もちろん、第一志望校意外にも高校はたくさんある。しかし、第一志望の入試結果が出た時点で、既に2月中旬。そこから他の高校を探す事は難しかった。公立高校では3月の入試も何とか間に合う学校もあったが、家からの通学距離と体力を考えると躊躇した。(たまに行くには問題なくても、毎日の通学となると...。という問題。)

第一志望校は学力的に確実に合格圏内だったため、足掛けを受験していなかった事が悔やまれた。

そして頭に残る面接官の言葉。「通院による欠席が必須となると、東大進学率が・・・」

東大進学率などどうでもいい。しかし、中学3年間の状況を思うと、出席日数が足りずに進級が危ぶまれるほど欠席が多かった事実はある。そして、病気的に成長期の10代はインスリンの調整が難しい時期である事も確かだ。

何より、私は女性として生まれた。女性ホルモンは血糖値やインスリンの効き方に様々な影響を及ぼすため、人生を通して男性の患者よりも血糖値のバランスを取る事が難しい。

『もしかすると。生理の周期(女性ホルモン)が安定しない今の時期に、毎日登校する高校(全日制の高校)へ通うこと自体に、難があるのではないか...。』

弱気になったのではなく、中学3年間を思い起こして次の高校3年間について、冷静に予想を巡らせた。

女性の1型糖尿病患者の全員が、私のように欠席が多い訳ではない。しかし、現実として私の体はそうなっていた。これは考慮するべき問題だ。理想と現実、他の患者の現実と、自分の現実。

高校の対応は明らかに問題だが、これをきっかけに私はようやく、自分のやる気と学力だけではカバーできない問題がある事を知った。

既に自分にとっては当たり前になっている夜間の浅い眠りと血糖への対処。24時間休むことなくローギアで運転し続ける意識と体。その中で、帳尻を合わせられれば良しと考えて、要点を掴んで学校のテストや授業、行事に参加していた日々。

これを、まだこれからも続くアンバランスな女性ホルモンが分泌される中で続けるわけだ。そこで全日制の高校へ行く事は、果たして...将来において、妥当と言えるのだろうか? 3年間、通い続けられるのだろうか?

第一志望校の対応には本当に腹が立ったが、2月中旬という時期の問題もあり、母が買ってくれた通信制高校のガイド本を見て、私は通信制の高校へ進学する事にした。父は(見栄と父自身のプライドのためにw)怒鳴って大反対したが、母は賛成して資料を揃え、学校見学に付き合ってくれた。

いくつかの通信制高校を見学した後、最終的に通信制でも3年間で卒業できる単位制のNHK学園に入学する事にした。月1回の登校(スクーリング)と、NHKテレビとラジオの視聴、そしてレポートの提出(郵送)で学習を進める。中間・期末テストの期間だけは連日登校したが、他の期間は在宅で済んだ。学校は遠方にあったが、月に1回の登校なら何とかなりそうだった。

そして週2回、近所の大学受験のための予備校(夜間2コマ)に通わせてもらう事になった。

1型糖尿病と生活についての認識】

発症当時、私は病気を生活に合わせようとして、ついてこない体に苦しんで失敗したため、生活を病気に合わせる方向に意識を切り替えていた。これにより、他の患者仲間と比べて精神的な負荷が軽かった。

患者仲間たちは、なまじインスリンがマニュアル通りに聞いていた分だけ、健康な人間たちとの微妙な差異に精神的に苦しんでいた。うつ病になったり、自殺を試みて精神科に通うほどに。 

私の「生活を病気に合わせる」という意識は心身に良い影響を与えたが、社会との接点(社会参加)という意味では、やる気と工夫・努力・学力だけではカバーできない体の現実について、認識し辛い状況を作っていた。 まぁ...就職では差別を受ける可能性が高いと思っていたし、入社試験の際には病気を隠しておこうと思っていたが、まさか教育現場で起きるとは思っていなかったのだ。甘かったね。私はw (そんな意識の低い高校に通う必要はない、という事もわかった訳だけどw)

今でも思うけど、慢性疾患を発症した場合に、人は無意識に病気を生活に合わせようとする。そして、様々な努力と工夫でそれが成せる場合と、成せない場合がある。

それは、生活に合わせられる病気(病状)と、合わせられない病気(病状)がある、という事だ。

自分の病気と病状がどちらであるかを考えて、人生を選択していく事が大切だと思う。

合わせられない程の重い病気と病状があるなら、それは早めに意識を切り替えないと、無理な努力を続けて精神を病む元になる。

世間一般の意識(毎日仕事や学校に行ける程度の健康を保持する人々の意識)は、どうしても病気を生活に合わせることを基本に置いてしまう。患者に対して、その視点で物を言うという事だ。

何よりも自分の体の現実を知る患者は、これに惑わされて苦しむ事がある。「他人の意識と視線を、自分の意識だと思い込んでしまう」という問題だ。

私は小学生のうちに違和感を感じ、苦しむ体に応じて自然と意識を切り替えることができた為に、最初は患者仲間たちの精神的な苦悩を不思議に思っていた。

また、私の家(社宅)は大企業の社宅が多い地域にあり、身体障碍者雇用枠で通勤している車椅子の人々も多かったため、「私の病気の注射は、この人たちの車いすや義足、杖と同じなのだ」と自然と受け入れることができていた部分もある。体に問題があっても、それを補う道具や薬があれば、問題なく仕事や生活ができる、という現実を日常的に目にしていたため、友人たちのように精神的に「病気を患っている」という意識自体について悩むこともなかった。

しかし、友人達から話を聞く機会が増えるにつれて、段々と彼らの状況が見えてきた。

友人たちの状況は、マニュアル通りにインスリンが効きやすく、身体的に強く苦しむ事が少ない中で、家族や周囲の人からの病気に対する十分な理解が得られていない状況だ。

十分な理解のない周囲の人間たちは、心配するあまりに健康な人間の「病気を生活に合わせる」という姿勢を無意識に押し付けてくる。

患者が自分自身の意識や考えを十分に自覚する能力を持っていない子供の年齢と精神で、その環境は厳しい。

私のようにマニュアル通りにインスリンが効かない(かなり変則的に効く)体を持っていて、日々かなりの負荷に苦しむ状態であれば、周囲の理解のない言葉(心配のあまり・・という押しつけの意識による不適切な言葉と指導)があっても【無理なものは無理。】と体で認識し、「生活を病気に合わせるのが正解」という意識に切り替えて、周囲の意識と自分の意識は別物だと気付き、自分の道を生きることができる。

毎月の外来で病院に入ると、その瞬間から楽に息ができて肩がこらない事、診察などが終わり、病院の外へ出ると一気に肩や背中が硬くなり、少し不自然な硬い呼吸になる事に気が付くようになった事も、「生活を病気に合わせるのが正解」だと気付いたきっかけの1つだった。

結局、病院の中では血糖を測っても、注射を打っても誰何の声がかからない。訝しむ視線を受ける事もなく、注射のために人目を避けてトイレに入る必要もない。病気のある患者として、当然の日常と権利が守られている空間だから、リラックスして自然な呼吸ができるのだと気が付いた。

病院の外でも同じ感覚で暮らせるようになる事が、健全な、あるべき(目指すべき)社会だと気が付いた。1型糖尿病への正しい理解の普及、というところだ。

(つまり・・こういう事に気付けると、健康な人間とは認識が違って当たり前。自分の体の状況を理解できない人間の言う事など、右から左に聞き流せばいい。気にする必要も、誤った方向に努力する必要も一切ない。という事に気付く事ができる。

小学生の時点でそこに気付き始めて、中学生で完成したこの結論は、今でも変わらない。早くに気付けたことは、幸運だったとも、それだけ体が苦しみ、様々な努力と工夫を重ねた結果とも言える。)

しかし、体の状況が異なる分だけ(インスリンが比較的マニュアル通りに効いて、ある程度は病気を生活に合わせられるだけの融通が利く体を持っている分だけ)、友人たちはそこに気付く事ができずに、健康な人間の意識をそのまま受け入れ、それを無意識に自分の意識・認識だと思い込むようになる事で精神を病んでいった。(健康な人間と同じようにならなければいけない、という認識が生まれてしまう。)

それは、ある程度は融通の利く体であっても、健康な人間の考える「病気を生活に合わせるレベル」には追い付かないのが現実だったからだ。

(もちろん、インスリンがマニュアル通りに効きやすい体質を持ちながら、周囲の理解を適切に得られる患者もいるし、数少ない問診の技術に優れた優秀な主治医に出会えた患者などは、こういう苦しみ方はしないで大人になる事ができる。精神を病む事もない。1型の本当の専門医であると同時に、特に問診に優れた優秀な主治医に出会う患者は非常に少なく、その場合は超幸運と言える。 

余談だが、患者によっては主治医や看護師、学校の保健室の先生からも1型を理由に変な扱いを受けることがあるそうだ。例えば「(注射や血糖測定で使う)消毒綿が臭い!」とあからさまに嫌な態度を取られるなど、医療職とは思えないほど変な態度。

結局・・医療職者も人の子で。 医療の専門知識や経験があっても尚、人間性や判断力は別という事なのだろう。 昨今の新型コロナへの対応を見てもわかるように...。)

  • 2020年、愛媛県では遠距離トラックドライバーの運転手の家族(娘さん)が慢性疾患の治療(定期的な外来)でかかりつけ医を受診したところ、父親の職業を理由に新型コロナの危険があるからと診療を断られた、というニュースがあった。
  • (《遠距離トラックのドライバーという事は、感染が拡大する地域へも行くことがあるだろう。その家族である娘のあなたにも、新型コロナの危険があるから、もう病院を受診しないでほしい》という意味だったらしい。)

これについて、父親は愛媛のトラック協会に連絡し、協会が愛媛医師会や保健所に抗議を申し入れたとの事。 

【信心の状態について (中学生遍)】

最初は毎月ではなかったと思うが、家族で(母・姉・私の3人で)日蓮正宗のお寺(所属寺院)の御講やお盆、御会式に通い始めたのが、中学生の頃だった。時々班長さんが家に来て、配布物などを渡しに来てくれたのを覚えている。3人で大石寺の夏期講習会に参加するようになったのもここから。

中学3年生の頃には、家での勤行も習慣化していった。

(この時代も、父はまだ未入信。所属の寺院に一緒に行く事もなかった。関心がない状態。)

中学の先生の引率で(=美術の授業で)邪宗へ写生に行ったり、修学旅行で邪宗へ行く事はあったが、手を合わせることはなく、プライベートで年末年始に邪宗の初詣に行くことも一切なくなった。

この頃、大石寺へ行くと私だけが毎回、怪我をして帰るようになっていた。(中高生の頃によく起きて、大学を卒業するころには少なくなっていった。登山に際しての強い体調不良も、20代後半から軽くなっていった。)

一緒に行く母と姉は問題なく行って帰ってこられるのに、私だけが毎回、大石寺の中で手を切る・口を切るなどの血が出る小さな怪我をしたり、急な腹痛で30分ほどトイレに籠る事になったり、(一泊登山時の)就寝中の体調不良で寝ていられずに敷地内を徘徊するなど、健康上の問題を起こすようになる。

不思議なことに毎回、下山するころには回復していた。

あまりに体調が悪いので「予定していた丑寅勤行の参加を、今回は休もう」という時に、休んでいられないほど体調が悪化して、居たたまれずに外へ出て傘を杖に徘徊。苦し紛れに適当に歩いて、宝祥苑へ向かうつもりが客殿に到着し、丑寅の鈴の音が聞こえるとともに呼吸や圧迫感が楽になって、途中から丑寅勤行に参加する(そして終わるころには体調が回復する)という事も数回あった。

なので、支部登山でも添書登山でも夏期講習でも、当日が近付くと自分の体調に一層注意し、緊張して出かけるようになった。(それでも普段とは異なる怪我や体調不良を起こす。心構えと薬などの備えをしていた。)

感覚的には、「前世で日蓮正宗と何かの因縁があって、悪いことでもしたんだろうなぁ...」と思っていた。御講でも色々話を聞くので、「原因はわからないけど、まぁ、何にせよ行く甲斐はありそうだw 続けていってどんな変化があるか楽しみだ」と思っていた。

(大変ではあるけど、そう思える程度の【下山の頃には治る不調・一過性の不調】だった。持病の問題があるので、登山予定日が近付くと取りやめたくなるほど緊張していたが。)


【高校入学】

NHK学園へ入学後は、自分でも驚くほど体が快適だった。全日制の高校への思いはあったが、それ以上に体調の快適さを感じて、通信制の選択が正解だったとわかった。

月1回の登校と、期末テスト期間の登校、自宅学習によって3年間で卒業できる事の有難さを本当に実感した。

「休める状態の時に休むことができる」という環境が、どれだけ有難かった事か...。

血糖値の乱高下に付き合って、夜にまともに寝られない日々は相変わらずだったが、毎日の登校がないために、時間を問わず、たまに訪れる血糖値の安定した時間に眠る事(体を本当に休める事)ができた。

月1回の登校と、週2回の予備校(夜間2コマずつ)という生活は、私の体調に一番合っていた。合間に家事をしたり、母と買い物に気軽に行ける体力的な余裕もできて、マトモな生活ができた。

この結果、高校3年生の3学期には長距離を歩いて買い物に出かけ、帰宅後に家事や2回目の外出ができるほどの体力が整った。 ヾ(*´∀`*)ノ🌼

【眼球使用困難症の始まり】

17歳の5月から、眼球使用困難症が少しずつ始まった。

夜間のトイレで電気を点けた瞬間、バチ!という音と天井からの強いフラッシュを感じて、反射的にしゃがみこんだ。

フラッシュは電球が切れた時のような様子だったが、バチ!という大きな音が伴ったので、電球が割れたか、ヒビが入ったかと思った。(後日確認したところ、実際は電球は切れておらず、ヒビも割れも見つからなかった。)

その時から、目が光に弱くなった。(1型糖尿病の発症時点から、徐々に始まっていた低血糖の繰り返しによる視神経の異常が、17歳の夜間にトイレに入ったタイミングで明確に顕れるようになった様子。) 明るい場所では見えにくく、暗い場所で見えやすくなった。そして、電球の種類(蛍光灯)によって目が痛み、適宜サングラスや帽子を被るようになった。

家族に症状を訴えたが、何度話しても、自分で電球に交換しても、最終的には家族によって「電球型蛍光灯」に交換されてしまう日々が続いた。私は目が痛むので、それまでよりも居間に長居しないようになった。

眼の症状は大学、就職と年齢を重ねるにつれ、徐々に悪化していく。

高校生の時点で眼科にも行ったが、特に異常は見当たらないとの事だった。眼球使用困難症だと診断がついたのは、ここから約18年後の事だった。

予備校にて。低血糖による硬直とAEDの恐怖。】

大学受験のために週2回の予備校通いをする中で、講義中に低血糖をおこす事があった。

その時に1度、体を動かせない事態になった事がある。(中学生の頃にもあったが、予備校ではその時が初めてだった。) 

講義中に捕食を口に入れたものの、消化吸収が間に合わずに血糖が下がり続け、一時的に動けなくなってしまった。こういう場合、まだ意識は残っている場合が多いので、周囲の様子は理解できている。

講義が終わってもノートを片付けず、立ち上がる事もない私の様子に他の生徒たちが集まって来る。誰かが先生を呼びに行っている間に、生徒たちは様々な憶測を私の周りで話していた。

「どうしたんだ?」「寝てる?」「やべぇ、死んでんのか!? ツンツン」「心臓マッサージ!?」

ふざけながらも心配してくれる生徒達の声に、応えたくても応えられない。指一本動かない状態だ。

当時はAEDが普及し始めた頃で、テレビCMなどでよく見かけた。予備校にも1つAEDが設置されていた記憶がある。普段、駅などに設置されたAEDを見て「低血糖を察知されずに、間違って使われたら怖いなぁ」とよく思っていたが、この恐怖が現実に迫ってきて私は慌てた。

説明したくても口が動かない。指も動かない。どうしよう... 周囲を驚かせて申し訳ないけれど、捕食を既に取っている以上、あとは消化吸収による血糖の上昇を待つだけで良いのだが、伝える術がない。

そんな緊張の中、数分後に先生がやって来た。先生には事情をあらかじめ話してあるので、これで無事に低血糖からの回復を待つことができた。

AEDに自動で鼓動を感知する機能が付いているのを私が知ったのは、それからずっと後の事だったw

「人が倒れたらAEDを! 早めの処置で、救命率が高まります」そんなCMが流れていた時代、1型患者の私は要らぬ心配をする日々が続いた。   

鼓動を感知して自動で停止する機能があるなら、最初からそれもCMで説明してほしかったなぁ... という思い出。取り越し苦労でした。(;´▽`A`` 

1型糖尿病と精神状態】

高校生の時、当時のミスアメリカであるニコール・ジョンソンさんが来日した。1型糖尿病患者である彼女は、日本の1型患者へ向けて講演に来た。患者会から案内があり、講演を聞きに行くこともできたが、私は断った。

結局、テーマ的に「1型糖尿病でも、将来を諦めることはない。何でもできるのだ」という内容だ。患者たちに勇気を与える講演、という事になるが、私にそのテーマは当てはまらなかったからだ。

確かに、1型糖尿病患者の友人たちには、同じテーマで悩む子が多かった。インスリンが比較的、マニュアル通りに効く体であるにも関わらず、病気であるということ自体に精神が参って、やる気や積極性をなくしてしまう患者たち。そして、患者によっては「自分は独りぼっちだ」と考えて益々弱ってしまう人もいる。 

こういう患者たちには、同じ病気を抱えながら世界で活躍する人は、勇気や希望という薬になる。野球のガリクソン選手、岩田選手、エアロビクスの大村選手も然り。(いずれも女性ホルモンによる不規則な血糖変化の作用を受けない男性である点には、留意が必要。 個人差はあれど、専門医の指摘する通り、全般的に男性の方が圧倒的にコントロールしやすい現実がある。) 

けれど、私のような精神の図太い患者には、薬にならないのだw

私の場合は最初から、自分の病気を認識する事で(健康な人間との違いを認識する事で)弱るような精神を持ってはいなかった。

発症当初から、入院中でさえ他の1型患者と悪い意味で異なるデータを示し、強い自覚症状に苦しんでいた私にとって、精神的に独りぼっちだ何だと悩む余裕はなかったw 

確かに、「(他の患者と比べて)どうして自分はデータが整わず、強い自覚症状に苦しむのか」という点で独りを感じることはあった。自分と似たデータの患者がいても、自覚症状が少ない患者は多くいたからだ。

(悪いデータで自覚症状がないということは、対処が遅れて合併症を発症しやすくなるという事。医療的には私のように自覚症状があると早めに対処できて将来的に安全を確保しやすいが、患者のQOLは低くなる。 血糖の寝ずの番が続き、3日で良いからマトモに寝かせてほしいと願い続ける日々となる💧)  

私は発症当時から、(主治医の指導を100%守れる環境の)入院中の方がデータも自覚症状も悪かったので、自宅での日常生活で小学生の頃から頼れるのは自分だけだった。

日々のインスリン調整について母に相談する事はあったが、それでも小学4年生の頃には【体調については本当のことを話し過ぎてはいけない。無駄に心配させて、自分の体の現実を無視したアドバイスを聞くだけになるから】という意識が確立する程度には、(年齢の割に)シビアな日々だった。

しかし、そこで孤独を感じて落ち込んでいられるほど、体の状態は甘くなかったのだ。

(もちろん、元から独立性や自主性の強い性格だったという要因はあると思うw 「周囲(健康な人間)と違う」という事に不安や不足を感じにくいというか...。「周囲とは違う」という事情が真っ当な理由で、そして適切に対処する方法があるなら、(対処を阻まれない限り)何も気にすることはない、という精神状態。)

ミス・アメリカは良い。彼女は彼女のやり方で未来を作り、将来を開いた。そして、世間一般に対して1型糖尿病の認知を広め、患者にとっての社会的な不便を解消する事に貢献している。それはそれで良い。同じ患者として、社会への働きかけはとても有難いことだ。

しかし、患者自身が(健康な人間からの圧力・押しつけによって作られた誤った認識によって)無意識にかけた不要な精神のブレーキを外すことができたからといって、誰もが彼女にようになれる訳ではない。努力をしたからといって、誰もがスポーツ選手やモデルに(あるいは士業など有資格者に)なれる訳ではない。

無論、夢を持ってトライすること自体に最初から諦めている患者が多いのならば、その講演は非常に有益だ。しかし、精神に不要なブレーキが存在せず、純粋に体の不調で四苦八苦して将来を模索する私には、その講演は「あぁ、そうですか。良かったですね。あなたは。」としか聞こえないだろう。

将来の仕事を考える以前に、「今夜の血糖値をどう安定させるか」「どうしたら、健康な家族と同じペースで行動できるのか」「どうしたら数日後の体調に自信を持って、友人と遊ぶ約束ができるのか」という問題が山積していたからだ。将来(職業選択)以前の問題だ。

家族とショッピングモールに出かける時でさえ、それなりに苦しかった。途中で私だけ、フードコートで家族を待つ事もよくあった。最初は私を気遣って「一緒に行こう」と言っていた姉も、そのうち体調を理解してくれて「ここで待ってて。お前の分もお姉ちゃんが買ってきてやるから」と置いて行ってくれるようになった。

(そして私はフードコートや通路の大きな休憩ベンチでお茶を楽しみつつ、皆の帰りを待つのだ。体が休めてホッと一息できる時間♪ ^^ )

家族旅行でもツアーのペースについていく事が厳しかった。小学5年生から毎年、家族で海外旅行に出かけることもあり、幸せな子供時代であったが、2回目、3回目と続くうちに辛くなっていった。

(東南アジアの旅行が多かったため、注射を打つ場所・衛生面・タイミング・空港の手荷物検査、着陸体勢からの気圧変化によるインスリンの急作用など、日本以上に気を張る場面が多かった。食事内容も日本とは異なり、インスリン量の調整や休憩時間の予測、家族や他のツアー客への気遣い等、楽しくも心身の負荷や疲労を重ねる場面が多かった。

もちろん、特殊な慢性疾患を抱える身でサバイバル能力を鍛える経験を貰えたことに、本当に感謝している。楽しかった。お陰様で、国内の災害時にも大きく慌てることはないw)

そんな状況にある私が、もし講演を聞くにあたって将来を考えるのであれば、本当の問題は、健康上に大きな負荷のある人間が、健康な人間と同じだけの選択肢を得ることが難しい状況にあると思う。

ハッキリ言って、健康な人間の場合は 自分の努力や持って生まれた能力に応じて、有資格者になる未来も、会社員になる未来も、フリーターになる未来も自由に選べるのだ。

健康状態を能力の1つとして見るには、1型糖尿病は重すぎる。注射を打つ場所にしても、タイミングにしても、社会では基本的人権を確保する事が難しい事態に直面する事が度々ある。

患者仲間の先輩たちの就職での困難や、自分自身が高校入試で痛い目を見た経験も思い出される。

極端に言えば(失礼な言い方になって恐縮だが)、重い慢性疾患がある場合、特別に夢がなくても、紆余曲折の末、結果的にフリーターになって、中年以降に潰れる自由さえないのだ。

私が気になったのは、そういうところだった。

「重いハンデがあっても、あんな凄いことができる、こんな凄いことができる。だからあなたも頑張って」違う。必要なのはそんな事じゃない。

重い慢性疾患があるからといって、態々そんな特別な事を目指さなくても、まともに生きていけるだけの身体能力と医療体制、社会的なサポートが必要なのだ。

(医療体制とは、【1型糖尿病】を正しく理解・対処できる病院が少ないという問題を示す。 専門医として名前が挙がっていても、実質的にはちょっと... というケースが多い。 特に、地方の患者は苦しい思いをする事が多い。 数多くの病院がある都会の患者でも、適切な対処ができる医師を求めて病院を渡り歩く事になるほどだ。

たとえば、田舎で農業をやって生計を立てたい、リモートワークで地方へ移住したいと思っても、その地方には「県内に1型糖尿病を適切に診察できる病院がない」という場合が非常に多い。医療体制がないとか、選択肢がないというのはそういう事だ。) 

これは、ニコール・ジョンソンさんが悪いと言っている訳ではなくて。

どこか的外れに見える講演のテーマに、私は参加する気になれなかったのだ。

自分の病状を中心として考えた時の「必要なのは、そんな事じゃないだろう? 気持ちの問題じゃない。体の問題なんだ。」という思いで。

ただ、せっかくの有名人の講演である。

私は自分が行きたくない理由を母に伝えて、理解してもらった。その上で、母はジョンソンさんの講演を聞きに行った。(その数ヶ月後、母は私のために 同じ1型糖尿病患者の書いた「ひとりぼっちを抱きしめて」というタイトルの本を買ってきた。

・・ (≡◇≡;) 違う、そうじゃないw


いや、まぁ...たぶん... 患者の私を見守る家族の方が、心労があったという事かもしれない💧

母には「せっかく買ってくれたのにゴメン。本当に興味がないんだ。前にも話したけど、ひとりがどうのと悩む以前に、高血糖の動悸を鎮めて、低血糖に追われないバランスを取る必要に迫られているから・・・。」と、もう一度、よくよく話して本を返させてもらった。)

1型糖尿病と流行歌の歌詞】

たしか高校1年生の時。TMRevolutionのWildRushが流行った。

この歌詞に「底なし沼の低血糖」というフレーズがあり、患者会で話題になったそうだ。ある1型患者の親が言うには「こんなに辛い低血糖を、面白おかしく歌にするなんて!」という事らしい。

患者会に出席していた母からその話を聞いて、私は「お疲れ様だなぁ...」と思った。

バカにしている訳ではない。抗議する背景、低血糖の辛さは私もよくわかる。伊達に小学生から血糖の寝ずの番をしている訳ではないw 低血糖の辛さも、その後の頭痛や顎の痛み(低血糖時の強い歯ぎしり・歯の摩耗)もよく知っている。

低血糖は激しい頭痛や気分の悪さ、患者によっては嘔吐や二日酔いのような症状が底なし沼のように続く。もちろん、異様な万能感や気分の良さ、焦燥感などに襲われる事もあり、非常に怖いものだ。

私の経験では、交差点を歩いている時に、一気に降下するエレベーターに乗った感じで足元が崩れた事もあり、低血糖は非常に危険な状態だ。

しかし... 歌詞の「底なし沼の低血糖」とは実にピッタリな表現で、その他の歌詞に問題のある表現は見つからない。低血糖について書かれたのはそこだけだった。そして、実際の低血糖と異なる表現も、誤解を与える表現もなかった。

純粋に、抗議した人の心情の問題だったことが伺える。

私にとっては、これは致し方ないと思える範疇だった。当時から20年以上経った今でも、1型糖尿病を正しく理解する人は少ない。病名や存在を知らない人の方が多いだろう。

多くの人が1型糖尿病や低血糖の存在を知らない事が患者の社会的な生き辛さを構成する要因の1つである以上、まずは認知を高めるために、流行の歌に低血糖が登場する事は決して悪くないと思うのだ。患者数が少ない病気であり、1型「糖尿病」という名称も紛らわしいため、誤解されて不利益を被る場合も多い。しかし、正しい認知が得られるまでは、途中経過としてある程度は避けて通れない道だと感じられた。

だから、WildRushの歌詞に私は何も思わなかった。別に歌詞を変えたり、販売を停止する必要はないと思っていた。(実際に、そんな事には至らずに済んだ。)そんな訳で、患者会で声を上げた患者の母親には「お疲れさまだなぁ...」という感想だった。抗議の声を上げる人は、それだけ心身が低血糖に振り回される辛い日々である事が伺える。その状態にある人には、理屈ではなく、ただ純粋に病気として体の辛さがあるという事だ。

私は冷ややかに見ている訳ではなくて、ただ、そんな体のお疲れさまな状態が改善される事を願っていた。それが容易ではない事、そして、対処として確実な固定された正解がない事を知りながら... 精神状態だけでも落ち着くようにと願うだけだった。 

【患者仲間の精神不調と法華経について。】 

1型のサマーキャンプで知り合った小学生からの友人(患者仲間)が、高校から精神を病み始めた。

患者数が少ない病気であるため、お互いに家はかなり離れていたが、キャンプに参加しなくなっても年に1回~2回は会っていた。

ある年、いつも通りに会うと友人の様子が少し変わっていた。それまでの自信のある明るい様子が、少し控えめというか、弱い印象になっていた。

お互いの近況を話す中で、友人が高校生活でうまくいってない事や、不登校になりつつある事を知った。その原因の1つには、1型糖尿病が影響していた様子がある。

友人の家族(特に両親)は、典型的な「病気を生活に合わせようとさせる(良かれと思って健康な人間の生活ルールを「そのままに」押し付ける)」傾向の人たちだった。そして、友人は素直な性格で「周囲の認識を、自分の認識だと誤認する」傾向があった。

(話を聞いていて、「あれ? これは本来のこの子の感覚(患者自身の目線と感覚)ではないな」と思う事が度々あった。) 

1型を発症時点で素直な子供の状態だった友人は、中学卒業までは周囲の意識による生き辛さを自覚できない状態のまま、病気を生活に合わせようと懸命に努力してきた状態だ。(それが可能な程度に、マニュアル通りにインスリンが効きやすい体を持っていた。) それが、本人の成長と共に少しずつ「本来、自分が受けるべきではない負荷」の存在に気付き始めて混乱し、高校での人間関係も相まって、精神を病み始めてしまった様子だった。

(結局、高校では遠巻きに「浮いてしまう」という事のようだった。クラスメイトとの会話を聞くところ、「変わった子」という複数の視線にさらされながら、女性同士特有の「表面的なお友達ゴッコの会話」が繰り広げられていたようだ。友人はそれに対して「無理に付き合うことはしない」という私のような太い「お一人さま精神」を持っていなかった。大きなハンデを持ちながら、グループや集団に属する事を諦めない、協調性を持った勇気あるチャレンジャーだった。) 

本人の言葉では「どうしてあんなに、(疑いもなく)親の言う事を聞いていたんだろう」ということだ。

この言葉だけなら、思春期にありがちな反抗期に見えるだろう。けれど、近況報告から伺える生活の詳細からは、間違いなく1型糖尿病(に対する周囲の誤った認識)が強く関係していることがわかった。

友人の話を聞きながら、私は「無意識に、他人の認識を自分の認識に置き換えることで苦しみを増している事に気付ければ、友人の悩みは多少なりとも楽になる」と知りながら、それを直接うまく伝えることができなかった。 

私と話すことで精一杯で、自分の傷の深さにも気付かないまま、必死に周囲に溶け込もうとする姿勢を前に、「(周囲に)無理に合わせることはない」という内容を遠回しに伝える事しかできなかった。

精神が弱っている状態の友人に「クラスメイト達は、あなたの事を何も見ていない。親し気に話すようでいて、無知な頭で遠巻きに笑っている。馬鹿な連中に付き合うのは止めろ。」などと・・現実を突きつける勇気はなかった。友人も、意識の上でそれを認めたくないだけで、肌ではその空気を感じているからこそ病み始めていたのだから。現実を明示して、そこから友人が立ち直れるようになるまで支え続ける能力と気力は、その時の私にはなかった。

そして互いに「滅多に会えない友人との、家族以上に自然体でいられる最高に気の置けない楽しいひと時を、つまらない話で潰したくない。」そう思っていた。

友人と付き合う高校三年間の中で、自分の家族やプライベートも考え合わせて 私は「自分には自然とできる事でも、他人にはできないケースがある」という事について原因と改善方法を何度も考えるようになった。そして下記の事に気付き始める。

「問題や悩みの解決方法を教えられて、そうできるなら誰も苦労はしない。教えられてそうできるなら、それはもう、その人ではない可能性さえある。」「その人には、その人なりの思考と方法で物事を理解し、正しく解決する方法がある」という事。

だからこその法華経かと気付き始める。理屈でわかっても、実行できない精神の辛さや弱さ、トラウマ、その精神を取り巻く日常の縁と環境(不可抗力的な要素)。そこを救えるのが、十界全ての衆生を救える法華経、意味を知らなくても唱えれば功徳を得られる法華経の出番なのかと・・。

本人の努力や意志・持って生まれた能力を超える問題は、それを作る原因に運や縁・環境要因が絡む。そこで、「もしかして」と。私はここから気付き始める。

その後も同じ友人と年に1回のお茶会を楽しむ中で、私が彼女を折伏し、逆縁を作るまでには、ここから15年ほどかかった。(「もしかして」の状態から確信を得るまで5年~8年ほどかかり、そこから数年後に折伏した。) 私自身がもう、彼女の話を聞く事が辛くなってきたのだ。もっと上手に誘う方法はなかったのかと、今でもたまに考える‥。

(答えを出せれば、今後の折伏にも役立つだろう。辛い人生を歩んできた人に、もう二度と、無駄に入信後の冬の時代を長引かせる可能性のある逆縁を作りたくはない。それは、自分にできる努力がまだ合ったはずだと思えるような、下手な折伏だったから。)

【信心について(高校遍)】

通信制高校に決まった事で、体調に合わせて時間を自由に使えるようになった。

それでも遊びに出かけられるほどの体力はないので、普段やりたくてもできなかった事を楽しむようになった。(部屋の定期的な大掃除とか、押入れの整理とか、お寺通いとか。)

所属寺院には、週2回の予備校通いの時に、早めに家を出て夕の勤行をしに行くようになった。

(これは高校生から始まり、大学を卒業するまで継続した。大学が所属寺院に比較的近かったこともあり、講義の合間や帰り道などに立ち寄る事ができた。大学からお寺までは1時間くらいの距離。)

家でも勤行はしていたが、日頃から「家で勤行をして、御講に行って、支部登山にも参加するけど、特にお寺で聞くような功徳を感じないなぁ‥」と思っていたので、試しにお寺によく通う事から始めてみようと思ったのだ。(勤行・唱題・折伏・寺院参詣・登山の中で、日常的に取り組みやすいところから始めて、功徳がわかるまで気長にやろうと思った。)

これには当時流行していた「親父の小言」になぞらえて作られた、所属寺院の配布物の影響もあるw

配布物にはA4用紙1枚に10個くらいの箇条書きで「暇を見てお寺へ参詣しなさい。暇とは作るものです」などの啓発文が書かれていた。

🌴高校までの信心については、どう考えていたか?🌴

高校へ入学するまでの人生も、病気と付き合う日々は中々に大変だったわけですが、どうして家で勤行ができたのかというと、自主的に勤行を始めたのが「病気を発症した後だったから」です。

赤ん坊の頃に御授戒を頂いていた話は母から聞いていましたが、御講ではお題目の大切さや折伏等について聞いていたので、自分の意識の中では「勤行を継続するようになる前からの不調は、今の信心と関係がない」と思っていました。(御授戒を頂いて、御本尊様を御安置していても、拝んでいなければ宝の持ち腐れという... お寺でよく聞く話に納得していました。)

日々の勤行をするようになったのが中学生の途中からなので、高校生の時点ではまだまだ、意識的に「これからだ」という感覚だったのです。

(ついでに・・・ 自分の病気に対する精神的な辛さを抱えていなかったという事もあると思います。 身体的な苦しみはありますが、それだからといって、弱る精神ではなかったのでw これまで書いてきたとおりです。 

私の注射や体調不良は、脚の悪い人が車いすや義足を使うのと同じものという認識。そして、病気を生活に合わせるのではなく、生活を病気に合わせるという意識。 さらに、目標を達成するにあたり、健康な人と同じ方法で成す必要はなく、病人としての適した方法で同じ目標を達成できればそれで良い。それが正解という認識と行動。高校生の時点で、これらの意識と行動が既に出来上がっていたために、難病の中での信心について精神的に悩む事はなかった。

そして、病状が悪い分だけ、健康な人との差が大きすぎる分だけ、羨ましいと感じる場面がほとんどなかった。人間、自分と似ていると感じる状況があればこそ、羨ましいと思えるものですw だから、インスリンがマニュアル通りに効きやすい他の患者たちは精神的に苦労したとも言える。

私にとって羨ましいのは、インスリンがマニュアル通りに効きやすい他の多くの患者仲間でした。 それでも、健康な人と似た身体状況を整えやすいために起きる精神的な苦労で、体の物理的な優位性を活かせない仲間たちを見て、手放しで「ああなりたい」とは思えなかった。 私は複雑すぎる、難しすぎる体だからこそ、信心について精神的に悩む事は少なかったんだと思います。

功徳について何を感じて(期待して)続けたのかを強いて言うなら、日々の交通安全とか、強盗・殺人などの犯罪に遭わない事とか、そういう感覚でした。

【住職ポイントw 中々お寺に辿り着けない件w】

高校生から自主的に合間を見てお寺へ行くようになると、不思議なことが起き始めた。

家からお寺までは電車とバスを乗り継いで行くのだが、お寺までスムーズに到着できない事が多かった。

電車は何とかなるものの、バスが時間通りに来ない。予定時刻の20分前から待っているのに、予定時刻を20分過ぎてもバスが来ない事も度々あった。そして、奇妙なのは自分1人でお寺へ行く時にそういう事態になる事が多かったという事。家族と行く時は、そんなことはない。

バス停で待ちながら、バス会社に電話する事も多かった。バス会社からは「もう通過した」との返事だった。

そんなはずがないw 私はバス停でずっと待っていたのに、バスは1台も止まらなかったし、目的地行きのバスも通らなかった。(他方面へ行くバスは通っていたが。)

その内、体が苦しくても歩いてお寺へ行くようになった。バス停から40分くらい歩く。かなり苦しいが、大石寺へ行くのと同じ感覚で歩いた。

(中学遍で書いたように、家族で大石寺へ行くと私だけが毎回、怪我をしたり体調を大きく崩していた。)

時には、電車からバスへ乗り換える際の交差点(ちょうど真ん中あたり)で低血糖により膝が崩れて倒れそうになったこともある。偶然後ろを歩いていた女性が背中を支えて、交差点を渡り終えるまで助けてくれたが、あんな事は後にも先にもあれきりで、あれほどの血糖の急降下を事前に察知できなかったことはない。

お寺では「ついで参りは良くない」という話も聞くので、予備校の前に寄るのではなく、お寺だけのために行く事も何度か試したが、それでもバスに乗れない事が続いたw

御講で家族と行くと近いはずのお寺がひどく遠くに感じられるが、それでもお寺へ通い続けた。

お寺へ着いて住職さんや執事さん(修行中のお坊さん)に会えるととても嬉しかったが、それは極めて低確率だった。

お寺へ行く以上、日常では出会えないお坊さんに会うのが楽しみの1つだが、苦労して到着する割にお坊さんにも中々会えない状況は、私にゲーム感覚をもたらしたw

名付けて【住職ポイント✨】w

「来ないバスに見切りをつけて、苦しい中を歩いて40分ちょっと。ついた先にお坊さんがいない」これを何回か繰り返すと、ようやくある日、住職さんに会えるというポイント制のゲームw

会えない時は、「住職ポイントがまだ足りない」という事でw

(ちなみに、住職さんが不在という事ではなく、受付の内線電話で呼ぶとちゃんと出てきてくれる。ただ、御授戒や御開扉願い、お塔婆願いの手続きをするわけでもないのに、お寺の定時ではない時間の自主的な勤行や唱題だけのために住職さんを呼ぶことは憚られる。 住職さんには、お寺の奥でお塔婆を書くなど、他にも色々なお仕事があるので。)

まだ御本尊様への唱題の功徳を実感できていない高校生当時は、お寺の御本尊様に会える事よりも、お坊さんに会える事がモチベーションのアップに繋がっていたw

(もちろん受付に人がいても、いなくても勤行はしていました。それがお寺へ行く一番の目的だったので。「功徳がわかるまで、お寺で言われている通りの事を1つずつやってみよう」その動機に基づいた参詣でした。) 

【参詣の工夫 お茶タイム

高校を卒業し、大学が所属寺院から1時間の距離に決まった事で、大学時代も講義の空き時間や帰宅途中にお寺へ寄る事を続けた。(毎日ではないが、週に数回。)   

その中で、誰もいない所属寺院の受付の前で倒れた事があった。(低血糖。)

どれくらい経ったのか、気付けば床に倒れた私に執事さんが毛布を掛けてくれていた。まだ体は良く動かせなかったが、受付に倒れたままでは邪魔になるので、自分からなんとか休憩室に行って休ませてもらった。

それから(高校時代はお寺へ行く途中の交差点で倒れそうになった事もあるので)お寺へ行く時は休憩を多くとるようにした。通り道にある駅のパン屋さんで紅茶を一杯飲んで、休んでから再び歩くようにした。実際に体調を崩す事も多かったので、お寺からの帰り道も同様に休憩を入れるようにした。

正直、時間経過を考えると「いまお茶を飲んでる間に、かなりの距離を歩ける・・お寺に付けるじゃないか」という思いと「受付で倒れて迷惑はかけられない」「また交差点で倒れたら怖い」という思い。

「大学の課題もあるし早く家に帰りたいけど、歩き出すと頭痛で吐きそう‥治るんだろうか、無事に家に着けるだろうか...」そんな不安と体調不良と焦燥感に苛まれながら、休憩していた。

そして、歩き出す時は「さぁ、行くぞ。ワッショイ!」と内心で掛け声をかけていたw 家の中ではよく声にも出していた。いつも立ち上がる時にワッショイ!と言いながら動き出す。 それくらい、体が苦しかったのだ。

高校3年間を通信制で体を休めるようにした事と、年齢的に女性ホルモンのバランスが整うとともに血糖値が安定してきたため、大学へ入学する事には体力が増えていた。その分だけ無理も効きやすくなり、体に負荷がかかっていることに気付きにくくなっていたのだと思う。

(結局、それまでよりは体力が増えただけで、健康な大学生のようにバイトや遊びにいけるほどの体力はなかったという事。)

意識的に(疲れていない時でも)休憩を入れるようにしたことで、注意力も回復し、不意の低血糖で倒れる事は少なくなった。

(後年、健康な信徒さんに「寺院参詣の前後にパン屋さんでお茶を飲んでいた」と言ったら「優雅だなぁ~」と何度か羨ましがられたw 病気で休憩が必要だった話はしているのだが、健康な人からはそう見えるんだなぁ...。^^; 現実は優雅ではなく、かなり大変だったのに。)

【参詣の励み:休憩室】

私の参詣の励みには、住職ポイントの他に休憩室での婦人部の方々との会話があった。

その時間を狙っていく事はなかったが、偶然に婦人部の唱題会の後に到着することが何度かあり、その時にはいつも高齢の信徒さんたちに可愛がってもらった。

誰かが参詣の途中で買ってきたお団子を分けて頂く事があったり、「高校生で積極的にお寺へ通うなんて偉いわ~」「病気のあるうちの孫も、同じように病気のあるあなたみたいに信心に積極的になってくれたら・・・」と褒めて頂いたり...。

その中でもっとも励みとなったのは、信心の長い高齢の信徒さんたちの経験談だった。

【お題目は、唱えればどんな口でも功徳を頂ける】【何があっても、とにかくお寺から離れてはいけない】【勤行は、やったもん勝ちだからな! やらなきゃしょうがねぇんだよ。】

休憩室以外でも、お寺で見かける度に誰にともなく口癖のように仰っていたそれぞれの信徒さんたちの経験に基づいた言葉は、今も私の信心を支えてくれる大切な教えとなっている。

これらの経験に基づく確信のある言葉が聞けたのは、戦争を含めた色々な人生経験の中で長年、信心を続けてくれた信徒さんたちの頑張りのお陰であり、そんな信徒さんたちが気軽に立ち寄れる休憩室づくり(お茶やお茶菓子をいつも絶やさず、適切に管理し続ける事。)を心掛けてくれていた当時の住職さん・奥さん・執事さんたちのお陰だと思う。

(住職さんが変わると特にわかるが、役員さんや信徒同士の努力だけでは難しい部分である。また、近年のコロナ禍のように世界的な感染症の流行があると、どんな住職さんでもこのような休憩室を作る事は難しい。 大石寺参詣のためにも、一日も早く新型コロナウイルスの特効薬が作られて普及し、感染症の流行が落ち着く事を願うばかりだ。)


【大学入学~卒業まで】

単位制の通信制高校を3年間で卒業した後、大学へ進学した。 (*´▽`*)

年齢的にホルモン周期が整うとともに病状も安定してきて、体力も徐々についてきた。アルバイトや遊びに行くことはできなくても、日々の大学の講義には十分通えるようになった。

この頃、病状は比較的安定していて、大学で倒れたのは2回だけ。その他では1回だけだった。

(小学生の頃からいずれも、「倒れる(意識不明の様子)」というのは主に低血糖時の捕食後に起きる事だった。 動けなくなる前に自分で捕食を摂ったものの、消化吸収されて血糖値が上がるまでの「待ち時間」の間に動けなくなっている状態。対処としては、転倒を避けられる背もたれ付きの椅子に座らせたり、ベッドに寝かせて時間経過を待つだけで良いのだが、事前に説明をしていても周囲は慌てて救急車や医務室へ運ぼうとする状態。

もちろん、低血糖のたびに倒れている訳ではなく、ほとんどの場合は処置が間に合うので、誰に気付かれる事なく低血糖と回復を繰り返している。 間に合わなかった場合にのみ、外見上にわかりやすく顕れる。

大学では、捕食の後に「少しでも人目につかない場所へ・・・」と動けるギリギリまで移動して廊下の端に座り込み、回復を待っていた事もあったが、それでも発見されて医務室へ運ばれた。有難いけど、申し訳ない気分になった。血糖が上がるまで、座って時間を待てば良いだけなので・・・。

ちなみに、「低血糖にならないようなコントロールを目指せば良いのでは?」というのは少し違う。長期的に見て、高血糖による合併症の確率を低く保てるヘモグロビンA1cの数字は、自己分泌がない1型糖尿病の場合、低血糖が日常的に一定の確率で起きる%となっている。 

A1cの数値が同じでも、1型糖尿病と2型糖尿病では血糖の日内変動に大きな差が生じるため、2型糖尿病の感覚で1型糖尿病のこの話を見ると「なんか違う」という印象になるだろう。逆も然り。 血糖とA1cが比例しやすいのが2型糖尿病の特徴であり、血糖とA1cが比例しにくいのが1型糖尿病の特徴である。 インスリンの自己分泌=基礎分泌の有無がこの差を生む。) 

【身障者用トイレの使い方・見える障害と見えない障害】

大学時代に部活の仲間と花火を見に行くことがあった。体力的に参加できないイベントが多かった私にとって、参加できる貴重なイベントだ。

(部活は完全に文科系。だけど、私には飲み会やレクリエーションとしての登山に同行する元気はなかった。文科系の部活でも、20歳前後の健康な大学生は体力がある。)

大学から近い距離にある河川敷での花火大会。多くの人が集まるイベントで楽しめたが、帰りがけに問題が起きた。

屋台も出ていたが、近隣にトイレが少ない事から食事とインスリン(注射)の関係には気を付けて、飲まず食わずでいた。しかしどうしても時間経過で血糖は上がり、苦しくなった。それでも花火による人混みを簡単には抜け出せず、長時間注射を打つことができなかった。高血糖の症状に耐えきれず、帰り際に身障者トイレを使用したのだが、これが部活の仲間から大きな顰蹙をかった。

もちろん、仲間には病気の事を説明していたが、必要最低限の部分であっても正しく理解されてはいなかったのだ。(この頃、身障者用トイレを「誰でもトイレ」と明記する状態はまだ普及していない。)

そして仲間から「注射に必要な3分~5分の間に、車いすに乗った人がトイレを使おうとして、困って他の場所へ行った」という話を聞いた。 つまり・・・最悪のタイミングだった。

しかし私もまた、花火会場から駅前の飲食店など安全に注射が打てる場所までの距離は遠く、長時間の高血糖で歩き続ける事はできない状態だった。車椅子の人には申し訳なかったが、如何ともし難い状況だった。

しかし、部活の仲間からは大顰蹙。理由を話しても何一つ聞く耳を持たれる事もなく、しばらくは口もきいてくれなくなった。

1型糖尿病だけでなく、内部疾患の患者は外見から見えない分だけ、意識不明になるなど自分で対処できないほどの事態にならなければ、周囲の理解を得られない現実がある。

【自分で対処できるうちに手を打つ、という当然の行動に顰蹙をかう】という異常な事態の原因は、ここにある。

※市区町村が発行する【ヘルプマーク】ステッカーが登場するのは、

ここから15年近く経った後の事。

2021年現在でもまだ完全には普及しておらず、知名度もやや低い状態だ。

ちなみに、この部活の仲間たちは特に悪い人たちではない。ごく普通の大学生だ。しかし、健康に恵まれているために、特殊な慢性疾患を抱える体の事情を理解しきれない。

私が登山に不参加を表明した時、リーダーの機嫌が非常に悪くなった事を覚えている。温厚で普段は感情を表すタイプではなかったが「体調は僕らが手伝うから大丈夫なのに、どうして行かないのか」という感覚だった。

私にしてみれば「何をおっしゃるウサギさんw 注射の必要性さえ理解していない貴方がたとの登山に同行するなんて、そんな怖い真似はできません。」というところだ。キャンプやハイキング程度の登山ならまだしも、富士山へ御来光を見に行こうというのだから。

高山病にでもなれば、通常のシックデイ対策(インフルエンザや風邪の際に必要な、日常とは異なるインスリン調整の事)では追いつかなくなる可能性もある。山登りができるほどの地方に、1型糖尿病を診察できる医療機関などないのは確実で。そんなリスクだらけのイベントに参加する事はできない。

結局、花火の時も登山の時も、私は病気については説明していた。そして、彼らも頭の中だけでは理解したつもりになっていた。けれど、私の外見や雰囲気から【とても病人には見えないので、日常的に医療が必要となっている現実について、認識が付いてこない】という状況だ。

部活のリーダーは手塚治虫のブラックジャックに憧れる男の子だったが、漫画と現実の病人の違いはわからなかったようだ。健康なだけにね。

【家族間でも起きる。健康な家族による無理解。】

大学卒業後、バセドウ発症中の20代半ば頃の話。

年齢を重ねるにつれて、体力や体調の変化を前もって予想する事が正確にできるようになってきた。おかげで家から病院への救急搬送は減っていったが、家族の理解を得られにくくなった。

母の実家に帰る予定があり、父と姉、私の三人で向かうはずだったが、その日は体調が悪く、予定通りに出発すると確実に外で体調を崩す(歩けなくなる)事が予想されたため、父と姉に先に行くように頼んだ。(母は実家の用事や準備で数日前に出発していた。)

すると、父と姉はそれに対して理解ができず、私に対して「何なんだお前は! どうして一緒に来ないんだ!」と強要した。

喧嘩になったが、私はそれでも体を守るために1人家に残り、体調を見計らって出発した。

子供のころから私と一緒に過ごし、家の中でも学校でも助けてくれていた家族だが、それでも、理解できない部分が多いという事を知った。また、私が子供のころから家族や周囲のペース・雰囲気を乱さないように気を使って(日常的に無理をして)行動していた事も仇になったと、この時実感した。

大学時代、部活仲間に理解されなかったのも、無理はなかったのかもしれない・・・。


【母の縁。離婚問題いろいろ。】

高校時代から、少しずつ母の悩みを聞くようになった。母から見て、程よく話せる年齢になったと感じたのだろう。

病気によって心配をかけることが多いわりに、できる事が少ない私にとって「話を聞く事で、少しでも役に立てるなら...」と、最初は喜んだ。姉が誰にでも即座に明確に物を言うタイプなのもあって、私は話を聞く事に徹した。

母の話は、主に父親との関係・離婚問題についてだった。

父は悪気のある人ではないし、優しいところも沢山ある人だが、その反面・・DVな気質を持つ人だった。行動として大きな暴力を振るう訳ではない。(私も姉も、何度か蹴られたり物を投げられた覚えはあるがw)具体的には色々な問題があったが、長くなりすぎるのでここでは割愛し、特徴的な行動を1つだけ挙げる事にする。

それは姉と私が赤ん坊だった頃。若い父のお給料はまだ少なく、母は家計のやりくりに真剣に取り組んでいた頃のこと。

今現在も続く父の様々な問題について、母は悩んだ末に離婚を考えた。

ある日、普段から仕事で帰宅の遅い父に宛てて、母は自分が記載した離婚届を居間のテーブルに置いた。

翌日、母がテーブルを確認すると離婚届はそこになく、代わりに、ゴミ箱の中にビリビリに破られた離婚届の破片があった。これは数回破った程度ではなく、かなり細かく破られていたそうだ。

その後、父から母に何か話がある事はなく、普段通り何事もなかったように機嫌よく母に笑顔で話しかけていた(この異常性!)。そして、父の問題行動が改まる事もなかった。大企業に勤めて常に忙しかった父とは、母もそれ以上、離婚や悩みについて何も話しかけることはできなかったそうだ。

当時の家の状況は、2歳~3歳の姉と、生後数か月~1歳の私。重い喘息で夜間の点滴に連れて行く事が度々ある幼い子供が2人いる状態。さらに、母自身の実家の協力は得られにくい事情があった。(詳細は省くが、駆け落ち結婚ではない。)

そんな厳しい状況にもかかわらず、離婚を考えるほど大きな問題を抱えていた。

妻が記載済みの離婚届について、それがどういうことかを話し合う事もなく破り捨てた夫。それだけで、その行動1つで十分な離婚案件だ。もし夫婦間の問題の詳細を知らなかったとしても、そんな人間と結婚生活を続けることはできないと感じられる。夫は話し合うこと自体を拒否しているのだから。

母は手に職を持っていたが、子供の年齢と健康状態を考慮すると離婚できず、この時に奪われた気力が戻ることも簡単ではなかった。

その後、数年で母親自身が骨髄縁で大きな手術を受け、術後も顎の炎症や潰瘍性大腸炎の発症による体調不良で寝込む事が増えていく。その中で、父親による邪宗への初詣、私の1型糖尿病の発症などが起きた。

(日蓮正宗に最初に入信したのは、母方の祖母である。母自身も学生時代は日々の勤行と唱題に励んでいたが、宗教に無関心で形式だけに憧れる父親と結婚してからは、子供の御授戒はしても、家の御本尊様には三唱だけの状態が続いていた。)

私が高校に入学してから10年間ほど、時々母の話を聞く事があったが、その度に私は母に言ってきた。

「結婚してから一体、誰が幸せになったの? お父さんだけでしょう?」と。

「重い病気のお前の状況を思うと、とても離婚できない(できなかった)」と常に言う母に、私は最初こそ納得していたものの、高校時代から徐々に安定してきた体調もあって、じきに気が付いた。

これは私の健康状態が原因で離婚できなかったのではなく、母自身が問題を先送りにする選択を主体的にしてきたのだと。

子供の目から見ると、当事者の母よりも客観的に見えるものがある。母は子供の難病を理由に、自分自身が向き合うべき問題から逃げ続けてきた事がわかってきた。

事実、サマーキャンプで知り合った患者仲間の親の中で、子供が1型を発症後まもなく離婚した夫婦もいた。大変ではあっても、できないことではなかったのだ。

まして、私の体調は高校生から25歳までの10年間、比較的に安定していた。この間も、何度となく離婚の話や父親の問題について母から話を聞いたが、それでも離婚をしなかったのだ。

(離婚にあたり、メリットとデメリットを考えた時、メリットを大きく上回るほどのメリットがあった。それほど、父の意識や言動が生活に与える悪影響は大きかったにも関わらず。)

どんな事情であれ、自分の抱える問題を正しく理解し、どうしたら良いかという判断ができている状態でも、実際の問題解決に向けて努力をしない(離婚を選択しない)母親。熟年離婚の本を買うばかりで、現実的にどういう準備がどれくらい必要かを専門家に相談さえしない母親。準備万端に整った離婚などあり得ないのに、それを目指して遠い夢ばかり見る母親。

思うところは色々あるが、最終的に私は気が付いた。高校時代から精神を病み始めた患者仲間について考えた時と同様の結論に至った。

「できるはずなのに、しない状況。嘆く割に、そもそも本人が具体的に解決しようとしない。」

私はここから、問題解決について行動できない理由を考えると、最終的には「それができたら、その人ではない。」という可能性に確信を持った。「今の段階でそれができないからこそ、その人」なのだ。

「その本人の理解力・判断力・行動力と運と縁を整えるために、勤行が必要だ」と思った。

どんな事情であれ、他人のアドバイスや正しい情報を受けて実行できる状況なら、悩まないからだ。

その人なりの思考、その人なりの納得の仕方で、自分自身を救う正しい行動が取れるように。その状況が作れるように、今生の人生を作る材料となった過去世の因縁や罪障を法華経の修行で(唱題等で)転換する必要がある。

それは努力とやる気が伴い、周囲から良い縁もやってくるのに、それらを活かしきれない体の状況の悪さに悩み続ける私もまた、最終的にはそうなのだ・・・。

私の場合、洞察力や判断力、行動力には優れているが、とにかく体がついてこない。種々の悩みが解決できない理由は、そこに尽きる。医療的にできる事をやっている以上、あとは祈るしかないのだ・・・。

【就職活動・推薦状のオファー】

就職活動が始まった頃、2か所から同じ銀行への推薦を貰える話があった。1つは大学からの学長推薦で、もう1つは所属寺院の信徒さんからだった。

就職難の状況で非常に有難い話だったが、銀行の就職説明会に参加した結果、非常に残念ながら断る事となった。

銀行は非常に空気の悪い場所にあり、説明会の往復を1回しただけで喘息発作を誘発し、薬を飲んでも数日間は息が十分にできなくなってしまったからだ。1往復でこの状態(大気汚染の濃い場所から離れても、影響が数字つづく状態)では、入社して毎日出勤する事に耐えられる体調ではないと感じた。

もちろん、銀行には複数の支店があるため、説明会の会場とは他の場所で勤務する事も考えられたが、銀行によると入社後、数か月~1年は説明会場となった場所に勤務するとの事だった。

喘息薬の調整で何とかならない物かと悩んだが、よく効く薬は続けて飲むと2週間ほどで生理が止まってしまうし、女性ホルモンのバランスが崩れる分だけ血糖調整も難しくなる。何より、どの薬も1日飲んで8割方回復するわけではない。

勿体ない話を棒に振らざるを得ない健康状態に、脳内ヘッドバンキングをしていたw

実は、こういう事態は大学生になる前にも度々あった。良い材料、良い人の縁がありながらも、身体的事情で活かせない。小児専門病院で良い専門医と巡り合えても、女性である(成長すると婦人科が必要になる。腹痛の場合に対応しきれなくなる)という理由で転院を余儀なくされる等・・・。

就職での学長推薦の話も、狙って大学生活を送ってきたわけではないが、体力の保つ限り必死に日々の講義と課題に取り組んでいた結果のはずで、所属寺院の信徒さん(銀行の管理職)からの紹介も、高校生から日々の参詣を心がけていた結果な訳で。 けれど... この体の弱さが邪魔をする。

小児専門病院から移る時、私は何度も頼んだ。「将来、結婚しても子供は産まない。結婚自体、するかどうかもわからない。だからどうか、男性の患者と同様に、成人後もこの病院に居させて欲しい。」けれど、健康リスクと性別はどちらも変えられない事情という事で、本当の専門医に乏しい通常の病院(大学病院含む)へ移る事となってしまった。それから。現在に至るまで病院を点々とし続ける事となる。調整が難しいのだ。

(これは私だけでなく、女性の1型糖尿病患者によくある話。男性の患者さんでも、「1回、良い主治医に出会ったなら、手放してはいけない。仕事で転勤があろうとも、通える限り同じ主治医に通い続けるのが大事」と言われるくらい、1型は未解明な部分の多いTH1の異常を原因とする難病で、調整が難しい病気なのだ。

個人差も大きく、インスリンが焼け石に水の状態でまるで効かずに退院できない男性の患者さんがいる一方で、スポーツ選手として活躍し、まるで血糖の調整が努力だけで可能であると言い切るかのようなオメデタイ人もいる。)

20歳以前の人生でも、勿体ない話を健康状態で棒に振る事は他にも度々あった。

努力の甲斐なく噛み合わない歯車に、祈るしかない日々が続く。

※就職活動では、どの会社でも持病については明かさなかった。

もし職場に伝える場合は、必要に迫られた時か

勤めてから5年は経ってから(業務に支障がない事を示してから)にしようと考えていた。


【就職~バセドウ発症、退職まで】


大学を無事に卒業して就職した私は、月収を得るようになった。

自分で自分の毎月の医療費を支払える事、(父の扶養を外れて)自分の健康保険証を持てた事、自分のお金でお塔婆を立てたり、お寺に御供養できる事がとても嬉しかった。努力の結果を正当に手にしたこと、ようやく人並みの事ができるようになった事に満足し、御本尊様に感謝するとともに毎月1回の添書登山を始めた。

仕事は全てが順調という事はなく、最初の就職先(学生時代に内定を取った会社)が就業2日で会社側が重要な雇用契約の取り決めを破ったことで転職せざるをえなかったり、2つ目の職場では、新入社員全員が辞表を出すような酷い扱いがあるなど、スタートは波乱もあった。それでも、私の中では過去の人生に比べれば母集団の多い問題であり、辛くはなかった。

色々あったが、大学を出て半年後には落ち着いて仕事ができるようになった。

朝に満員電車に乗って出社、会社付近のコンビニで朝のお茶を買い、楽しく仕事♪ 残業はたまにあるくらいで、毎日ではない。帰りは乗換で寄る駅のスーパーで夕飯の買い出し。帰宅後は家で仕事をしている母に声を掛けつつ、簡単な夕飯を作って終了。

この頃(私が高校入学したくらいから)父親は単身赴任で平日は家にいなかったため、母は気力を取り戻した。所持している国家資格を活かして学校で講師をしたり、教材を作るなどしていた。

(父は単身赴任にも関わらず、毎週 土日は家に帰って来たw 「これは単身赴任ではなく、出張ではないか?w」と家の中で話題になった。 もともと父の仕事は海外出張が多く、家に居ない事が多かったせいもある。休日でさえ、家族を振り返らずに1人で映画を見に行ったり、1人で早朝から買い物に出掛けるなどの独身的な生活をする人だった。なお、単身赴任先は国内だった。)    

夜は相変わらず血糖の番をしていたが、それでも比較的安定していた。夜0時近くに時計を見て「今日もようやく終わった・・。よく生きたわ...」と、体のメンテナンスに集中できる時間がやってきたことにリラックスしていた。

仕事は土日が定休。土曜日は寝て、日曜日は掃除の日としてバランスの取れた生活をしていた。

仕事でストレスが溜まった時は、趣味の料理や製菓で発散w パイやタルト生地など手間のかかるものを作ってリフレッシュしていた。


【職場と1型糖尿病】

仕事のストレスとは、主に人間関係のストレスだった。人間関係というか、誤解というか...。(仕事自体には、何も問題はなかった。)

仕事の上司(部長)が私のトイレ時間(注射や血糖測定による退席時間。いつも5分~10分以内に席に戻っていた)について、長いという不満を持っていたらしい。

私自身は気付かなかったが、同僚や先輩社員が詳しく教えてくれた。

しかし、先輩たちが言うには・・

「あなたのトイレ休憩は普通だ。別に長くはない。これまで、異常にトイレ休憩が長い社員に対して何も言ってこなかった。私たちが伝えても、気に留めないくらいに。その休憩の長い社員がトイレで何をしているかと言えば、いつも化粧直しばかりしていた。普通は化粧直しで30分や40分も時間を取ることはない。あれを注意しないで、あなたに注意をするなんておかしい。」

「今のあなたの席は、ちょうど部長の席からよく見える位置なので、それで気になっているだけだ。 部長自身、脳梗塞で倒れる前は酷いヘビースモーカーで、しょっちゅう喫煙所で時間を潰していた。仕事で相談したい事があるのに、いつも姿が見えないなぁと思えば、喫煙所にいる人だった。部長はあなたの事も、誰の事についても、何も言える立場ではない。」 

との事だった。

そして同僚も、「あなたの休憩時間は私たちと変わらない。業務にも支障は出ていないし、私たちと1日の仕事の平均件数は同じだけ仕上げている。何も問題はないように見える」 と言ってくれた。

私は良い同僚、良い先輩社員に恵まれていた。彼らを信じて、1型糖尿病について少し話す事にした。

すると、先輩社員か他課の部長から報告が上がったのか、それから部長は私に少しだけ気を使ってくれるようになった。(覚悟をしていたが、解雇にはならなかった。)

今思うと... 当時、同じ部署に1人だけ、変な先輩社員がいた。この一件以降、その人が急に私を陰ながらイビルようになったので、もしかするとこの人が・・・部長にあらぬことを話していた可能性がある。 当時は全く気付かず「どこにでもいる変な人」としか思わなかったが...。


【バセドウ病の発症と退社】

そんなこんなで、仕事を始めて1年近くが経った頃。夏に体調の異変を感じた。強い動悸と、座っていても安定しない程のめまい・ふらつき。高血糖による動悸とは明らかに違うと感じられた。

季節のせいもあり、疲れているのだろうと休んでも、治ることはない。通勤中に途中下車をしてホームの椅子で休むほどだった。漢方薬の五苓散を飲んでみたが治らない。駅員さんに発見されて、駅員室で少し休ませてもらった事をきっかけに、病院で1型を診てもらっている主治医に相談した。

いつもの採血をしたところ... そこには糖尿病以外の異常は見当たらず、何より主治医が高血糖による症状だと信じて疑わなかったために、他の病気の検査項目を入れていなかった。

(腎機能や肝機能、アルブミン、血球などの項目はあるが、患者の訴える自覚症状から考えられる他の病気の可能性、項目について見当を付けていなかったという事。)

その内に、秋から思い当たりのない体重減少も見られるようになるが、それでも「高血糖やケトン体が出る時の動悸とは明らかに違う。実際にはケトンは出ていないし、200程度の血糖で1歩あるくだけで息切れなんておかしい。」という私の主張は聞き入れられず、主治医は血糖を下げるように指示するだけだった。

(この主治医の判断は、明らかに2型の糖尿病を基準にしていた。 2型の患者は基礎分泌がある分だけ、血糖の日内変動が少ない。そして、100台の血糖値をキープしている場合は200台に上がるだけで強い息切れを起こす。 体が慣れていないからだ。 1型の場合は日内変動が大きいため、20代の200や300台で息切れを起こすような事にはなりにくい。) 

動悸などの自覚症状が強くなるにつれて、耳の症状が出始めた。

仕事中に耳が痛くなり、聞こえ方が左右で異なるようになった。右耳は普通に聞こえるのに、左耳は常に飛行場のような轟音が聞こえるようになった。そして痛い。電話を左耳で取る事ができなくなった。

実は、仕事はイヤホンを常に両耳に入れて音声を拾う作業が多かったため、耳鼻科ではその影響を指摘された。一過性であっても、その業務を完全にやめて安静を取らなければ、生涯にわたり繰り返す事になると言われた。

そうして。強まる動悸にも体力の限界を感じていた私は、突発性難聴の診断と共に労災認定をもらって退社した。

(その後、1年くらいで聞こえ方は改善したが、ここから15年近く経った今でも、左耳では電話を取れない。

左耳の音はやや遠く聞こえる状態なのに、電話を受けると少し痛みやすい。)


【バセドウ病の診断】

夏に始まった動悸は、少しずつ強まるものの主治医は頑として糖尿病以外の可能性を考えなかったため、病院を変えることにした。

(ちなみに、この時の病院は順天堂大学病院。大学病院の特徴は、若くて経験がない割に、無駄に自信とプライドの高い医者がいる事と、本当に熟練した専門性の高い医者がいる事。そして、大学なだけあって、主治医の転勤や交代が生じやすいという事。 順天堂に移ったばかりの時は良い主治医だったが、その後に転勤してしまい、若い経験のない主治医に交代されてしまった。経験があっても頼れない医者もいるが、まぁ...。運と縁なんだろう。)

病院を変えるには、今の主治医に紹介状を書いてもらう必要がある。言いにくいなぁ・・・と思いながらも紹介状を依頼すると、捨て台詞を吐かれた。

ニヤニヤと笑いながら「どこの病院でも、変わらないと思いますよ!」と一言。

私はこれに笑顔で「そうですか。お世話になりました」と応じて退室。

その後、他の病院で検査をしたところ、心臓のホルター検査で異常がわかり、改めて採血をしてバセドウ病が判明した。


【療養~再就職~悪化~退社まで】

最初の症状が出たのは7月。その年の秋に退職し、翌年の1月に診断がついた。

移動した病院で服薬による治療を開始したが、一向に改善しない。薬を飲まないよりは良いけれど...というところだ。新しい主治医は「甲状腺は僕でも診察できるから大丈夫」と言ってくれたが、甲状腺の専門医ではなかった。

(1型も甲状腺も同じ内分泌ではあるが、甲状腺は分野として奥が深いので、甲状腺専門の医師の方がより確実な場合が多い。)

そんな中で半年以上過ごし、医療系NPO法人に再就職をした。この職場は医師が理事長で、医師・看護師・薬剤師などと仕事で話す事が多く、私にとって万が一の時に理解を得やすい環境だった。


【甲状腺の主治医を探す旅】

改善しない甲状腺の数値と体調不良に、何度も主治医にお願いを繰り返した結果、ようやく同じ病院内の甲状腺科へカルテを回してもらった。

甲状腺の医師は最初の問診で簡単な検査をしたところ、私にこう言った。

「では、椅子に座ったまま腕を前へ伸ばしてください。 あ、姿勢が違うな。腕の位置が・・・もうちょっとこう・・・」

そう言って、私の背中や肩に軽く触れた。 その瞬間・・・

「ん・・え? ちょっと、あなたこれ・・ なんでこんなに力が入ってるの!? これじゃ、硬くてちゃんと検査できないよ。肩の力を抜いて! だめ、もうちょっと。もっと!」

私『いえ、あの、力は入れてないです。普段からこんな感じで・・・。 ・・・無理。ここまでです! これ以上、力を抜いたら倒れます💦』

「いいから! 僕がいるし、後ろには看護師さんもいるから! 大丈夫だから!」

書くと数行だが、この小さな攻防?は意外と続いたw

そうして甲状腺の医師が言うとおりに何とか力を抜いたところ、前に伸ばした手がガタガタと低血糖のように震え出した。(手の小刻みな振るえは、甲状腺機能の亢進に伴う症状の1つ。)

そこで医師はようやく納得したw

採血による甲状腺の数値の割に、平静に見える私の様子に違和感を感じていたらしい。そして、私は無意識のうちに体に力を入れて、震えとそれによる動作の不便をカバーしていたとの事だった。

甲状腺科の診察の結果、今度は再び別の病院へ移動する事となった。しかし、ここでも結局改善せず、それどころか悪化していった。これは都内の慈恵医大病院の話。

慈恵での主治医は、1型で有名な医師だった。若く見えるが、当時専門誌でよく名前を見かけた人だ。最初にバセドウを診断してくれた医師が、色々気を使って有名な医師に宛てて紹介状を書いてくれた。

しかし、この有名な医師は... のちにハリボテだと判明するw ここではそのハリボテ具合よりも、私に限定したところを記載する。

(簡単に言うと、医学会で自分の評価を上げるために、

患者に無茶な要求をしたり、患者の存在・データを消す人だったという事。

「僕の患者にはA1cが〇%以上の人は1人もいない」などと事実と全く違う事を豪語する人だったらしい。)


【ホテル暮らしと体調色々 ~ 転院の旅】

それだけで血糖上昇作用のある甲状腺ホルモンが増えて、病気が相互に悪化の一途を辿る中で、私は仕事のためにホテル暮らしを始めた。平日は職場近くのビジネスホテルに滞在し、週末に家に帰る状態だ。ホテル滞在のために貯金はできなくなったが、それでも社会保険は完備される。厚生年金や保険証は手放したくなかった。

この期間中、数年前の歯の治療ミスで歯神経が腐り始め、かなり痛い日々を過ごす。歯医者へ行っても「なんともなってない。知覚過敏ではないか」と言われるばかり。歯医者を変更してようやく原因が判明し、治療を受けて治すことができたが、歯が痛すぎて体の末端が冷えたり、奇妙にくすぐったくなる状態には、2カ月ほど耐える事となった💧

数年前に病巣をしっかり治療できていなかった事に一番の問題があるのは確かだが、バセドウ病と1型糖尿病で血糖とA1cが上がっていたこの時期、納得の悪化だった。

それほどに甲状腺数値の悪化は深刻で、慈恵の主治医は放射線治療を提案してきた。放射線で甲状腺を焼き、甲状腺ホルモンの分泌を永久に停止させる方法だ。これを行うとホルモン過多による動悸などの症状や、血糖値の上昇を抑えることができるものの、甲状腺ホルモン低下症を引き起こす。

放射線で焼いた甲状腺は元に戻らないので、今度は生命活動に必要な分泌を薬で生涯補い続ける必要が出てくる。

私は悩んだ。まだ他に試してみたい治療方法として、インスリンポンプの導入があったからだ。これは1型糖尿病に対する治療方法で、甲状腺に直接影響を与えるものではないが、生涯を大きく左右する放射線治療に踏み切る前に、一度 試したかったのだ。

インスリンポンプ(皮下に入れる小型の24時間点滴のようなもの)のメリットは、基礎分泌の役割が果たせるという事。これは、注射と違って効果の切れ間がなく、血糖値を安定させやすくなる(そして、高血糖による合併症を防ぎやすくなる)という意味を持つ。

甲状腺の数値に影響は与えないが、甲状腺ホルモンの過多による血糖上昇を抑える足しになるのは間違いない。二次被害を軽くできる可能性があった。

デメリットは、低血糖を起こしやすくなる点がある。とくに就寝中の低血糖には、今まで以上に注意が必要となってくる。

しかし、甲状腺ホルモンが増加している当時の状況では、メリットの方が大きいと私には感じられた。何より、インスリンポンプが体調に合わなければ、取り外せば良いだけの事。着脱は自宅で簡単にできる物だった。

当時はポンプについてここまで多くの情報を手にしていない状況だったが、主治医に放射線の前に試したいと訴えた。すると、主治医は理由も言わずに大反対した。

本当に医師なのか(問診という対話や説明が必要な職種の人なのか)疑わしいほど、頭を大きく振って叫びながら拒否した。主治医は大声を上げていたが、私は努めて冷静に、落ち着いて理由を何度も尋ねたが、頑として言わない。ポンプの詳しい情報さえ言おうとしない。

この医師は、注射が嫌で鬱になったという精神的な理由でポンプを求める患者には、スムーズに処方している。それにもかかわらず、医療的に(身体的に)必要な状況にある私には反対するのだ。

「だめだ! ポンプを使うなら、甲状腺を焼いてからだ! 大体、そんなにポンプが欲しいって、あなたは一体何がしたいんだ! どうしてそんなに欲しいんだ!」

この主治医からの問い。何度目かの応答に、私もさすがに苛立って答えた。

『私はただ、(血糖の変動と手当てに夜通し追われる事なく)夜を静かに継続して寝たいだけです!』

「だめだ! 無理だ! そんな薔薇のような日々は、あなたには一生来ない!」


・・・ ( ̄▽ ̄;) は? 薔薇のような日々ってアンタ・・・💧


ドチャクソ腹が立ったw 立ち上がって自分の椅子を主治医に向かって蹴り倒したくなった。

人が大人の対応をしていれば、どこまでもクソガキな態度で主張してからに、挙句・・・

理由も言わずに将来を閉ざすような事を断言する。可能性の未来、人体の可能性を無視した発言をするとは! 医者の風上にも置けないクソ野郎!!! 体調を安定させて真っ当に寝たいという生存欲求自体が薔薇の日々を表すと? 冗談じゃない! 

この時ほど、私は筋トレなどに興味を持たなかった事を後悔したことはない。たとえ逮捕されようとも、一発殴っていただろう。

しかし、実際にはヨレヨレの体と、自分の理解力と洞察力、状況判断力が暴力的な衝動を抑えてしまった。甲状腺ホルモンの過多によってアドレナリンに似た興奮性も高いはずだが、急に頭から水を被ったように冷えてきた。

何より、この病院を去る(主治医を変更する)としても、次の病院への紹介状を依頼する必要もある。紹介状がなくても初診料を払えば診察は受けられるが、病気が病気だ。たとえ名ばかりであっても、専門誌や学会で多く名前を聞く医師の縁で書かれる紹介状には価値があるだろう。

どれだけ腹が立とうと、切る事はいつでもできる。使い道はまだ、多少なりともあるのだ。

(有名な医師には、多くの情報と縁が集まる。より病状に見合った病院への紹介状を手にしたい状況では、紹介状を貰うまでは たとえ見え見えでも波風を立たせずに去る方が望ましい。)

理由は不明だが、今の目の前の主治医は幼い駄々っ子のような様子である。これにどんな言葉をかけても、どんなアプローチをしても無駄であることが伺える。

椅子を蹴って診察室を出たい衝動を抑えて、駄々っ子を宥めるように、私は殊のほかゆっくり、主治医の言葉をそのまま繰り返した。

『では、先生としては甲状腺を焼くまでは、ポンプは導入しないと。そういう、お考えなんですね。』

「(机の上に両手の拳を置き、下を向いたまま小さく頷く)」

『わかりました。それでは(失礼します)。』

再び椅子を蹴倒したい衝動に駆られるが、立ち上がった瞬間、主治医の後方に控えていた年配の看護師が、私に非常に深く、申し訳なさそうにお辞儀をしたのが見えた。

駄々っ子のような医者の御守りを日常的にしているのだろう看護師に敬意を払って、私は普段通りに落ち着いて診察室を出た。

私は、なんて下手な・・ 物わかりの良すぎる損な患者なのだろう・・。


【病を見ず、病人を見よ】

院内の壁、吹き抜けの高い位置に貼られた創業者のスローガンが見える。その意味は素晴らしい。医師に問診の必要性、療養に必要な患者を取り巻く様々な要因(患者の思考や患者の療養環境)をも考察する必要がある事を教える、大事な内容である。

1型の主治医が血糖を波乱に導くバセドウ病にフォーカスする理由はわかる。それも治療方法の1つである事は確かだ。しかし生涯を大きく左右する治療方法に、私はまだ納得できていない。何より、ポンプを否定する理由を一切言わないのだから。

主治医は慈恵医大で何を学んできたのか。実行できていないからこその、スローガンでもあるのだろうか。 オフィスの壁の、禁煙と書かれた紙がヤニで茶ばんでいるのと同じような物か...。

広い病院の廊下を歩きながら怒りを冷ましていると、落ち着きが戻ると同時に悲しくなった。治療について改めて冷静に1つ1つ考えた結果、切れるカードが他に見当たらなかったからだ。バセドウによる動悸などの苦しさと代謝の亢進による体重減少、感情の起伏。抑えて、抑えて・・・。

毎月の通院では病院の最寄り駅からタクシーを使ってさえ、かなり息が上がって苦しい。

ここまでやって、なお。これ以上どうできるのか。どんな手があるのか。万策尽きた感覚に、さすがに泣けてきた。 

当時の慈恵は、インテリアとして大きな観葉植物の寄せ植えを院内の各所に置いていた。熱帯植物園(特にドームの中)が大好きな私は、この寄せ植えの近くの人目につかないベンチでしばらく泣いた。ここで泣いて、家に帰ったら家族にわかるように話そう。落ち着いて。丁寧に話せるように...。



【結論:餅は餅屋w】

その後、母と話し合ってひとまず甲状腺専門病院へ行くことになった。放射線治療を強く勧める主治医もこれには反対していない。(ぜひ行ってこいという感じだった。主治医は放射線が先で、それが今すぐ必要だという自分の判断に100%の自信を持っていた。)

私は甲状腺の手術よりも先に1型のポンプを希望している【患者の意志】を、何があっても主張する事を念頭に、恐る恐る伊藤病院(全国から患者が集まる甲状腺専門の病院)を受診した。

ここで、私はとても良い医師に出会えた。

発症当時からの甲状腺のデータや症状(自覚症状や眼球突出の有無・首の腫れなど)をよく見た上で、患者としての意志を尊重する時間は十分にあると言ってくれた。

「今の状態で慌てる必要はありません。甲状腺の数値があなたより大きく悪化していても、服薬だけで様子を見る患者さんはこの病院には沢山います。

甲状腺ホルモンによる血糖上昇と長期化は確かに気になりますが、一生を左右する放射線治療の前に、あなたの希望するインスリンポンプを試してみるのは良い事だと思います。」

この言葉を聞いて、私も母も本当に安心した。

(母は、慈恵で紹介状を貰う時と伊藤病院の外来に付き合ってくれた。慈恵での主治医の駄々っ子状態と治療方針の交渉決裂について、私の話を半信半疑に思ったらしく、紹介状を依頼する最後の外来に付いてきた。 そして「お前の言うとおりだった」と言ったw 子供のころから体力も肺活量も少ない私が、自分から喧嘩や口論を吹っ掛けるタイプにでも見えていたのだろうかw)   

甲状腺の主治医のお陰で気持ち的にも時間的にも余裕ができたところで、今度は次の1型の病院探しが始まった。考えた末に、9歳発症当時から高校卒業までお世話になっていた県立こども病院の主治医を探すことにした。小児専門の医師だが、仕事の経験から今の私の状態にお勧めの病院や医師の心当たりを聞いてみることにした。バセドウを発症していたこの時期、昔の主治医は勤めていた病院とは異なる系統の大学で教鞭を取っていた。

いくつかの情報を得て、私はようやくインスリンポンプに前向きな医師に出会う事ができた。

ポンプを導入すると3カ月ほどで不思議と甲状腺数値が下がり、薬の量も減り、バセドウ病は寛解。以降、経過観察の時期に入る事となった。

経過観察の中で、ある日、採血結果を見ていた主治医が言った。

「このデータ・・・ もしかすると、橋本病だったのかもしれない。首は腫れてはいないけど、ふむ...。(触診する)良かった。放射線で焼かなくて本当に良かった。焼いていたら大変なことになっていた。良かったわ~。」

そして、甲状腺ホルモンの数値がインスリンポンプの使用をきっかけに下がった理由はわからないとの事だが、結果オーライという話だった。



【信心と家庭状況(バセドウ発症~落ち着くまで)】

就職からバセドウが落ち着くまでの4年間には、本当に色々なことがあった。まるで10年間くらい経過しているような気分になるほどだ。

この間の信心は、バセドウを発症後も自分で続けられる限りは毎月の添書登山を行った。バセドウがいよいよ悪化して医療系NPO法人を退職してからは、母が車で連れて行ってくれるようになり、2人で行く毎月の御開扉が始まった。

父親が日蓮正宗の御授戒を頂いたのも、この頃だっただろうか...(バセドウが落ち着いてからだったかな?w) 



【父の御授戒】

私がバセドウの悪化で職場付近のビジネスホテルに泊まり出したころから、両親が家の中で話し合う事が増えてきた。父親の性格上、話し合いにはならないのだが、母が勇気をもって向き合い始めたのだ。

母は両親の揉め事を、特に父親の問題点を子供には見せたくない人だった。普段仕事でいない父親の存在や親としての居場所を、子供の中に作るよう心掛ける人だった。 その分、母が父の問題点・改善してほしい点を本人に伝えたり、相談する機会も少なかったのだが、私が平日に不在となって、父に直接話せるようになったようだ。

(母は黙っているタイプではないが、問題は父があまりにも・・・ 現実に対して逃げ腰・及び腰で、その場しのぎの適当を言って、話し合いという一緒にいる時間を作らないようにする人である事が問題。その原因も問題の内容も、もっと色々あるが割愛する💧  高学歴・高収入エリートの本当のアスペルガーとか、多動性症候群とか色々・・ しかし、本人に自覚がなく、成人の世帯主なので家族が病院に連れていく事もできず「疑い」の状態で、家族への被害だけが増え続ける💧)

何度か繰り返した母との口論の末に、離婚を避けたい父は渋々御授戒を受けたという経緯である。

それからは、毎月の御講には家族で参詣するようになるが、家での勤行はしない。家ではたまに三唱するくらい。御講も家族が前日の夜からしつこく声を掛けないと来ない。1人で早朝から映画や買い物などで遊びに出かけてしまうからだ。

そもそも結婚後も独身の生活スタイルを貫きたい人なので、休日でも家に居ない事が多い。まぁ・・DV傾向のある人にずっと家に居られても困るが。

私が中学・高校時代に、母は「これ以上、この人と一緒にいるのはもう無理だ」と感じて必死に唱題に励んだ結果、私が高校に入学した頃くらいに父の単身赴任が決まり、大学時代に再度の単身赴任が決まった事からも、両親は一緒にいて良い関係ではないと伺える。

(父の休日は毎週、家族の誰にも声を掛けられない早朝に家を出て、夕方まで買い物や映画館で一人楽しむという、家庭を顧みない人。結婚当初からあまり変わらないらしい。なので、御講には前日から家族でしつこく予告しないと参詣しない。 それでいながら本人は「自分ほど家族思いの良い夫、良い父親はいない」と思い込み、自分の職場などにはそう豪語していたようだ。

実際は、母が38度の熱を出して寝込んでいても「今日は一緒に買い物に行くと言っていたのに、どうして行かないんだ!」と不機嫌をあらわにし、無理やり連れて行く人なのに。これは子供に対しても、誰に対しても同じ感覚である。 相手の外見が子供の状態の時や、外出中など人目がある場合は多少カバーされるが、子供が成人すると大差なくなってくる。それでも、本人は自分ほど良い人間はいないと思っているので、夢の中で生きているような人だ。 

ジキルハイドとは言わないが、良くも悪くも瞬間・瞬間で人格が変わる印象がある。性格だけでなく実際の記憶や認識さえ瞬間的に大きく変わるので、仕事でも堪り兼ねた部下から、「今、Aと言ったことを、次の瞬間にBと言わないでください!」と言われた事もあったそうだ。そこで本人は「え? そんなこと言ったっけ?」という感想になる。この異常性・・・。)

・・割愛すると言いながら、客観的な部分を少し紹介しただけでもこの長さ💧 すみません💦


こんな父親がようやく御授戒を受けたのが、私が20代の頃だった。この父親の問題や異常性は、今日にいたるまで何も解決していない。父の定年後、母が必死で勤行をするように毎回強く言う事で、夕の勤行だけでも何とか続いている状態だ。

(御開扉にも何度か家族で行っているが、父は下山中に大きく体調を崩したり、同じく下山中に性格の異常性が強く出て家族を困らせる事が多い。父に既往症はないので、体調を崩すのは不思議だ。

どことなく・・・私が中学生から御開扉に行くようになってからの状態を彷彿とさせる。私の場合、性格の異常性はないが、登山中に怪我や強い体調不良に見舞われる。 異なるのは、それが登山中に起きるか、下山中に起きるかというタイミングくらいだ。)

ちなみに、私が3歳頃に父の転勤で引っ越してからは、家の車はずっと母親が運転している。父親も免許は持っているが、運転しない。運転が下手だという理由もあるが、家庭と関わろうとしない独身の生活スタイルを貫くために、運転が必要な時に家に居ないのだ。

家庭と関わろうとしない事を車の利用で表現すると、日常のスーパーへの買い物から、私の緊急時の病院通いまで、全て母任せという事だ。

父が御授戒を受けた後も、所属寺院への御講、大石寺参詣、全て母の運転で行く状態である。父は助手席や後部座席に座っている。 私のバセドウが悪化してからは、母と姉が運転を交代しながら御開扉に行っている 

(私の毎月の御開扉は、1人だけだったので新幹線とバスで行っていた。バセドウの悪化から、母と車で行く毎月の御開扉が始まり、その内に姉も参加して3人で毎月の御開扉に車で行くようになった。 父は声をかけても「行かない」といつも言うので、年に1回いくかどうかのペースで御開扉に行っている。)



【お寺の出来事:大石寺と所属寺院(主に執事さん)】

私は就職してからも、御開扉の申し込みなどで所属寺院へ参詣していた。学生時代ほどは通えなくなったが、退職後の療養中などは体が動けるときに一人で参詣していた。(姉も母も仕事があるので、皆で参詣するのは御講くらいだった。)

この時期に、所属寺院の執事さん(住職になる前の、修行中のお坊さん)から時折、妙な発言を聞いた。

その中の最たるものは、大石寺へ参詣する信徒に対して「物見遊山の旅行気分で本山へ来られては・・(たまらない)」という発言。

これはどういう流れの中での発言かで印象が変わる内容だが、その場において明らかに不適切な発言だった。執事さんはそう言った瞬間、「しまった!」という顔をして口を押えたので、私は追及はしなかった。

本人がその発言の問題点を一応は理解していると伺える事と、執事という修行中の身(信徒に指導できる資格を持つ住職よりも、低い立場)である事を考慮した結果だ。

しかし、話し方や様子から伺うに、この執事さん1人だけの問題ではない事が伺える。その他の大石寺で見る修業中のお坊さんたちの様子からも、礼儀正しさの中に仲間内だけで見せる信徒を見下した感覚が透けて見えた。

お坊さんたちが井の中の蛙であること、そこから抜け出そうにも抜け出せない教育システム。大石寺の課題が見て取れる。


🌴ポイント🌴

修行中とはいえ、お坊さんからそれなりの爆弾発言が飛び出して驚いた話。

これらについては、私がどう解釈して信心を継続させたかという観点で、読んでください。

大事なのは、どんな発言を聞いても、どんな事があっても日蓮正宗の御本尊様から離れない事です。

お坊さんの問題発言について考え、改善に向けて対処するべきは大石寺であり、私たちが怒りに応じて考え続ける必要はない。よくよくの問題については大石寺に訴えた後、私たちは「てやんでいっ!」と思いながら唱題して、好物でも食べて法華経の修行に専念しましょうw


【大石寺の病人に対する感覚】

この時期、私は大石寺の大きな不備を目の当たりにする。

ある日の添書登山で御開扉後に本堂で意識を失った。低血糖が原因。既に捕食は取っていたが、消化吸収による血糖上昇が時間的に間に合わなかったのだ。

既に捕食を取っているので、あとは座ったまま・あるいは寝かせて時間を待つだけで良いのだが、低血糖で応答できる状態にない私の様子にお坊さんたちは慌てて救急車を呼び、私は麓の医療センターまで運ばれた。

その後、血糖はじきに回復して帰路に就くが、回復途中の休憩時間に十分な安静を取れなかったために、後遺症の頭痛が激しく、途中下車をした。そこでホテルに一泊してから帰る事になった。

あのまま大石寺内の坊などで休憩させてもらえていれば、普段通り当日中に下山できたのは間違いなかった。

後日、私は大石寺へ無事に回復した報告と御礼、そして病状の説明に行こうと考えて、所属寺院に相談してみた。(執事さんが応じた。)

ここから、大石寺のおかしな言い訳が始まる。誰も責めてはいないのだが、保守に傾いた攻撃を始めたのだ。(一体、過去にどんなトラブルがあったのかと聞きたくなるほどに。)

最終的に、所属寺院の執事も大石寺の内示部も同じ事を言った。


・病気のある信徒が1人で大石寺に来ることが、そもそも間違いである。

・家族と常に一緒に登山すればいいのだから、当時の病状などについて説明を聞く必要は一切ない。(言い切っていた。)

・大石寺に来るなとは言っていない。常に家族と登山しなさいと言っている。

・信徒は本堂で死んでも本望だろうけど、大石寺の敷地内で死なれては、警察への対応も必要になってくる。だからお寺としては困るのだ。もう二度と、あなたは1人でお寺に来てはいけない


(こういうことを言いながら、10年以上経った今でも

重病人を相手に「折伏に命を掛けろ」と言う事を肯定し、話し合いにも応じないまま

「これからも誰にでも言い続ける」と一方的に宣言して本堂の裏に逃げ帰る住職を、

そのまま住職の任に据え置くのが今の日蓮正宗である。

大石寺の自己保身に傾いた姿勢がよく顕れており、

折伏の話ではないとはいえ、獅子吼とは何か、考えさせられるスタンスである。

サイト管理人には獅子吼ではなく、臆病なウサギの鳴き声に聞こえる。)

まとめると、大石寺の主張は上記4点である。

当然、私はこれに納得はできない。4つ目の主張など失礼極まりないものだ。勝手に人を殺さないでくれw そんなぽっくり簡単に死ねるような病気なら、ここまで苦しまないし、勤行も寺院参詣も続けてはいない。生きているとも死んでいるとも言えない、宙ぶらりんの最も大変な状況が続くから、信心を続ける状態なのである。 この4つ目の主張は、完全に、世俗も病気も舐め切れるだけの幸せな日々を送る、徳のあるお坊さんらしい不備のある回答である。

(お判り頂けるだろうかw 大石寺の御本尊様には、そんな不備のある内容を平然と言えるようになるほどの、大きな功徳があるということだ。真っ当な分だけ、治罰もどこかに起きているだろうけどw) 

何より、通常であれば低血糖を起こしても真っすぐ帰宅できるところを、回復途中の対応ミスで帰宅できなかったのである。

私自身の病気による問題ではあっても、ある程度、安全な対応方法についてお寺に説明をする必要はあるのだ。まして、私の場合は低血糖だが、人によっては急性の脳血管障害を起こす場合もあるだろう。

いかに奉安堂の中であろうと、意識不明者の体を起こして揺らすものではない。どうしても移動させる必要があるなら、車いすではなく担架で運び、安静を保つ事が必要だ。

また、病人は1人で来るなという事についても、仕事を抱える健康な人間が御開扉のスケジュールを組める時に、病人が同行できる健康状態ではない場合は多々ある。病人自身が行ける時に行く事を阻むのはおかしい。 大石寺が保身を考えるなら、別の対策の検討が必要だ。  

私は考えた末、どうにも大石寺の主張に納得できなかったため、期待せずに事の顛末と問題をA4用紙3枚程度に書いて、典礼院の奥(大聖人の墓石の脇、足元など)に置いて来ることにした。たとえ不審物として読まれず処分されるとしても、家族と御開扉を受けて、その後に置いていこうと準備した。

しかし、不思議な偶然が起きて、用意した文書入りの茶封筒を持ち帰る事となった。

御開扉を受ける前に、奉安堂でお坊さんたちによる信徒の椅子への誘導がある。普段は広い御堂に数名の案内担当のお坊さんが散らばって、各々の場所で信徒を誘導しているのだが...

偶然にも、私と母が奉安堂の出入り口に来た時点で、6名のお坊さんが集まった。(両脇に3人ずつ)

そして、6人同時に「どうぞ✨」と抜群の笑顔で片腕を伸ばし、私と母の入場を促したのだ。

これは本当に偶然で、お坊さんたちは待ち構えていた訳ではない。直前まで、それぞれ本堂の奥など入口からは離れた場所で誘導をしていた。そして私たちも、入場時間ピッタリに本堂へ入ろうとしたわけではない。

本当に偶然のタイミングでそれは起きたのだ。

「大石寺の敷地内で死なれては困るから、早く敷地の外へ出す必要がある。二度と1人で来るな(要旨)」そう言われて困っていた私は、この偶然による正反対の態度に、振り上げた拳ならぬ茶封筒を下げ、典礼院へ寄る事なく帰宅する事になった。


【 後日談 】  

数ヶ月後、私はある事が切っ掛けで知り合った本山勤務のお坊さんから、遠隔地に住む他支部の信徒さんを紹介してもらう。日蓮正宗の良い面と問題点を話し合う機会を作って頂き、私と母の信心を継続する励みとなった。

この信徒さんから、勤行で「広宣流布のお役に立ちますので、~~をお願いいたします」と祈ると、願いが叶いやすいと聞いた。お子さんの大学受験が叶ったのだと言う。この時は信じられなかったが(受験なので、プラシーボ効果だと思った)、この十年後くらいに他のお坊さんからも同じ話を聞き、自分の苦境も相まって実行し始める。(後述するが、確かに効いた。 驚いたw)

この本山勤務のお坊さんは先述の問題についてよく理解してくれる人で、その後も私が御開扉を受けやすくなるよう、何かと励まして協力してくれる人だった。私たちが登山する日の奉安堂担当者に、目の悪い私が帽子やサングラスを身に付けて入場し、目立たないよう後方に座ることについて、許可を得やすくしてくれた。

とても有難いお坊さんだったが、後に発症した私の重症低血糖による脳機能の後遺症については理解が得られず、完全な誤解の下に疎遠になった。それでも御開扉を続けていると、不思議と新しいお坊さんの理解を得られて、信心と御開扉(1人での添書登山を含む)を続けることができている。

一緒に登山している母も「お前は不思議だねぇ。お坊さんの協力者がいなくなっても、すぐに次の協力してくれるお坊さんが現れる。」と言っている。(新型コロナの流行が始まる2020年までの間で、既に3名~4名のお坊さんが、まるで引き継いでいるかのように御開扉を助けてくれている。)

法華経の行者を守ると誓った諸天や菩薩などから守られるということ、法華経の修行を助けてもらえるという現象の1つなのだろうか...。

それくらい、今の大石寺には偏りと不備がある事も伺える。



【バセドウの悪化と生活状況、唱題行の取り組み、その功徳について】

バセドウが悪化する中で、私の生活は徐々に難しくなっていった。

ビジネスホテルから職場へ勤務していた頃はまだ1人で(新幹線・バスで)毎月の添書登山に行けていたが、悪化により退職し、慈恵医大の主治医から放射線治療の話が出るころには、自宅でお風呂に入る事も難しくなっていた。(入浴や体を洗う作業は運動として代謝を上げるため、バセドウが悪化していると酷く苦しい。)

異常に高い代謝と動悸、息切れの激しさ、高血糖による苦しさ等により、安静に座っている状態で

も記憶が途切れるようになってきた。息を吸うだけで精一杯の状態だ。そして、身体を横にして休

めていると、同じ居間のテーブル付近にいるのに、家族から「いるのか、いないのか、わからない。気配が消えている事がある」と言われるほどに消耗していた。

そんな中でも、勤行は続けていた。ビジネスホテルに滞在中の平日は、ホテルの中で勤行をしていたし、退職後はもちろん家で日々の勤行をしていた。

一向に落ち着く気配のない甲状腺の数値と、慈恵の主治医との治療方針の相違を解消できない日々。内科の外来は月に一度なので、どの病院でも毎回、石頭な医者と様子を見ながら慎重に交渉する事になるのだが、この頃は気長な交渉も限界に達して決裂した。

『取る手がない。切れるカードがない。どうしたものか』という状況になって、私はここから唱題行に取り組み始めた。

『現実的にできる対処は全てやっている。他に・・・信心でできる事は何か。』そういう視点だ。これまでの信心の取り組みを振り返ると、所属寺院への参詣・毎月の添書登山・毎月の御講、御供養・日々の勤行・お盆などの各種イベント、これらは日常的にできているので、残っているのは折伏と日々の唱題行である。

冒頭のような健康状態の中でも、体調に合わせて取り組める可能性があるのは唱題行だった。これまでも時々行う事はあったが、毎日ではなかったので、当時の猊下(日顕上人)が1日1時間唱題を掲げていた事もあり、とりあえずやってみる事にした。

朝夕の勤行の時に30分ずつ唱題をする。体調的に難しい時は10分、15分くらいで切り上げて、なるべく24時間の中で合計1時間となるように唱題をした。

1時間の唱題を始めて3カ月くらい経った頃、ようやく念願のインスリンポンプを手に入れる事ができた。

この間に、伊藤病院で甲状腺専門の良い主治医に会い、現場を離れていた1型発症当時の主治医を探し出して助言を求め、ポンプ導入が可能な病院へ転院するという 少し難易度のある旅をした。

インスリンポンプ導入後は、既に記載した通り2~3カ月で甲状腺数値が下がり、バセドウ病は寛解。飲み薬の処方もなくなる。経過観察中に橋本病である事が発覚し、甲状腺の主治医からは「放射線手術をしないで正解だった」との事。

ポンプを導入し、甲状腺数値が落ち着いてからも1日1時間の唱題は続けている。



【その後のエピソード:3件 🍰☕🐧💕 】

【1件目:帯状疱疹】

甲状腺の数値が落ち着いて2カ月後くらい経った頃、私は帯状疱疹を発症するw 一難去って、また一難w 家族と一緒に、思わず笑ってしまったw 

有難いことに、笑える程度に帯状疱疹の症状は比較的軽かった。目立った皮膚症状も出ない。さらに、アレルギーで使えない抗生物質が多い私の体でも、帯状疱疹の薬は使える種類だったことや、薬が順調に効いた事が幸いした。

この結果、甲状腺機能の亢進による症状と、1型糖尿病による血糖値の乱高下をダブルで喰らった状態に比べると、なんて事はなかった。それくらいに、帯状疱疹の中では軽い症状で済んだ。帯状疱疹自体の後遺症(肌の痛みなど)が残る事もなかった。

(頭痛や三叉神経痛は怪しいが...帯状疱疹の前から痛む場所なので、帯状疱疹は関係なさそう。)

そして。この20代の帯状疱疹は、私の病歴に1つの可能性をもたらした。

帯状疱疹のウイルスは、子供の水疱瘡と同じウイルスだ。このために、幼少期に水疱瘡にかかっていれば(免疫が形成されるので)、成人後に帯状疱疹になる確率は低い。

ただ、このウイルスには厄介な特徴がある。実は治療後も人間の神経節の中に潜伏し続けて、宿主の体力や免疫力・抵抗力が弱った時に表出し、帯状疱疹として悪影響を与えるのだ。

(なので回復途中の病人や、体力のない高齢者が帯状疱疹を発症する場合がある。)

驚くのは、この帯状疱疹ウイルスは、1型闘病病の発症原因の1つになり得るという事だ。

そんな訳で。バセドウ後の帯状疱疹は、子供の頃の水疱瘡で侵入したウイルスが、後々まで尾を引いている可能性をうっすら感じさせた。


【2件目:わかりやすい御加護

バセドウの悪化に伴って始めた日蓮正宗での唱題行により、無事に10年以上前の主治医を探すことに成功し、出会い、適切な助言と縁によってインスリンポンプを入手できた上に、不思議と直接には関係ないはずの甲状腺数値が大きく改善し、手術を回避できた事は大きな功徳と感じられる。

けれど、功徳はこれだけではなかった。その後の療養中に、非常にわかりやすい御加護を得た。

ある日の夕の勤行中、突然、趣味で身に着けていた腕輪が切れた。直径6ミリ玉のアマゾナイトだけで作られたブレスレットだ。そこで勤行を中断して、散らばった球を拾い集めた後に、勤行を再開した。唱題行に入って10分くらい経過したところで、今度は合掌中にお数珠が切れた。(揉んでいないのに切れた。普段から揉んでいない。)

「何だかなぁ・・・」と少し妙な気分になりながら、中断してお数珠の珠を拾い始める。今度はブレスレットとは異なり、珠の数が多く、広範囲に散らばった分だけ時間がかかった。家族も協力してくれて、何とか完了した後に予備のお数珠を使って唱題を再開。

そうして夕の勤行を終えて自室に戻ると、部屋の電気が点かないw 電球が切れたかと思ってよく見ると、天井にいつも見えるはずの電球がないw 

なんと、電球がブラケットごと床に落ちていたのだ💦 しかも、位置的にちょうど私が普段、座っている場所に落ちていた。(座布団の上に落ちていたので、電球は割れずに済んだ。)

その日に地震や台風はなかったので、どうしていきなりブラケットごと落ちたのかは不明だが、もう少し部屋に戻るのが早ければ、電球が頭に直撃していた可能性は高かった。ボール球だったので、サイズもそれなり。天井からの落下で重さや勢いも増すので、当たれば痛かっただろう💧

夕の勤行中に切れた腕輪やお数珠は、球拾いに時間を費やす事で部屋に戻る時間を遅らせ、怪我から守ってくれたのだと思う。


【スムーズな救急搬送】

また、この時期は掃除中に外から入って来た蜂に刺される事もあったが、これも瞬間的に蜂をティッシュの箱で潰し、夜間救急へスムーズに到着できて事なきを得るなど、トラブルを無事に済ませた事があった。(このハチが、ミツバチよりも小さいタイプだったのも幸いした。)

蜂とは別の時にも、突然、胸痛に襲われて息ができなくなったこともあったが、学生時代と比べて、救急搬送がスムーズに行われるようになった。

(実は、1型糖尿病は行政の不備により、スムーズで適切な救急搬送が難しい病気の1つである。特殊な疾患である分、かかりつけ医が遠方の市や県をまたいだ専門病院となる場合が多いのに、救急車は市の管轄であるため、患者の申し出た市や県を越えたかかりつけ病院への搬送を拒まれてしまうのだ。

その結果、病気的に対応できない最寄りの市民病院などに運ばれて、夜間当直の医師が「この患者さん、僕では(この病院では)無理だよ! どうしてすぐに掛かり付けの病院へ運ばないの!?  早く運んでください!」と救急隊員に指示をしてから、ようやく適切な治療が受けられる掛かりつけの病院に運ばれるという状況がよくある。

先に患者からかかりつけの病院に電話連絡の上で救急隊員に頼んでも、なお、市内の病院へ運ぼうとする救急車もある。どこの病院へ搬送するかで押し問答をする時間が長いため、救急の用を為さず、自家用車で母に運転してもらって救急に行く事もある。)


【3件目:行政の問題:年金、修学・就労など】


健康状態が落ち着き、次の人生を考え始めた頃の事。

私は市の広報を見て、(市が主催する)聴覚障碍者のための要約筆記者の講座を受ける事にした。聴覚障碍者に付き添い、通院時など外出のサポートをする仕事である。

(診察室で医師との問診をサポートしたり、手術前の本人確認のミスを減らす事にも貢献する。執刀医や看護師への周知が不十分な場合に、口頭での本人確認が多いため、聞き取れない聴覚障害の患者は正しい応答ができない。挙句、医師や看護師が患者のリストバンドの確認を怠るなどの悪いタイミングが重なり、結果、手術において患者の取り違えが起きる事も実際にある。)

この講座を修了すると、要約筆記者として市に登録されて、要請がある時に仕事を行うというものだ。

この講座を受講中に、私は講座の担当者(市の職員)から個別に呼ばれた。

そこで、「講座が終了しても、あなたには仕事を回せない。講座を最後まで受ける事もできるし、試験を受けて、要約筆記者として登録する事もできるが、仕事は絶対に回せない。(それでも良ければ、講座を続けると良いでしょう。)」と言われた。

つまり、暗に「もう講座の受講を止めてくれ」と言っている訳だ。

その理由を尋ねると、「サングラスを使う事があると、聴覚障碍者の同行で診察室に入った時、医師からの印象が悪くなるから」という事だった。

当時、私は徐々に悪化する眼球使用困難症のために、時折サングラスを身に着けていた。常時身に着ける訳ではないが、講座を受講中に時々サングラスを使っていた。もちろん、使用前に講師などに理由を話して許可を取っていた。市の職員にも事前に説明してから受講していたのだが、講座が中盤に差し掛かるころにそんな話があった。

この時期、講座の講師の1人から私は変に目を点けられていた事実がある。その講師は、私のインスリンポンプが気に入らなかったらしいw 休み時間や講師の準備中にポンプの機能を確認するなどの様子が癇に障っていたようだ。「携帯電話を見るな」などと大きな声で目の敵のように言われる事があった。

それが電話ではなくインスリンポンプであるとその場で見せて、謝罪し、きちんと理由を説明したが、その数日後に市の職員から呼ばれた次第。まぁ... 要は嫌がらせなのだと思う。

要約筆記者としての技術だけでなく、聴覚障碍者への理解を促す講義もある中で、講師自身が内部障碍者への理解がまったくない状態であるw そして、そんな愚かな講師に踊らされる市の職員w

高校の入試を彷彿とさせる状況に、もはや抗議するのも馬鹿らしくなり、私は他の道を探すことにした。


【年金問題】

「ねんきん定期便」の送付が始まってしばらくした頃、私は定期便の電話番号に問い合わせをした。

病気の増加や悪化で就労と収入が覚束ない私は、納付特例の申請を続けていた。(学生納付特例のような、納付猶予の申請。)

しかし、先行きが見えない状況で、今後どうしたら良いのか相談してみたのだ。

すると・・・ ねんきんダイヤルの担当者は、私の就労状況をよく聞いた上で

「本来は障碍者の特例として免除される可能性がある状態だが、これまでその申請が通らず猶予止まりであるのは、年齢が30歳未満であり、御両親が健在で働けているからだ。

これまでの就労状況(厚生年金の期間)を見ると、働く意志が十分にあるのに働けない身体状況である事が認められるので、30歳を過ぎたら、もう一度免除の申請をすれば、通る可能性がある」

そんな話をしてくれた。

丁寧に、正直に教えてくれた担当者には感謝しているが、現実は中々ついてこなかった。

この後、28歳で重症低血糖により脳機能に重い後遺症を負ったことで障害等級3級が認められ、そこで年金の納付が免除された。しかし、障害年金が降りる2級の申請は却下されたままだ。

眼球使用困難症の悪化でインスリンの装填が厳しい現状でさえ、申請書類は「不備ループ」の状態である。ある時は主治医の下に申請書類が返戻(へんれい)された事もあるほどだ。通常、たとえ申請が通らなくても書類が主治医に返戻される事はない。

この時の主治医はとても良い穏やかな人だったが、顔と気配が本気で怒っていた。「僕は何度でも書きます。(次回の申請も)持ってきてください」そんな事もあった。

昨今は新型コロナの給付金についての「不備ループ」がメディアに取り上げられているが、国・行政は昔からそういう状態なのだ。

 🌴 雑感 🌴 】

何を功徳と言うのか。

何をベースとして功徳と考えるのか。


問題は、社会・行政のセーフティが十分に機能していない状況で、困窮者がいかにして生きていくのかという事である。日蓮正宗で法華経の修行を続ける中で、何を功徳というのかを考えてみる。

時代の医療の限界に基づく病気自体の問題が改善・解決する事は、明らかに功徳と言えるだろう。しかし「人間の努力で解決できるところが解決されない、制度はあっても人間の不備や不正、怠慢などで解決を阻まれる」という状況をクリアできた場合に功徳を感じるというのは、少し微妙なところもある。(例:厚労省や行政の問題・高校入試の問題・大石寺の人間が作る組織としての問題など。)

本来、制度が適切に運用されていれば生じない問題、適切に運用される事が前提の話だからだ。このような問題の解決を功徳と感じるのは、それだけ不正や不備、怠慢がはびこっており、大きな問題となっているという事だ。

けれども、中には(たとえ少人数でも)制度が正しく運用されて、必要以上の困難を生じない人がいるのは事実であるため、その運と縁・タイミングなどの観点では、(困難に直面する人の問題が)クリアできた場合において功徳と言えるだろう。

詳しく言うと、自分自身の過去世からの業と因縁により生じた、今生での運と縁という観点である。

「過去世から生じた今生の課題をクリアし、さらに徳を積んで成仏を目指す」そんな仏教の考え方である。

だからといって、今生の加害者側・現実的に問題のある側が正当化される訳ではない。決して。 

社会のため、未来の困窮者のためにもある程度は現実的に戦いながら、自分を取り巻く環境が最終的にどうなろうとも、自分は自分として真っ当に生きていけるよう、日蓮正宗で法華経の修行に励むのが正解だと私は思う

実際にどこまでできるかは置いておいて。しかし、大なり小なりその志で信心を継続するのが良いと思う。

「自分は自分として生きていけるように」というのは、同じ問題に対して、解決方法は1つだけではない場合があるからだ。 正攻法では解決しなくとも、何らかのきっかけで脇道を通った解決ができる場合や、問題自体が急に消える=解決に取り組まなくても良い状況になる場合もある。)     

【運命の扉。ターニングポイント】


ここからページを移動します。上のリンク(運命の扉。ターニングポイント)を押してください。ページ名は【(サイト管理人の人生と信心・続き)直近10年の人生 その1】です。

思ったより長くなって、サイトの更新がスムーズに働かなくなりました💦

そこで、ここから始まる直近の10年については、ページを変えました。

(怒涛の3年間を過ごした後は、今日に向けて摩訶不思議アドベンチャー的な感じになるので安心して下さいw 本格的には今年からかもしれないけど…。

本人には大変でも、外から見ると変化があって面白い状態だと思いますw)


オアシス035
2020年2月12日 サイト工事開始
Powered by Webnode
無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう