(続き)サイト管理人の人生と信心直近10年 その1

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少し特殊な持病=難病を抱えた状態での、これまでの人生。

学校、仕事、旅行、病院、信心(寺院参詣を含む)全てにおいて、

特殊な疾患を抱える者がどんな状態で日々を過ごしているかを記載します。

外見に現れやすい身体障害とは異なり、外部から見えない内部疾患である難病を抱えて生きる日々には、どのような困難があるか。

これは信心(お寺)を含めた、社会への問題提起でもあります。









【運命の扉。ターニングポイント。】


そんなこんなで2011年も終わりが見えて来た12月下旬。運命の扉が開く。これが地獄の扉のままで終わるか、天国へつながる運命の扉となるかは、これを書いている2021年以降の人生で決まるだろう。


2011年12月23日。低血糖で朝を迎えた。

起きた瞬間は、いつもの低血糖だと思った。軽食を食べて、緩やかに血糖値を上げよう。そう思って食べて、食べ終わるころに激痛に襲われた。

左の頭部に酷い痛み。声が出る。思わず鉄筋コンクリートの床を何度も手で叩いた。

あり得ない。この激痛。群発頭痛さえ超えていた。

痛みが余波を残して落ち着くころには失禁し、顎を閉じられない状況だった。あまりの頭痛に、顎を(無意識に)閉じる筋肉さえ、痛くて動かせなかったのだ。

立つ事も難しい。左足の感覚が薄く、力が入らない。ようやく立ち上がっても、右足は固い床の上にあるのに、左足だけ砂浜や雲の上を歩くような感覚でバランスを取れない。

左手の感覚も弱まっていたらしく、自覚はなかったが、無意識に左手に持ったお皿を取り落して割る事が増えた。

激痛の余波で部屋の電気も付けられない。明るくなると余計に痛むのだ。17歳からその傾向はあったが、極まった状態だ。

そして、視野の欠落。目をしっかりあけていても、左下が見えない。物を右側に置くか、左側なら少し遠くに置かなければ見えない状態。眼の焦点を合わせる事も難しかったようだ。

年末にお寺へ行くと、住職の奥さんから「あんた! どうして来たんや! 調子が悪かったんやろ? このところ来てなかったから・・・。眼の焦点が合ってないよ! どうしてそんなに無理をして来たんや」そう言われて気が付いた。 私としては、家に御本尊様がないので、何とかタクシーに乗れる状況なら、調子が悪いからこそ初詣に行きたかった。

当初の激痛は収まったとはいえ、余波は大きく、頭を枕や壁に付けて寝る事もできなくなった。(軽い負荷であっても、血管の圧迫で強く痛む。最初の数か月は5分も耐えられなかった。)

認知機能の低下も起きた。

言葉や会話ができない。数字も認識できない。言葉が聞こえると、頭の中がその都度白く光って、何を言われているのかわからない。頭痛も酷くなる。

数字が認識できず、計算ができない事は最も大変だった。血糖測定後のインスリン量の計算(時間を含めた計算)ができなくなるからだ。単純な足し算と引き算なのだが、1+1を考えようとするだけで、言葉と同じように頭の中が光り、ズキっと痛んで考えられなくなってしまう。

普通に歩く事もできなくなった。1歩すすむと、その分だけ少し景色が変わる。その変化に脳がついて行けなくなった。自分がどこにいるのかわからなくなり、恐怖感に動けなくなる。

さらに。短期記憶を保てなくなった。古い時代の事(20年以上前の事)は簡単に思い出せるが、昨日のことや5分前の事、数年前の事はわからない。 服の前と後ろ、靴の右と左、着替える時の自分の体の位置(姿勢)さえ、スムーズに判断できなくなった。左右を見分けようと集中すると、ひどく頭が痛んでしゃがみ込む事になる。

そして、恐怖感。理由はわからないが、この日の激痛から、新しい視聴覚情報が入るたびに、強い恐怖と痛みを感じるようになる。(=状況や環境の変化について、極端に弱くなった。)

怖さの種類は、まるで黒板を爪でひっかく音や感触のような怖さと不快感で、耐えがたいものだ。

(心細いという怖さではないので、誰かが傍にいれば大丈夫、という事にはならない。誰かが傍にいると、認知する事柄が増えて却って仇になる場合もある。)

私は完全に、認知症の症状だと思った。

(いくつかの病院を受診した結果、脳神経内科では、ストレス性の細胞レベルのダメージと言われ、言語障害、短期記憶障害、半身の軽度麻痺などの診断が下った。リハビリや投薬の指示はなく、患者の希望に応じて精神科を紹介すると言われた。

一般内科では、偶然にも恐怖を感じる神経だけが低血糖のダメージを免れた・軽微だったために、新しい情報が全て恐怖の神経回路を使って認識されている可能性があると示唆された。 そもそも、半身不随や寝たきり・死亡してもおかしくない状況だったので、奇跡的に助かったとの事。)

母は遠い家から様子を見に来てくれたが、私の症状は視聴覚情報が増える事によって悪化する事を訴えても理解できず、ワンルームのアパートで日課のテレビドラマを大音量で見る始末だった。そして、私の状態を廃用症候群だと言い放った。(たった一晩、寝て起きただけで廃用症候群が起きると思うのか💧 母は正看護師だが、脳神経内科に勤務した経験はない。)

12月の朝、起きた時は死ぬかと思った。何とか落ち着いたのは幸いだったけれど、戻ってきた世界は地獄だった。

紆余曲折の末、2012年1月に首都圏へ帰る事になる。

多くの症状と強い痛みを抱えたまま、家族の理解も得られず、状態は悪化していった。


【自分自身の病状の把握】


首都圏に戻り、地獄の生活が始まった。

1カ月経つ頃には、どうすれば症状が軽減して、どうすると悪化するのかがわかって来た。

ベースはやはり視聴覚情報の変化にある。

音や言葉、文字、周囲の光景。これらの変化と認識に応じて症状が悪化する。

(つまり、自分1人だけであれば、ゆっくりでも日常生活を送れるということ。家族や同居人がいて、自分の想定外の会話や変化が起きる場所では悪化するという事。)

なので、静かで暗い落ち着た場所(変化のない場所)にいると、徐々に脳機能が戻ってくる。一時的にも戻る事で自分の状況を認識できるし、血糖やインスリンの調整を行う事ができた。

そして、なぜか台所にいると認知機能が改善しやすくなる事もわかった。料理が好きだったので、(たとえ料理をしていない時でも)台所にいると脳機能が働きやすくなるのだろう。

やはり、認知症の症状に似ていると思った。

他には、400を超える高血糖状態の場合に、頭痛や脳機能が少し改善する事もわかった。ケトンまで出るとかなり楽だ。早口でなければ、ある程度、会話を認識できた。(しかし、脳機能は楽になっても体は辛い。なので、インスリンは使うものの、血糖値をかなり高めに調整する事となった。)

また、塩分の強い物や発酵食品、レーズンを食べると一時的に頭痛が和らぐこともわかった。

納豆、生ハム、お漬物、ザワークラウトなどで一時的に軽減した。(納豆は嫌いだったが、なるべく食べるようにした。)後に、ビタミンB12のサプリメントも服用するようになる。痛みが少し減る。

この頭痛は、当初の頭痛より軽いとはいえ、それでも顎を閉じられない程の痛みだ。20分~30分程度でも軽減して、呼吸しやすくなるのは助かった。呼吸ができる事で、痛みも少し減る。

脳内の酸欠が激しく、普段は息を吸っても入ってこない感覚があった。体(筋肉)は動くのに、脳に入ってこない。しかし、オキシメーターに問題は現れない。

脳神経内科で言われた通り、細胞レベルのダメージが大きいのだろう。

(長時間にわたる重度の低血糖で、脳細胞が血管から酸素や栄養を取り込むためのエネルギーさえ枯渇した可能性を説明された。 また、他の病院では、何とか生き残った細胞が血管内の栄養を取り込むのに必死で、血管壁が引っ張られるような状態となり、三叉神経が刺激を強い痛みとして感じているのでは...。という話もあった。)

母が酸素の缶を買ってきてくれた。使うと多少良いが、問題はスプレー部分が硬い事。強い力で押さないと酸素が出てこないので、長時間使えなかった。そこで、酸素水を試すと少し良かった。

それでも、普通の速度での会話はできない。掃除機も使えない状態だった。

病院で呼吸器の患者さんが持ち歩いている酸素ボンベが欲しかったが、処方されなかった。医者も誰も、状態を正確に理解していなかったのだ。

一部に細くなっている血管はあったものの、脳のMRIが正常で、患者自身の病識がある事などから、脳の細胞レベルのダメージによる言語障害、短期記憶障害、半身軽度麻痺、視神経障害は認められても、低血糖脳症(高次脳機能障害の1つ)の診断は付かなかった。

このために、内科も脳神経内科も回復に向けてのアドバイスは一切なく、放置される事となった。

精神科へ行くことを促されたが、とても行く気になれなかった。見慣れた病院内でさえ、初めての脳神経内科の場所へ行くと(=見慣れない新しい場所、光景と状況の変化)脳機能が悪化して、診察室の椅子に静かに座っていられず、出て行ってしまう状況だ。

これで新しい病院へ行く、まして、治療に期待できない精神科(=脳機能が必要性を感じていない場所)へ行く事は、論外だった。

脳機能に問題がなければ、「一度、行くだけ行ってみよう。ダメで元々。何か新しいヒントや情報が得られればラッキーだ」と考えるのが元々の私の性格だが、この時はとても・・脳機能にその余裕がなかったのだ。それほど深刻な状況だった。

(ついでに、ここから10年経った今でもその余裕はない。脳機能の回復は遅々としている。 脳神経内科の医師からは、「MRIが正常で、細胞レベルのダメージなので、10年かかるか50年かかるかわからないが、不可逆ではないだろう」と言われている。 さて・・ どうなるか...。) 


【壊れた脳機能のための、情報収集の方法 φ(。。;) 】

私は自分の病状を把握するため、家族の理解と協力を得るために、脳機能の情報を集める事にした。

テレビで放送大学の講義かCMを偶然見て、認知心理学という科目を知った。教授の言葉は脳内のフラッシュと痛みに邪魔をされて聞き取る事さえできないが、それでも何か、今の自分に必要な情報であると伺えた。

(多くの情報が一方的に流されるテレビやラジオは天敵だったが、稀に見たくなることがあり、NHKのニュースや放送大学を3分~5分だけ見る事があった。 不意に始まり、多くの情報が短時間に詰め込まれるCMや、一度に多数の話者が登場するバラエティは厳禁だ。)

テキストを取り寄せて読み始めるが、普通の方法では無理だった。言語障害とともに多くの認知機能が低下した状態にとっては、1ページ内の文字(情報)の量が多すぎたのだ。脳に痛みと恐怖が走る。とても落ち着いて読めない。

そこで、照明を暗くした。すると文字が読みにくくなり、程よく情報量が制限されて症状が軽くなった。私はここからヒントを得て、テキストを拡大コピーし、無地の下敷きを2枚使って、今読みたい部分以外の文字を隠しながら、1文字ずつ読む事にした。

(後に、茶色のクリアファイルなどを工作して、自分用の上敷きを作ったw 文書の下ではなく、上に置いて使う。文字を読みにくくして情報を減らし、少しずつ読めるように作った上敷きw)

こんな方法で、他にも認知症の本などで「これは」と思う情報を仕入れていった。放送大学のテキストは一部しか読めていないが、それでも自分の状況を知るのに役だったし、わかりやすい説明だった。家族にもぜひ読んで、理解してほしかったが... 「お前が読めば良いから大丈夫。(自分は読まない)」と、拒否されてしまった。(この以前にも、自分の病状を箇条書きにした紙を渡したこともあったが、理解されない。)

日頃から、「お母さんたちにできる事があれば言ってね」と、私の病状を理解できないなりにも協力しようとする姿勢は見せてくれていたが、いつも肝心なところで協力を得られなかった。


🌴ポイント:認知心理学は、どの分野なのか🌴

「認知心理学」と聞いて、心理学なら精神科に行けば良いのでは? と思うかもしれない。私も最初はそう思った。(精神科へ紹介状を出すと提案した脳神経内科の医師達は、実は間違ってはいない可能性。)

けれど、テキストは冒頭にこう書かれていた。

「認知心理学は、心(精神)というよりも脳機能・脳神経の側面が強い分野である。精神と脳神経の中間の領域だ。(要旨)」

これを見て私は思った。おそらくは精神科へ行っても、「脳神経内科が適切だ」としてタライ回しになりそうだ。何より、左半身の麻痺や視野の欠落などの問題もある。言語障害が精神科である程度ケアできたとしても、その他の多くの問題は精神科では対処できそうにない。場所の認識とか色々・・。

そして、テキストを見ると「どういう状態か」はわかっても、「どうしたら改善するか」はわかりそうにない。何より、自分自身の努力だけでは追い付かない問題で、やはり周囲の理解(日常的な療養環境を整える事)が必要不可欠な状態だと理解できた。


【家族との意思疎通の問題:2例】

1つ目

ある時、短期記憶の障害で会話がスムーズにできないため、筆談をお願いした。

すると、不思議なことにそれさえ母を強く不機嫌にさせたようで、渡した紙とマジックペンを顔に向かって投げられてしまった事もある。(10年経った今でも、たまに似たような事が起きている。)

この時の不機嫌の理由についてはわからない。母は何か話していたが、早口なので言葉が頭の中で白く光り、認識できなかったからだ。

このような窮状を主治医に訴えても、母が看護師だとわかると全員、閉口してしまった。

(主治医が母に話し始めると、母が「ええ。先生、わかっています。私、正看護師ですから。」と言うと、主治医達は黙ってしまうのだ。 看護師だろうと医者だろうと、家族の重症具合に自分自身の感情が優先されて正常な判断ができない場合がある事くらい、わかるだろうに。)   

後遺症によって自分の表現力が至らない部分があるにしても、何かがおかしい。それまでの母や姉とは違い過ぎる。私は「世界が変わった」と思った。


2つ目。

ある日、家族で外食に行くことが決まった。認知機能が低下している私には大変な苦労だったが、行かざるを得なかった。

前の晩から着替えて、準備をして出発。(服の着替えにも苦労する状態。ボタンを留める事も、服に腕を通すこと自体も難しい状態。自分の体の向きを認識できない状態だった。)

レストランに到着後、駐車場で車を降りたものの、私は動けなかった。自分がどこにいるかわからなくて、怖いのだ。左半身の軽度麻痺も手伝って、駐車場の大きめの砂利で大きくバランスを崩す。視野の角度が変わる。景色が変わる。内科で「唯一、損傷を免れた(軽微だった)可能性がある」と言われた恐怖を感じる神経が強く働き、場所の変化、見る景色の変化と認識が、強い恐怖を感じさせる。

車のドアのそばでしゃがみ込んだまま動けないでいる私を、母と姉は言葉で攻撃した後、先にレストランへ向かった。父は付き合ってくれるつもりだったのか、私の後ろに立っていたが… しばらくして私に何か声をかけて、そのまま足で私の背中を蹴った。

地面の砂利に手をついて体を支えたが、傾斜角度によって景色が変わり、恐怖が増す。認知機能はさらに悪化した。

その後はもう、ほとんど記憶にない。

この時、家族それぞれが私に何と言ったのかもわからない。環境(場所)の変化によって弱った脳に大きな負荷がかかっている状態では、家族の言葉は私の頭の中で白くフラッシュのように光って、言葉として認識できなかったからだ。ただ、言葉の勢いだけは感情に訴えかけるのでよくわかった。私に何か、不満や怒り、苦情、叱責などを伝えていた事はよくわかる。

しかし、私にしてみれば理不尽な話だ。場所の変化によって、こうなる事を予測していたから(家を出る前に)同行を拒否したのに、無理に連れてきたのだから。

そして、これほどの状況であっても、MRI写真はほぼ正常であり、脳神経内科では言語障害などのいくつかの障害は認められても、治療(投薬・リハビリ・アドバイスなど)は不要と判断されているのである。


【悪化の加速】

家族からの理解と協力が得られない状況で、私の状態は悪化していった。

まずは、精神状態。

家の中の移動でさえ、自分がどこにいるのかわからなくなるほどの認知障害がある中で、家族は平気で私に話しかける。言葉を聞く事も理解する事も難しい中で、瞬時の応答を求められるのだ。(失敗すると怒鳴られる日々。何を言われているかわからないが、怒られている事は理解できる状態。)

どんな言葉を使って良いのかわからない。何とか出やすいのは動詞。それも、かなりぞんざいな言い方になる。短い言葉で済むので、脳が作りやすいのだろう。

それが家族関係を悪化させる。

視聴覚情報が入ると脳の状態が悪化するにもかかわらず、理解と協力を得られない状態は、私に「インスリンを射ってあげる。そしたら、私が何を言っているかわかるでしょ」と何度か言わせた後、とうとう「(家族に対して)死んでしまえ!」と言わせた。何度となく。

次に、体の状態。

血糖値を異様に高く設定していれば、顎を閉じられない程の痛みを和らげる事もできたし、多少の状況の把握ができる。しかし、長期に渡れば合併症は避けられない。

それでも、自分1人で暮らしていれば、必要以上の情報は与えられないため、悪い中でも何とかバランスを保つことができただろう。

しかし実際は家族と同居。しかも、理解のない家族との同居である。

少しでも脳機能の足しになるようにと台所で長居しようとすると、家族に引っ張られて居間に戻されてしまう。理由を話しても、これまた全く理解されない。

家の中での移動にさえ困難が伴う脳機能の状態で、毎日の歯磨きは難しい課題である。(お風呂もそうだが。)長い時間をかけて一歩ずつ進み、ようやく洗面所などへ辿り着いても、心配した家族に居室へ引き戻されてしまうのだ。

そうこうする内に、上顎洞炎を発症した。ヘモグロビンA1c10%~11%台の状況で、歯磨きを(結果的に)妨害される生活だ。さもありなん。それでも、家族の無理解は続いた。

病巣はかなり大きかったらしく、歯を一本分削る事になった。(土台は薄く残されたが。)

歯医者は「これだけ酷い上顎同炎だと、かなり頭も痛いはずですよ」と言っていたが、重症低血糖を起こした当初の頭痛よりはマシな痛み方だった。(夜に頭を枕や壁に付けられない程の痛みではあったが。)

そして、歯医者は治療後に頭痛は軽減すると予想していたが、実際は大差なかった。脳機能、脳細胞に重いダメージがなければ、その差を実感できたかもしれない。


私は考えた。自分の今の時点での脳機能は、どこまで働いているのか。具体的に何ができて、何ができないのか。(どういう系統の事ができて、できないのか。)

そして、ここまで家族に話が通じないのはなぜか。言語障害の程度を客観的に知りたかった。

状況は非常に悪い。健康のために打開する必要がある。医者たちが頼りにならない以上、外へ協力を求める必要がある。自分の言語機能を確認するためにも、私は2か所にメールを書いた。

1つは市役所の健康福祉課(だったと思う。)もう1つは、カウンセリングの会社。(初回無料)

この結果、市役所は当てが外れた。

市役所の相談は対面や電話が原則なため、先にメールで「電話ができない健康状態である事、脳機能の症状の原因と概要、メール相談の希望」を伝えたところ、「メールで承ります」と返事が来たものの、その後に相談内容を送ってからは返事が一切来なかった。より良い病院や適切な相談先などの案内くらいはあっても良さそうなのに...。

カウンセリングの会社からは「既に試されているので恐縮だが、状況的に家族の理解は不可欠で、家族への説明には医師の協力が必要だ」との見解だった。また、私の書いた内容は確実に理解している様子が伺えた。カウンセラーにありがちな「わかった風」を装う内容や、自己解決を促す内容(相談者自身の心の問題・受け止め方の問題という見地)ではなかった。

👀まだ記載していない詳しい目の症状と自発的な対処、それに対する家族の対応なども色々あるが、割愛する。全体を見て話しの流れに余裕があれば、書く予定。

【四面楚歌の信心:酸欠の脳と勤行。住職の言葉】

この時期の信心はどうだったかというと、脳内の酸欠が酷いために、勤行はできなかった。三唱さえ切れ切れに、5分以上かけて唱えていた。

1晩、2晩、1週間休んだところで直る病状ではないので、2人の住職さんに相談した。

(私が西から帰ってきて1カ月~2カ月後に、住職さんの交代があった。なので、前任の住職さんと新しい住職さんの2人にそれぞれ相談した。)

「日蓮正宗では読経が修行であり、書写は意味がない(やってはいけない)と言われています。ただ、私の今の病状では唱える事ができません。どうしたら良いでしょうか」

これだけを言うのも大変だったが、何とか伝えた。

住職は一瞬、考えた後に「書写はダメです。絶対にやってはいけません。」と言った。しかし、三唱だけでも続けなさい、というような【どうしたら良いか】という話は1つもなかった。

2人の内、どちらの住職さんも同じ回答だった。

私はまた、別の時に聞いた。これは新任の住職さんだけに聞いた話。

「中学からお寺に通い続けて、毎月の御開扉・添書登山を続けて10年近く経ち、1日1時間の唱題を始めて数年経つ状態で、このような状況になったのはどうしてでしょうか。たとえば十界で言う、地獄界の仏界に辿り着いたから、1つ上の畜生界の地獄に入ったという事でしょうか?」

これも必死の思いで言葉を繋げたが、住職さんは軽やかに笑いながらこう言った。

「ハハハ・・・これは慢心。慢心。ハハハ・・・」

それ以上は何も言わなかった。

新任の住職さんだったため、私は前もって(本堂に帽子とサングラスの状態で座る場合がある事に許可を取るためにも)文書で持病と脳機能についてA4用紙2枚にまとめて伝えていた。それにもかかわらず、この対応である。

四面楚歌。お坊さんさえ頼りにならないとは。

この当時、私はすでに唱題による体への功徳をよく知っていたので、たとえ勤行や唱題ができないからといって、何もしないではいられなかった。家族の勤行が聞こえる間だけでも呼吸が少し楽になって、痛みも少し減る。日蓮正宗を止める選択肢はなかった。

最終的に私は、家の御本尊様の前で一遍だけでも何とかお題目を唱えて、合掌したまま黙って座り続けていた。

お経の黙読、お題目の黙読、念じる事さえできない程の脳内の酸欠状態が、どれほどのものなのか。誰も理解できないのだ。健康な人間には、かなり想像し難い状態だろう。

お経だからという事ではなく、全てにおいてそうだった。何かを思う、考える事にさえ、脳は膨大な酸素やブドウ糖(ケトン体)を必要とする。大変なのは、血管内に栄養が入っても、それを取り込むだけの能力を脳細胞がなくしているという事。回復が遅々とする理由は、そこだと感じていた。


【添書登山】

体の状態も家族・周囲の環境も非常に悪かったこの時期。脳機能障害に無理解な母親の嫌がらせを受けながらも、毎月の添書登山には連れて行ってもらっていた。

私が言い出さなくても、母が計画を立てた。当時、私は場所の移動という大きな環境の変化や、高速での移動に耐えられない状態だったが、それに強い痛みを感じたり恐怖を感じる様子を見ながら、母は車で御開扉に連れて行ってくれた。

時に、姉と母で私を何かとニヤニヤ遠巻きに笑っていた記憶がある。それでも、大石寺内を1歩進むごとにやってくる景色の変化による恐怖を押して、2人のはるか後ろをゆっくり歩いていった。(亀より遅い。カタツムリと同じか、それより遅いかという状態。チマチマ歩くので、傍から見ると「この人、若いのに何か変。」とわかる状態。)

この世界の変わりようは、自分の被害妄想なのか、単に認知の低下による問題か、あるいはやはり、見た目通りの家族の無理解が原因か。私はいつも考えていた。

正しい答えは今でもわからない。ただ、私はもう遠慮をしない事にした。人は、見たいように他人を見る。そうである以上、他人からどう見られようとも、自分が感じた世界が全てである。10年経った今なら、そう言える。

もう客観的な事実についても、正解についても悩むのは止める事にした。 もう十分だ。何が原因だろうとウンザリだ。

私は私が納得して、健康に充実して生きられる世界で生きる。それで良い。それがないなら、作るだけだ。それこそ、足りないもの(バランスの偏った物事)は御本尊様がめぐり合わせて是正に導いてくれるだろう。良い縁も、課題と言える縁も含めて。

【船出🚢 残存機能確認の旅】


そんなこんながありながらw 2014年。私は船旅に出る。

結局、(無理解な)家族と家にいたままでは、脳機能の回復は遅れる一方で、意図的な高血糖のキープが続き、体は悪化する一方だ。何より、家族は私の脳機能の状態を理解していないものの、「この子は普通の状態ではない。見守る事が必要だ」という認識と愛情は持っていた。

(当時、悩んだ末に気が付いた。人間は自分の能力の範囲内でしか、他人を愛せないという事。どれだけ愛情を持っていても、現実的に相手のためになる事をできるかどうかは、自分の能力次第ということだ。 愛情や思いやりは本物でも、その表現が適切にできるかどうかは別の話になる。

そして、愛情を受け取る側は「どのように表現されるか」に応じて認識せざるを得ない。受け取る側の能力=包容力や理解力、忍耐力もまた必要となる。愛情は、それを愛情として受け取ってくれる相手がいて、初めて「愛情」と認識される。 現実的に相手のためになっているどうか。そこが客観的な確かな愛情となるが‥‥。図り切れない世界だ。)   

病状を正しく理解していない状態で見守られるのは、私(患者)にとっても家族にとっても仇にしかならない訳だが、そこに家族が気付くことはない。(患者にとっては脳を含めた肉体的な仇となり、家族にとっては精神的な仇となる。)

この結果、私は自分でできる事とできない事を、正確に把握できなくなる。

(できる事でも家族が先回りして手伝ってしまったり、自分でできない事に工夫を試みても、時間がかかるので家族が手を出してしまう。自分の予測していない助けが入ると、それだけで私の頭の中は真っ白になってしまうのに💧 当時の私は、3歩あるくと忘れるどころか、1歩あるくと忘れる状態だ。それだけ変化に対する認知機能や短期記憶が弱っているのである。)

これでは脳機能の負荷と、自分でできる生活上の対処・工夫など、努力するべき方向性が自分でもわからない事態なので、将来を思うとしっかり把握しておきたかった。


2014年11月。私はマルエーフェリーの飛龍21に乗って、東京から沖縄へ旅に出る事にした。

1歩すすむことによる景色の変化にさえ認識がついていかず、強い頭痛を感じて動けなくなる私にとって、車や電車は非常に大きな負荷である。高速の飛行機は言わずもがな。

(車での添書登山も、かなり大変だった。 母に高速道路の80キロ走行を依頼し、毎月、狭い車内で大声で散々嫌味を言われ続けるなど散々な状況で登山していた。 実際に、私が認知機能を何とか無事に保持できるのは、乗り物なら20キロ~40キロだった。そこへ法定速度に譲歩の上で80キロ。脳機能的にかなり大変な中で、母の大声は追い打ちをかける訳だ。 御開扉へ連れて行ってくれるとはいえ、私にとっては鬼である💧 信心として私が努力することは、死んでも「行かない」とは言わない事だった。実際、状況の打開としてできる事は、他に手がないのだから。) 

しかし、これは客船である。乗ってみない事にはわからないが、試す価値はあると思った。

飛龍21はその年の12月に営業を終了することが発表され、ニュースになったので知った情報だが、良い機会だった。費用も大幅に値下げされていた。

私は「老後の為、万が一の合併症のために」と取っておいた貯金を叩いて、沖縄への乗船を決めた。

(1型を発症した9歳から16歳まで給付された、難病が対象の市からの御見舞金。)

旅行のように見えるが、そうではない。沖縄の観光地を回る訳ではない。まず船に乗り、時速と体調・脳機能の状態を確認し、沖縄に到着後はホテルで過ごし、家族がいない(手助けや余計な情報、会話などがない)状況で、脳機能的にどこまで動けるのかを確認する旅だ。

見慣れない場所への移動は大きな負荷となるが、それでも暗くて静かな場所に数時間ほど1人でいれば、時間経過で認識が追い付き、ゆっくりでもスムーズに動けるようになる。

(家族といると、これが妨げられるので、生活の全てに不具合が出る。 家族と同居では、家の中を常に暗くしておくわけにもいかない。健康な家族の方が怪我をする事になるから。)

脳の負荷を極力減らした1人の状態で、どこまで血糖値を下げられるかも確認する必要があった。船に乗る2014年の段階では上顎洞炎1つだったが、この先を思うと合併症(網膜症、緑内障、糖尿病性腎症、糖尿病性の末梢神経障害など)が怖かった。

「暗くて、静かで、会話など視聴覚情報の変化がない環境を作る事で、意図的に高血糖を維持する必要性を減らし、合併症リスクを減らす事ができる」という事を証明し、どうにか家族の理解と協力を得る必要があった。

脳機能的に、到着後はホテルから1歩も出られない可能性が高かったが、目的は旅行ではなく、体の状況・脳機能の状況の把握である。私は船とホテルの予約だけをして、旅に備えた。


・出発日のアレコレw


出発当日、私は母の運転する車に乗り、埠頭に向かっていた。

2週間ほど前に母に話したところ、あっという間に父と姉にも伝わったw 心配を理由にした妨害を覚悟したが、3人とも驚きながらも前向きに見送ってくれた。

ただの船旅なのに、一家総出で埠頭までお見送りw 私は飛行機に乗るのと変わらない感覚だったが、家族にとってはそれ以上のインパクトがあったようだ。脳機能が怪しい患者の一人旅という事で、心配もあったのだと思うが...。

埠頭までの道中で、家族が車内から不思議な雲を見つけて教えてくれた。龍の頭部にそっくりな雲だった。あんなに細部まで龍らしく見える雲は本当に不思議だった。

私は走る車の速度に認知機能を保つので精一杯だったが、家族は雲の写真を撮っていた。

埠頭に到着後、私は乗船手続きの書類を書く予定だったが、ここでトラブルが起きた。

アスペルガーと多動性症候群+αが疑われる落ち着きのない父親が、書類を記載し始めた私の目の前で(しかも下方、正面から)カメラのフラッシュを浴びせたのだ。

父は滅多に来ない港の写真や、乗船手続き所の写真を撮りたいだけなのだが、私は眼球使用困難症の上に認知機能が大幅に低下している状態だ。その間近でフラッシュを付けるのは、非常に危険だった。

父が車内でカメラを取り出した時点から、よくよく「フラッシュをつけないように」と全員で言い聞かせていたが、多動性症候群の疑われる父には制御不能な頼みだった。

私の認知機能の問題は、決められた場所(マス目)に文字を書く事も難しい状態であり、乗船手続きから既にリハビリの状態であった。

これを父に妨害され、何も見えなくなった私は認知機能の悪化もあって、手続き所の外でしゃがみ込む事になった。そして、手続きは母に代行してもらう事に。

(船の予約はインターネットで済ませていたが、個室か相部屋かなどの詳細については、乗船所での書類記入が必要だった。)

母には個室の注文と料金を渡したが、ここで母もミスをする。手続き後に母から渡されたお釣りが少し多い気がして、母に個室である事を確認した。(母は個室だと言った。)けれど、結果的に相部屋にされてしまったのだ。このミスは乗船後に発覚する。

視聴覚情報の変化で悪化する脳機能のために、個室を選んだはずが相部屋であり、しかも、そのお客がよくしゃべる人だった💧

おまけに、持病があると言いながら、部屋の中でニンニクを丸ごと何個も食べはじめた。脳機能が正常でも酷い臭気でたまらないだろう。(健康な人間でも、一度にあれだけ多くのニンニクを食べたら、体に支障が出そうな量だった。)

乗船による環境の変化で精一杯の私の脳機能は、思いがけない相部屋の客という視聴覚情報の負荷に、強い痛みと恐怖で固まっていた。しかし徐々に怒りが強くなり、血圧が上がり・・・ 一時的に、本来の脳機能に近い状態を取り戻した。

自分の体調を確認しようと血糖測定をした私に対して、相部屋の女性が言った。

「あら、この臭いアルコール? 私、消毒綿にアレルギーがあるのよ。あなた糖尿病なの? あらやだわぁ~困ったわ~」

瞬間、怒りが沸点に達したw (割愛するが、他にも変な話が1つ2つあった。)


一番悪いのは父だ。いつも通りに無神経で不用意なことをして(自覚も謝罪もないままに)、前後不覚な子供をさらに危険な状態に追い込み、自分で手続きができない状況に追い込んだ。そこへ、代行を頼んだ母のミスが重なり、個室の予定が相部屋となる。

更なる偶然により、相部屋の客が超おしゃべりで声の大きい女性だった! 強いニンニク臭とともに何だかんだ一人でしゃべり倒して私の脳機能を圧迫し、最後にこの言葉である。

怒りと血圧上昇に任せて船内のトイレ(静かで暗い場所)へ行き、認知機能を落ち着かせて状況を把握。言葉を整理して整えてから、トイレを出て船員さんに相談した。

「相部屋の人と、お互いに医療的な事情で同じ部屋にいる事が危険だと判明した。私を他の部屋へ移動させてほしい」

私が1型糖尿病患者で、血糖測定などのためにアルコール消毒綿が必要不可欠である事、相部屋の女性がアルコールアレルギーである事を伝えた。

船員さんは少し困った顔をしたが、健康上の問題があるという事で理解を示して、上役に相談して私を個室へ案内してくれた。


部屋を移動して一安心と思いきや、怒りが落ち着いて血圧が下がるとともに、短時間で2転3転した場所の変化によって脳が痛みと混乱に陥る。

・・・くそ親父め! いるだけ危険でしかない!


そう。今回だけではないのだ。私と姉が子供のころから、何度となく似たような危険なことが起きていたのだ。父の異常性によって。

長々と離婚を選択しないで、問題に向き合おうとしてこなかった母親にも大きな問題がある。結局、一番とばっちりを食らうのは、外へ仕事にも気分転換にも出られないほど重い病状の私である。母も姉も、一定の健康があるので外へ避難できるのだ。

もう・・勘弁してくれ・・・。||orz...

念願の静かな個室のベッドで、そんな勿体ない苦悩の時間を過ごした後。ようやくゆっくり船内の探索を始めた。

(認知機能が場所の変化に追いつくためには、一定の集中力で気を反らす事が必要。目の前の変化から気を反らすには、過去・直近に起きた印象深い出来事に思いを巡らすのが手っ取り早い。無意識に、人は過去の怒りや悲しみに気を取られる。 

ここで、船内の個室に他人がいない事が幸いする。同居人がいると、場所の認識に時間がかかるが、誰もいないと場所の認識に全力を向けられる。結果、過去のつまらない記憶に囚われ続ける時間が短く済む。だから、当時の家で過ごす状態とは驚くほどの速さで次の行動=船内の散策へ意識を向けられた。)

初めての場所だったが、船内の廊下は(安全上)無駄な置物がなく、視覚情報が少なかった。また、お客の人数も船全体の収容人数よりずっと少なかったため、船内は静かで脳に優しかった。

最も心配していた船の速度は、脳や血管を圧迫するような速さではなく、波も穏やかで安心して乗っていられた。

誰もいない甲板に出て、ボーっと夕日を眺める。

ようやく持てた脳機能の余裕に、今の自分の状況や、西から帰ってきてからの状態を落ち着いて振り返る事ができて、ちょっと幸せだった。(記憶の整理・定着を図る事ができた。)


ここで、私はようやく母に電話を入れた。母は私のために慣れない道を運転し、姉は独立していたが、私の身送りのために一緒に来てくれたのだ。乗船後、ようやく落ち着いたので電話を入れた。

相部屋からの事の顛末を話すと、母は記入ミスについて謝罪し、個室へ移動できたことを喜んでくれた。その他にも何か色々と話したが、久しぶりに母とまともに話ができた。

電話が終わってから、嬉しくて少し泣いた。

やはり、静かで暗くて落ち着いた場所(視聴覚情報の変化が少ない場所)であれば、私の脳機能は意思疎通が図れる程度に保てるのだ。 

常態として、普段は1人だけで過ごしていれば「電話でたまに話す(聞く、理解する、回答を考える、言葉を選ぶ、答える)」くらいの負荷には耐えられるのだとわかった。

(それでも、会話のペースはかなりゆっくりだけどね。^^; 戦場カメラマンの渡部陽一くらいのペースでちょうど良い。本当に。)


・下船直前の色々w

2泊3日の航行は順調に進み、沖縄に到着した。下船の準備をする。

家と異なり、視聴覚情報が制限されていたお陰で脳に酸素が回りやすくなり、船内で勤行もできた。(それでも休み休みの時間のかかる勤行で、唱題は無理だった。)

下船の準備とは、荷物の整理である。弱った脳は物の形の把握にも時間がかかる状態なので、かなり前もって準備をした。そのお陰で、早めにデッキに待機する事ができた。椅子に座っていたところ、他の乗客も集まり始める。

そこで、ちょっとした問題が起きるw

この2泊3日の間、脳に少し余裕ができた私は、居合わせたお客と簡単な会話をする事ができた。即時応答の会話は脳機能にとって難しいのだが、常時1人で静かな時間を過ごせた私は、少しだけ本来の機能を取り戻すことができたようだ。そこで・・ ちょっとしたミスが起きた。

航行中に少し話した男性客が、到着時のデッキにやってきた。

そして... 簡単なあいさつの後、男性が私の沖縄でのホテルを聞いてきたw 

私は簡単な会話ならできるとはいえ、頭痛は消えず、顎の痛みも強いので、頭の中は常にボーっとした状態だ。敢えてその感覚を保っている部分もある。意識をはっきりさせると(無意識に認知機能が働こうとして)痛みも強くなってしまうからだ。

しかし。それでも危機は察知できるw 最初はぼんやりと男性と話していたが、

「ホテル? ああ、ホテルは...(!?) ホテルは数回、移動しますので...。ツアーではありませんが、仕事も色々ありますので...。^^:」

そう言って誤魔化した。前日に話したとはいえ、そこまで長く話してはいなかったし、船マニアのような男性のご機嫌な話をボーっと(5分~10分ほど)聞いていただけだったのだが、興味を持たれてしまったようだ💧 気を付けなければ・・💦

それでも男性は「そうですか。ホテルが近いと良いなぁ・・(バスくらいは一緒だと良いなぁ)」なんて言っている。

私はそーっと離れて、出口へのエスカレーターに並んだ。

すると、すぐ後ろに1日目の相部屋の女性が走ってやって来たw 急いでいるのかと思いきや、私の後姿を見て走ってきたと言う。

おかしい💧 私はどうやら、この人にも微妙に気に入られてしまったようだ。下船後のバスやタクシーに(行先が合う場所まで)同行したいと言ってきた。

そう。私もわかっている。乗船当日の「やだわ~困ったわ~」という発言や、その他の無神経な言動は私に対する嫌味ではない。どこまでも女性自身の感情による素直すぎる発言だ。女性に悪気はない。ただ、マナーやTPOに著しく疎いというだけで💧 そこが大問題なんだけれども。

この手の人間には、同じだけハッキリ物を言う必要がある。しかし、今の私にそこまでの肺活量も語彙力もない。脳内で適切な言葉(単語)を選択するまでに、非常に時間がかかるのだ。

少ない脳機能の中で身を安全に保つには、隣人の話を含めて周囲の状況を把握し、自分の置かれる状況・未来予測をして、次に自分の取るべき行動を決める事が先決だ。

言語障害のある私にできる事は、この状況では逃げる事だけだw


Mission

【船マニアの男性とにんにく女性よりも早くバスに乗れ! 

第一便のバスで乗船所に到着し、

第二便のバスが到着しない内にタクシーに乗り、ホテルにチェックインする事。】


突然のミッションw それくらい時間は迫っていた。自分のすぐ後ろに女性、数人後ろに男性がいる。この短い距離で違うバスに乗る事は至難の業だと伺える。そこへ、自分の脳機能の問題。

エスカレーターを下りたら、そこは初めて見る景色である。その状態で認知機能が追い付いて、無事にバスまでスムーズに移動できるかどうか。

とても完遂できそうにない💧 しかし、モタモタしてホテルを聞きたがる男性に捕まっても、にんにく女性に捕まってもアウトである💧 言語障害のある脳機能で捕まっては、非常に厄介な状況に陥る。

エスカレーターの稼働を待つ間、私は悔やんだ。その日の船内の朝ごはんを、しっかり食べなかった事をw 血糖を爆上げさせておけば、ミッション完遂のための認知機能向上に役立ったはずだ。

マルエーフェリーの船内食堂は、厨房を長崎出身の人が担当しているらしく、甘い唐揚げや甘いあんかけ料理、薄甘いお味噌汁などが特徴的で楽しかった。(長崎・出島・異国情緒♪)関東出身の私には少し違和感のある味わいで、たくさん食べられるものではなかったが... 

(;≧◇≦) 朝ごはんでも食べておけば良かった! 甘い唐揚げ!!! (≧◇≦;)

ミッション開始w

いよいよ到着し、船内にアナウンスが流れる。エスカレーターが動き出した。

さぁ、行くぞ。重いキャリーケースを持つ手に力が入る。今の認知機能で、どこまでやれるか。走れるか...。

その時、後ろで「あ!」と声がした。にんにく女性が忘れ物に気付いて、自分の部屋に取りに戻った。これで女性とは距離ができた。違うバスに乗れる確率が上がった。 気にするべきは、数人後ろの男性だけだ。(男性なので、足は速いだろうが...。)

私はバレない程度に、脳機能が保てる程度に早足でエスカレーターを下り、できるだけ周囲の景色を見ないようにして一目散にバスへ乗り込む。既に定員間近の混雑したバスだったが、何とか乗り込めた。

バスの窓の外には、ややポカンとした様子でバスを見上げる男性とニンニク女性。

「申し訳ない💧」と思いつつ、私は笑顔で会釈した。

(座席は2人から見える位置しか開いてなかった。 アナウンスにより、バスの出発は全員の着席が必須だった。) 

バスはすぐに出発し、ターミナル(乗船所)へ着いた。先に出発できて一安心だが、まだ油断できない。下船した場所とターミナルの距離は遠くない。第二便のバスが来るのは時間の問題だ。

すぐにタクシーに乗る必要があったが... タクシー乗り場に車はなかった。認知機能のためにも少し休みたかったが、待っている時間はない。携帯電話で呼ぼうとターミナルの受付に戻ろうとしたところへ、タクシーが来た。

急いで乗り込み、行先のホテルを伝える。タクシーが発進してロータリーを一周した頃に、第二便のバスが到着した様子だった。

ようやく一息ついた私だったが、移動による脳への負荷で痛みと恐怖感が強くなる。休みなしで大慌てで動いたからだ。(それでも、よく保ったと思う。)

この後は、ホテルでのチェックイン手続きが待っている。低血糖ではなかったが、私はタクシー内で手持ちの捕食を摂って血糖値を上げ、手続きに備えた。

ホテル到着後、ロビーで少し休み、認知機能を整えてチェックインに臨んだ。この時、完全に休んで脳機能を落ち着かせてはいけなかった。

理想は、数時間ほど暗くて静かな場所で落ち着いてから、手続きに進む事だ。しかし現実は、チェックインを済ませないまま何時間もロビーに居られないので、脳の恐怖や痛みによる興奮状態・集中力を少し利用する形でチェックイン手続きに進んだ方が良い。脳には辛いが、致し方ないところだった。

タクシーに引き続き、追加の捕食で脳機能や血圧を上げて、何とか手続き書類の認識と記入、フロント係の説明に間に合わせた。

部屋の案内では、係員の歩く速さに(認知機能的に)ついていくのが難しかったが、何とか部屋に到着。無事にチェックインを完了した。

Mission Complete! (;´▽`A``


【ホテル滞在】

沖縄では、旅の予算とホテルの空室状態によって、最初の2~3日を同じホテルで過ごした後、2つ目のホテルに移動する予定だった。(船の往復を入れると10日間くらいの日程。)

1つ目のホテルにチェックイン後、2~3日は脳機能を休ませるために、部屋から出ることなく過ごした。2日目に何とかホテルのレストランに行き、見慣れない風景に恐怖を感じつつも、美味しいご飯に集中して、その日の課題を何とか達成w

このホテルは国際通りに近い位置にあり、買い物に便利な場所だったが、視聴覚情報が豊富に飛び込んでくる場所でもある。なので、外へは出ないで予定通りにホテルで静かに過ごした。

ホテル内にも売店はあったが、脳機能的に行ける状態ではなかった。このため、レストランに行けない状態の時の食事は、船内で多めに買っておいた食料品が役に立った。(船内の売店は、小規模ながら非常に充実していた。先を見越して買い込んでおいて良かった。)


ここで脳を休める事ができたので、2つ目のホテルのチェックインでは割と余裕が持てた。

落ち着いてタクシーに乗り、移動。このホテルは老舗の有名なホテルで、大きな駐車場と団体バスが並んでいた。規模が大きなホテルはお客も多く、視聴覚情報が多いので不安もあったが、老舗でレトロな作りだったために脳への負荷が抑えられて、スムーズにチェックインできた。

(低血糖脳症に準じる状態だったが、高齢者の認知症に似た症状を抱えている。短期記憶障害により、古い記憶ほど簡単に思い出せて、認識に伴う恐怖感が少ない。

風景で言うと、昭和レトロが脳に優しい状態。 テレビの場合は、テンポの遅い古い映画、現代劇よりも時代劇。そういう物の方が脳への負荷が少ない。 それでもしょっちゅう一時停止を押して、頭を休ませながら見るので、テレビを見る事は少ない。) 

ホテルの中は広かったが、ドリフの時代のような旅館の作りで、最初からゆっくりと自由に歩けた。部屋に入るとこれまたレトロw まるで熱海の旅館のようだった。なんだかホッとする。

ヾ(*´∀`*)ノ このホテルにして良かった~♪

部屋にはベッドと小さな丸テーブルと1人掛けのソファ。洋室だが、丸テーブルには和菓子と日本茶のセット。完全に和室(旅館)のウェルカムドリンクだw

まずは休憩。ホテルの移動を電話で家に報告する。そして、ボーっと脳を休ませる時間♪

どうやって過ごそうかなぁと考えていると... 少し妙な臭いがする。たまに隙間風に乗って?妙な臭いがする。

1時間ほど経つと、少し息が苦しいような気がした。どうも原因はお風呂場のようだ。カビかな?

古いホテルなので多少は仕方がないと思うけど... 様子を見ながら、一度、外の空気を吸いに行くことにした。

ロビーや駐車場に出ると呼吸が戻った。おまけに、ホテルの内装が脳に優しかったので、近くのコンビニに行く余裕ができた。この機に食料を買い足す。

ホテルに戻ると、部屋の問題はやはりカビだと判明する。夕飯後には部屋にいるのが辛くなってきた。

最終的に、母と電話で相談の上、ホテルを変更する事にした。母は「お金は気にしなくて良いから、良いところに泊まりなさい。」そう言って、かなり値の張る新しいホテルを予約してくれた。

(元々、自分の貯金だけで旅をする予定だった。しかし、この新しいホテルは家のお金を使わせてもらう事になった。)


タクシーで次のホテルに到着すると... 驚いた💦

そこはリゾートホテルで、チェックインの段階から、個別な仕切りのあるラウンジでウェルカムドリンクなどが提供された。まるで海外旅行!(ビジネスクラス仕様のツアーで使うホテルw)

日常生活では見ないモダンなホテルのフロントや廊下を認識して、脳が恐怖を感じる。しかし、幸いリゾートなだけあって、廊下の照明は暗く、廊下や壁もダークな色で統一されていた。

遊園地のミラーハウスを思い出し、床を見て(視聴覚情報を抑えて)進む。

案内された部屋は、ツインルームだったw しかも、超広い! シースルーの広いバスルーム付きだよ!w

家族旅行ではなく、療養(残存機能確認)のための一人旅で、ここまで値の張るホテルというのは...💦

価格もさることながら、それ以上に辛かった。

「こんなに広くて、モダンで、見慣れない部屋・・・ (つд⊂) 怖いよーー💦 熱海(なホテル)が良かったぁあああ!!!」

 (※ ここは沖縄であるw)

認知機能の低下した脳は、見慣れない物や大きな音、環境の変化などに対して、黒板を爪でひっかくような恐怖を感じさせる。それは心細い(誰かが近くにいれば怖くない)という話ではなく、本能的な恐怖や不快感を強く感じる状態だ。私はインスリンの調整さえできないまま、4~5時間ほど固まっていたw

見慣れない視覚情報を減らそうと電気を全て消灯していたが、時間がかかった。

少しだけ落ち着いて、ようやく母に電話を入れる。この環境は怖いが、お金がかかっている事はよくわかる。まずはお礼だ💦

感謝を伝えた後、謝罪して怖いと伝えた。しかし、それ以上ほかに選択肢はなかった。これ以上、短期間に環境を変える事は脳がもう保たない。他を探す余裕もない。

場所の変化に認知機能が追い付くまで、耐えるしかないのだ。(-_-;) 近くに誰もいない事(新しい・予期しない視聴覚情報を与える存在がない事)が、せめてもの救い。

私はここで、寝る事にしたw それしかできないのだ。寝てしまえw

🌴母がモダンなホテルの高い部屋を予約した理由🌴

これには2つの理由がある。脳に負荷がかかるとはいえ、致し方ない事情があった。

1つはカビ。古いホテルほどカビは多い。更に、沖縄は湿気(海風)の多い場所だ。どうしてもカビやすい。

2つ目は、隠れタバコの問題。 

新しいホテルでも、泊まりやすい価格の部屋は使用するお客が多い分だけ、禁煙室でもタバコを吸う客が訪れる確率が上がる。 たとえホテルが消臭スプレーや空気清浄機を置いても、喘息のある私にはわかる。臭いがなくなっても息が苦しくなるからだ。空気清浄機ではタバコの有害物質やガスは除去できない。

この2つの理由で、母は新しいホテルの少し高めの部屋を予約してくれた。

まさか、あそこまでリゾートなホテルになるとは思わなかったけど💦 この時、有難いことに母は先に、ネットで壁や床が落ち着いた色なのを確認して予約してくれた。

寝て起きて。それでも見慣れない部屋だ。怖いものは怖かった。広すぎる部屋(普通のツインルームではない。超広いツインルーム)に、トイレへ行くのも怖かったが、数日経ってようやく居室空間に慣れ始めた。インスリンと食事くらいは何とかできるようになる。(トイレやお風呂に行くのはまだ怖かったけど。)

3日目だろうか。ようやくホテルのレストランに行く。

ウェイトレスが眺望のいい席に案内してくれた。普通は嬉しいサービスだ。

しかし、私は目が光に弱い上に、認知機能の低下で眺望の良い席(視覚情報が多い席)には座れない。窓に背を向けて座っても、周囲の窓の風景が見えてしまう位置だった。(レストランはリゾートホテルの上階で、窓も大きい。)

自分でも残念に思いつつ、窓から離れた席に移動させてもらった。

その後、怖いながらも動き始める。まずはタクシーで日蓮正宗の光明寺へ。ホテルの中でも勤行はしていたが、お寺の方が頼もしい。久しぶりに御本尊様に御挨拶をして、1人でゆっくり勤行をした。

何度もお寺へ行く事で少しずつ風景に慣れて、ホテルの外へ出られるようになる。人通りの少ない時間や雨の日を狙って、国際通りを歩いた。

最初は夜遅く、土産物屋のシャッターが閉まる時間に出かけた。視覚情報が減り、通り全体を把握しやすかった。(それでも飲食店の多くは営業中で、道には絵描きなどの露天商が多くいる時間帯。)

少し歩いては止まり、振り返り、自分の位置を何度も確認しながら進む。国際通りの飲食店はレトロな雰囲気のお店も多く、休憩に助かった。

日中、通りが人で混み合って視聴覚情報が増えて歩けない時は、裏通りに入り、照明が暗いレストランでゆっくり過ごした。

数日かけてリハビリがてら散歩した。人の少ない時間に少しお土産を買う事もできた。

そして・・国際通りにある百名伽藍(コンセプトレストラン)で観光気分を味わった♪ ショーは見ていないが、店内の沖縄らしい歴史を感じるインテリアを楽しんだ。

(この日はレストランだけで脳が疲労し、タクシーでホテルに戻ったw 楽しいけど、視聴覚情報が多くて怖いのだ。)

沖縄でのホテル滞在と散歩で、今の脳機能でも1人でなら、視聴覚情報の変化に時間を掛けながら、何とか対応できることがわかった。

家族の了解を得て滞在を数日伸ばし、飛龍21の最終航行で帰る事にした。人生で最後となりそうな沖縄を楽しんだ。

(頭痛や認知機能の低下など、後遺症のある脳機能と低血圧では、飛行機や新幹線の時速に耐える事ができない。体に優しい船で西の遠方へ出かけられる客船は、首都圏からでは飛龍21が最後だった。 神戸からなら客船は出ているが、今の健康状態では首都圏から神戸まで行くのが大変だ。

沖縄が殊のほか好きだという訳ではないし、実は今回の船旅より前に観光で家族と2回訪れている。ただ、将来的に 沖縄に行こうと思った時に健康事情で行けなくなる=選択肢がなくなる事を思うと、少し寂しい気分になった。)

🌴

チェックアウトの前日、予約していた船会社から連絡が入る。天候の悪化で、船が予定より遅れて出発する事になったらしい。2日後に出発となった。

私は認知機能に優しい悪天候を利用して、強い風雨の中、快適に最後の沖縄を楽しんだw

タイミング良く、短い晴れ間にエイサーのストリートパフォーマンスを見られた。今回は国際通りしか行けなかったけど、最高に観光気分を味わえた✨ 写真も取れた♪

(悪天候で昼間でも外は暗く、人通りが少ない。晴れた日よりも視聴覚情報の少ない環境が作られる。だけど、商店が閉まるほどの悪天候ではない。 ( ̄▽ ̄)v 最適だったw サングラスも帽子も外して、快適に外を歩けた♪ 短時間だったけど、脳機能の後遺症も忘れるくらい頭痛もなく、調子が良かった。)

🌴ポイント🌴

後から気付いたが、この時、大雨で道路にはたくさん水溜まりができていた。空が暗いだけでなく、水溜りが多かった事で、(踏まないようにするために)適度に集中力が上がり、認知機能が程よく(負担にならない程度に)底上げされていたのだと思う。


【帰りの船🚢】

チェックアウトの日。脳が移動に耐えられるか心配していたが、スムーズに乗船所に到着できた。

帰りの船も個室の予定だったが、母が言った。

「一等船室で帰ってきなさい。お金は家のクレジットカードを使ってね」

Σ(゚д゚lll) いっ・・・一等!?

いや、まぁ・・良いけどさ・・ (いいのか!?💦)

母は行く時の船で手続きミスをした事(それで相部屋になった事)を気にしていたようだった。それで一等船室を勧めてくれた。

どうしよう...。 私は悩んだ。ホテルが見慣れない モダンで広いツインルームだったので怖かった。しかし、船なら一等でもホテルよりはマシだろう・・・。おまけに、本当の最終航行のため、一等船室も大きく値下げされている。

この母の提案は・・・・ 悪くない。たぶんw ( ̄▽ ̄;)

行く時の船は少ない乗客だったが、帰りの船は最終だけあって、マニアが多く乗り込むかもしれないし?w

そこまで考えたところで、一等船室の予約が決まったw 

(一等船室は一番端の部屋だ。廊下に出ると、そこから出入り口や食堂に向かって、各部屋のドアごと全体が見渡せる。脳機能に対して懸念される乗客がいても、事前に避けられるという事だw)

帰りの船は順調で、快適に過ごせた✨ 

(一等船室は広く、トイレとお風呂もついているので、部屋の外に出る事はあまりなかった。船の端っこなので、窓も横に広く、甲板に出なくても海を見られた。普通の個室にはないウェルカムドリンク=お茶セットも満喫♪   部屋の冷暖房が効かなかったり、バスタブの底にガムテープが張られていたのは御愛嬌w 最終航行なので修理費を節約したのだろう。真夏や真冬じゃなくて良かったw)


・東京到着

東京の埠頭には、母が車で迎えに来てくれた。

帰宅後に、自分で撮った写真を見る。2つ目のホテルがどんな様子だったか、家族に見せようと撮影していたのだが... 見せられなかった💧

モダンすぎて怖くて、カメラを正面に構えて撮影する事ができなかったのだ。 撮った写真は全て、ホテルの黒い床だけだったw 我ながら辛い。10年経った今でも、辛くて整理ができない写真たち。(本棚のファイルにお蔵入りの状態💧)

怖い中で、早く通り過ぎたいのを我慢して、すごく努力して撮った写真。何枚もあるけど、黒くて何も映っていないようにしか見えない。^^; 家族のみんな・・・せっかく良いホテルに泊まらせてくれたのに、ごめんなさい💧

(エイサーのストリートパフォーマンスや、無事の確認用に鏡に映した自分の写真は見せられた。)

【折伏の再開】

脳機能が重いダメージを受けたのが2011年12月下旬。船旅に出たのが2014年11月~12月。

そして、次のステージ(!)が2015年4月下旬から始まる。

この3年ちょっとの間に、私は少しずつ折伏を再開していった。まずは【折伏返し】w 家にやって来た邪宗の勧誘員を、日蓮正宗のお寺に誘った。(誘うと、勧誘員は100%退散していく。その内、どこの宗派の勧誘員も来なくなったw)

そして、自分の脳機能の様子を見ながら、友人数名に電話をかけて日蓮正宗の信心について話していった。(折伏というよりも、自分が日蓮正宗の信徒であると知らせる程度。そして、バセドウが寛解した経緯などと共に功徳を話した。)


【友人(患者仲間)の折伏】

2014年か2015年の1月。高校時代に鬱になった1型の患者仲間を、恒例のお茶会でお寺に誘った。

(この友人には、日蓮正宗について話すのは2回目だった。1回目は私が20代の頃。鬱になった友人が時間を持て余していた様子だったので、大石寺の桜の案内と共に、気分転換に声をかけてみた。今回は2回目。)

友人の鬱状態は相変わらずで、精神科の薬の服用も長くなり、インスリンも射ったり射たなかったり。 このため、年に1回会うたびに、友人の顔色や歯茎の色は紫色が濃くなっていった。

まるで棺桶に片足を突っ込んでいるようにさえ見える中で、これまた相変わらず精神科の病院で作られた「精神疾患の患者同士の対話グループ」によって不安定な男と恋愛関係を作り、心身共に悪化していった。

私自身も認知機能の低下でゆっくりとしか歩けない状態だったが、それでも友人とは楽に一緒に歩けた。 それくらい、友人の体は長年の高血糖で弱っていた。(抗うつ剤などの影響で友人はボンヤリした様子もあるので、会話もゆっくり進み、私の低下した脳機能でも楽に話せた。)

歩く様子から、体が熱くて怠そうな様子がわかる。彼女と会うのはいつも1月なので、外は寒い。しかし、高血糖やケトン体によって体内は熱く、うつ熱している。

タンクトップに近い半袖の友人に、私は手持ちのシフォン生地のスカーフを掛けた。(ないよりは温かく、程々に風を通して熱を逃がす素材。)いかにケトンが出ても、表皮の体感は残っている。私自身も経験があるのでわかる。冷えるはずだ。

友人は「ありがとう」と言った後、しみじみ何度も言った。「優しいね」と。

私はもう、黙って見ていられなかった。優しいも何もない。1月にジャケットもなく半袖で歩き、 その理由が1型糖尿病による高血糖だと知っていれば、普通の行動だ。

普段、友人がどんな人間の中にいるのか。この一言でよくわかる。長年の精神疾患の闘病と療養生活のために、精神的に健康な人間が周囲にいない(乏しい)状況なのだ。

結局、精神科の医者も友人の両親も、彼女自身の事を考えていない。両親が患者の精神状態(鬱の原因と改善方法・回復できる環境作りと対応)についてわからないのはまだ理解できる。けれど、精神科の医者でさえ悪化させる事しかしていないように見えた。

(結局、精神科でも治療の方法が見当たらないから、患者同士で話をさせて、医者やカウンセラーの負担を減らそうとしているように見える。厄介払い的な印象。 分野的に、そうならざるを得ない部分があるのはわからなくもないが...。それにしたって、不安定な患者同士で悪化させてどうするのか。医者はグループの活用方法、ガイドやナビゲーションに失敗している気がする。)

長年、友人と話して色々思う事はあったし、20年近くかけて(彼女の言葉の中から選んで)1つ、2つのアドバイスをしてきたが、私はついにお寺に誘った。友人を取り巻く世界を否定する事なく、もうただ、正法によって友人自身の過去世から現世に続く因縁を解消して、今生を少しでも生きやすくする事を勧めるしかない。

しかし、私は失敗した。逆縁を作ってしまった。

最初から過去世がどうとは話していない。10年ほど前に友人に話した通り、観光気分の延長として所属寺院へ誘ってみた。すると意外なことに、友人の方から「住職さんと話してみたい」と言ってくれたので、日程調整に進んだのだが...。

私が住職さんに経緯を話して、友人との面会に了承を得たところで、友人からの応答がなくなった。友人がお寺に来られそうな日を私に連絡してもらうだけだったのだが、応答がない。

その割に、SNSからは友人の活発な発信と行動の様子が見られる。

10日近く経って、私は「お寺はどうするのか」と尋ねたところ、友人は私とだけ会って話したいと言った。そして、会うと絶交を告げられた。

理由は「宗教嫌い」だった。これまでそんな話を聞いた事はなかったが、どうも子供時代に(中学生くらい?)しつこい宗教の勧誘を受けて怖い目に遭ったそうだ。それを思い出したので、お寺には行かないと。それだけでなく、私との友人関係も終わりだと言った。精神科の主治医に相談して、医者もそう言っているとの事だった。

なるほど。そう来たか。なら、仕方がないね。完全に用意されたセリフだ。(それでも、20年ぶりくらいに聞いた、彼女自身の意志が現れた言葉に、私は嬉しく思った。)

そもそも、友人自身が「住職さんと話してみたい」と言い、こちらは日程の返事待ちの状態だった。

気が変わったのなら「やっぱり行かない。行けなくなった」の一言があればキャンセルも簡単にできた状態なのだが、どうも話が(想像が)友人の中で勝手に進んでいた印象もある。

私の進め方が悪かった部分もあるかもしれない。精神疾患を相手に、健康な人間を相手にした普通の進め方では、問題があったのだろう。


相手は精神疾患で長年抗うつ薬などを飲み続けている人間である。友人の言葉の全てを私が真に受けることはないが…良いだろう。

そうして無責任な精神科の医者と、医者の勧める患者グループの中で 精神不安定な男をとっかえ引っかえして、半端なママゴトを繰り返すがいい。

仮にそんな事で束の間の充足を手に入れても、両親の不適切な教育と介入で作られた1型の注射に対する抵抗感は、解決できはしない。

ここまで悪化したなら、私のように1つ1つを自分で気付いた理屈(患者としての主体的な世界観・現実認識)によって解決するよりも、正法(日蓮正宗の御本尊様への勤行・唱題)によって自分の境界を変えた方が早いだろう。

正法によって、彼女には彼女なりの認識と理解の方法で、問題を解決する道を作れるはずだ。

友人は本来、精神科の対話グループによる悪い依存関係を繰り返すほど、主体性のない弱い人間ではない。それを私は知っている。だから友人関係を続けてきた。

今でさえ棺桶に片足を突っ込んでいるような顔色と足取りで、体が保てる間に本来の精神が戻って来られるなら良いが...。

この時、友人は何度も言った。「私はずっと、親友だと思っていた」と。

親友だと思っていたのに、どうして宗教の勧誘をしたのか? というニュアンスだった。

この言葉で私は冷めた。付き合いは長いが、私は彼女を親友だと思ったことはない。何でも話せるけれど、お互いに十分関与できないほど住まいに距離があり、お互いに困った時に傍に居られない健康状態だったからだ。そして、もう20年近く「対等」とは言い難い関係にあった。彼女が精神を病み始めてから、私は一緒にいて安心する事が(徐々に)できなくなっていったからだ。

これでは精神的にも「友人」以上の距離を詰める事はできない。

そもそも、「親友」という言葉は私の中にない。親友とは、一生に1人いるか、いないかの存在だと思っている。(小学1年生の頃に読んだ童話に、そんな話があった。妙に納得した記憶がある。)

「友人」と言える時点で、私にとっては特別な存在だ。しかし、彼女にとっては違った。そして、彼女の思う「親友」とは、互いにどこまでも甘えられる存在のようだ。友人には悪いが、私はそれには付き合えない。


何だかんだで結論w

私は「順縁を結ぶ話の進め方ができるほどには、まだ到底、至らない人間だった」という事w

自分に負けたんだょ。要は。 自分がこれ以上、見ていられなくて折伏したという...少し不純な動機だったのが問題だったのだろう。相手が心配だという自分のエゴが先行して、相手の意識を見て動く(考慮して誘う)余裕がなかったという事。

仕方がない。 この時は、私もそこまでで精一杯だったのだ。

次、行ってみようw

🌴 信心を続けた理由 🌴


ここで、低下した脳機能による生活上の困難に、理解のない家族・住職・行政、頼りにならない医者達という苦境において、どうして信心を続けられたか書いてみる。

1つは既に記載した通り、私自身が唱題の功徳を経験していた事。(バセドウ寛解の経緯)

もう1つは、脳機能にダメージを負い、絶えず酸欠や強い痛みを感じる中で、日蓮正宗の勤行やお題目が聞こえると症状が軽くなり、聞こえている時間だけは休めた事。

そして、住職さんの無神経で失礼な対応にも退転しなかった理由は、上記2点の他に、住職の回答が「答えていないに等しい内容だった」から。

ここまでの私の病状の経緯を読むと、この時の私の質問と住職の回答がまるで噛み合っていない事がわかると思う。住職さんがどれだけ法門について勉強していても、的外れで噛み合わない回答をした場合、それは無知と変わらない。それを聞いた私は、無知で失礼な回答に腹を立てる事はあっても、内容的に「ノーコメント」と同じ状態なので、退転する理由にはならなかった。

住職さんから無知な回答しか得られなかった結果「信心を続けてきて、どうしてここまで大変な事態になるのか(要旨)」という私の質問には、自分で考察を重ねるしかなかった。

積極的にお寺に通い始めた高校生の時から薄々思っていた事だが、

自分の病気や人生は、「もともとが大変なので、それを今生の信心で(生きているうちに)どこまで持ち上げられるか」という観点。

つまり、「信心をしているのにどうして悪い事が起きるのか、時に悪化さえしているのはどうしてか」という信心ありきの観点ではなく「今生の悪い人生があるから、信心をしている。どこまで持ち上げられるかは、自分の(変えられない)過去世と今生の信心次第であり、未知数だ」という観点だ。

自分だけでなく、過去に出会った信徒さんたちの様子も思い出し、考え極まって信心のヒント(1)の記述(管理人の考察)に繋がる。

(参照:管理人の考察

「人生は、変えられない過去世の状態に応じて、今生の振れ幅が決まっている可能性がある。

その振れ幅の中で目一杯、良い方向に振った状態が日蓮正宗の即身成仏という可能性」)


そして最後に。日蓮大聖人の人生を思った事で、信心を続けることができた。

日蓮大聖人は、衛生環境や食糧事情、技術の発達などが現代よりも乏しく、生きる事が難しかった鎌倉時代に、幕府から命を狙われてまで生涯、正法の弘通に励んだ人だ。

この選択は現世的に見ると... 愚かに見えるほど正気の沙汰ではない💧 完全に寿命を縮める選択をしているように見える。

しかし、首を狙われようと、島流し(流罪)に遭おうと、日蓮大聖人は諦めず、正法を信じて弘通した。

優秀な人である分、自分1人であれば如何様にも楽に生きる道を作る事はできたはずなのに、それをしなかった。

それほど多くの人に伝えたい法門であり、人間を根本的に救える道だと確信していた事が伺える

掛けてみようと思った積極的にお寺に通い始めてから、この時点で約20年経った。しかし、私は未だ全ての修行を100%完遂できていない。御書には「経文の通りに修行して印がなければ云々」「祈りとして叶わざるはなし」とある。それらは、「経文の通りに確実に修行した上で」の話なのだ。

もう一度、大聖人の信念に掛けて、信心を続けて寿命まで生き切ろうと思った。そうでなければ、真価はわからないと思った。大聖人は言っている。法華経の行者には大変な困難が待ち受けるけれども、どうか信じて続けてほしいと。私は、掛けてみようと思ったのだ。たとえ三唱だけで精一杯な身体状況が続いたとしても、それならそれだけでも、寿命まで真っ当しようと思った。

死んでからわかっても遅いと思ったが、全うしなければ全容はわからないとも思った。
大聖人について行こうと思った。既に苦しい中、御授戒を受けてから30年以上も乗ってきた舟だ。

寿命まで信心を全うして、せめて死後に現世を振り返って「どういうことだったのか」を落ち着いて考える余裕が持てるくらいには、成仏したい。

成仏して、その先を見るのだ。私の人生・・・(現世的に)自分のためにも、他人のためにもならない人生を生き続ける事に、どんな意味があったのか。家族を含め、多くの人に支えられながら、何1つ返せないまま信心を続けて、そこで成仏したのなら。自他共に、そこまでの負担(労力、時間、心労、高額な医療費、関係者の行動範囲や生活の皺寄せ等)を強いても目指すべき成仏とは何なのか。その先には何があるのか。生前よりも死後の方が視野を広く持てる可能性がある。成仏して安定した精神状態で、今生の意味を振り返るために。

(ここからさらに時間が進んで、今は、自分やこれまで出会った信徒さんの話を含めて、多くの「(功徳があるという事を)信じたいのに信じられない。信じるためにも(結果が出るまで)行じるという動機を持ちにくい状況にある人功徳の確信を得る前の信徒さんに、信心を実行やすくなる方法を提案したい」と思っている。)

【自信と幕開け・前哨戦


船旅で残存機能を確認し、今の脳機能での体の使い方を覚えた私は、予算を調べた上で、両親にミニキッチンの増設(リフォーム)を頼んでみた。

視聴覚情報を極力減らした環境が脳機能の回復に役立つ事が確実にわかったので、自室にミニキッチンを作り、家族のいる居間とは離れた生活をしようと考えた。(血糖の管理において、日々の食事を自分で調整するために台所は必要だった。)

これは家族にとってもメリットがある。居間に私が来ない事で、照明を十分に使う事ができ、視力の低下や不測のケガを防ぐことができるし、私がいると付けられないテレビを十分に楽しめるのだ。既に60歳を超えた両親にとって、照明の問題は大きい。

(この時、居間は健康な家族にとっても、後遺症がある私にとっても使いにくい場所になっていた。健康な人に必要な照度を100とした場合、私が動ける照度は5~10くらいだ。当時、居間の照明は窓の採光を含めて50~80くらいに抑えられていた。互いに配慮した結果、全員が生活しにくい状況だった。)


しかし、ここでも残念ながら理解を得られなかった。

母は日頃から、私が遠慮して居間から早く出て行こうとすると毎回、強く引き留める。それでいて、「見えやしない!」「暗いと鬱々とする!」と突然叫び出す状態を繰り返していた。

(これでは私はどうしたら良いかわからない。)

このため、母には私のリフォームの提案について賛成してもらえると思っていたが、反対された。理由は「(リフォームにあたり)家の設計図を出すのが面倒」とか「費用が掛かる」との事だった。

私は前もって調べておいた数社の参考資料を見せたが、興味なさそうに一瞥するだけだった。

父は父で案の定、私の話を聞きさえしなかった。「そんなことより云々…」と言う感じだ。

私は私なりに親の年齢と収入、自分と家の将来を考えて、最もお互いに健康を保ち、費用を節約できる方法を考えたのだが、誰にも理解されなかった。


【幕開け】

2015年4月下旬。ある事をきっかけに、私は家を出た。特別な事があった訳ではない。ただ、いつも通りの病気に無理解な日常と、それに伴う酷い言葉や態度があっただけだ。

それについて、これ以上は堪えられないと思った。何より、合併症が怖かった。私は早く脳機能の療養に適した生活環境を整えて、少しでもヘモグロビンA1cを下げる必要があった。

無理解な家族のために、1人でいる時以上に高血糖を無理にキープし続けて上顎洞炎を発症し、既に歯を1本削りきっている。(土台をわずかに残して。)

次に何が起きるかわかったものではない。医者たちも行政もお寺も、何も頼りにならない以上、私が私を守るしかない。

生後二カ月で終わるはずだった命が、9年に伸びた。11年で終わる命が(預かった隣の家の幼稚園児に首を絞められて失神💧)、28年に伸びた。そして今や30代。もう十分だ。

死んでも構わない。でも、生きられるところまでで良い。生きてやる!w

できる事があるのに、試しもしないで終わる事だけは嫌だった。人間、息をしてさえいれば「生きている」と言えるわけではないのだ。意志を持ち、それを何らかの形で反映させることができてようやく「生きている」と言えると思った。

脳機能の問題は大きい。外出や移動は大変だ。だけど、船旅で「工夫次第で、できない事ではない」と知った。

ここは沖縄ではない。人口密度の高い首都圏だ。喧噪も看板(余分な視聴覚情報)も多い。移動には困難が伴う。それでも・・・ 何とかしなければ!

私は船旅から帰った後、ダメで元々、少しずつ交通機関の時速を調べていた。高速バス、船、寝台列車などを調べて、最も現実的に使えそうなのは寝台列車だった。歩くよりも早い以上、怖いことに変わりはないが、少しでも程度が違う。

そして、やはりダメ元で地方の賃貸情報などを調べた。資金や健康状態も含めて、大雑把な将来設計も立てた。(なけなしの貯金を増やす方法とか、生活設計色々w あくまで暫定的だけどね💦)

詳細は割愛するが、次の行先が決まった。( ̄▽ ̄)v

もはや今の状況が続くこと以上に怖いものなど、私にはなかった。 躓いたらそれまでだ。それで良い。もう十分だ! 

始動

チャンスは突然やって来た。いつもの苦難に続いて、家族全員が出払った。私は家に留守番の状態だ。

腹を立てて血圧は上昇。血糖もストレス拮抗ホルモンで上昇中w 旅支度に適した脳機能が作らる。さらに今なら、誰にも引き留められず、文句も言われず家を出られる。こんな好機はないw

急いで荷物を整えて出発する。ありったけの薬、インスリン、ポンプの備品、漢方薬、預金通帳、パスポート、年金手帳etc... そして、必要最低限の衣類、捕食、ノートパソコン。

居間には捜索を防ぐために書置きを置いた。

事前に調べたところでは、ちょうど夜行寝台の時間に間に合う時間だ。チケットさえ順調に買えればw(不意に訪れた機会に出たので、チケットを予約できていなかった。)

4月下旬。ゴールデンウィーク前の週だ。チケット(空席)買えるかな...💦

まぁいい。それでも良い。宿は取った! 出発だ!w


【家出決行 👜🐧Ξ3🏠

Mission

【家族が家に戻らない内に、電車を乗り継いで夜行寝台へ乗れ!

脳機能に注意!

フラついたり眼の焦点が合わない事を(駅職員などに)見抜かれたらゲームオーバーw

家族が家出に気付かない内に、簡単には追えない距離を稼ぐこと!】

特別にミッションが好きな訳ではないw

制約の多い中で、さらに時間が迫った時に発動する模様w

こんなに無理な行動を試みる事は、この10年が初めてだw


さてw まずは、寝台列車の出る東京駅まで、どうやって無事に到着するのかという課題。

快速電車で行きたいところだが... 

脳機能や血糖値、血管の圧迫感を調整しつつ、何とか到着するw 夕方のラッシュに巻き込まれないギリギリの時間帯だった。急げ。駅構内が混み合う前に、寝台列車のホームまで行きたい。

みどりの窓口へ行く。迷わず辿り着けるか心配だったが、20代の頃、仕事で毎日東京駅を使っていたのが役立った。しっかり目視しなくても(=脳の認知機能を使わなくても)ある程度は勘で歩けた。

緊張が続く。頭痛は強くなっていったが、脳機能の保持には緊張が役立った。(あまり限界まで耐えると、眼の焦点が合わなくなるので、程度に注意。)

ここで寝台が満席なら仕方がない。運が尽きるかどうかは知らないが、当日分の現地のホテルはキャンセル電話だ・・・

そう思いながら窓口で空席を確認してもらうと、1室だけあった! しかも希望していたクラスの個室だ。予算が間に合う。(実はこの寝台列車、非常に人気らしく・・ 連休に関係なく、予約を取るのが難しいそうだ。後から知って驚いた。)

良かった...。あとは時間に間に合うようにホームへ行き、間違えずに予定の電車に乗るだけだ。時間も出発まで30分~40分程度。これなら何とか辿り着けるだろう。

強くなる頭痛に吐き気と冷や汗を感じながらも、何とかホームの場所を確認。音の大きなアナウンスに症状が強まるが、近くの売店でお茶と食料を買う。

携帯電話の電源は切っていたが、電車が出発するまでは、いつ追われるか(見つかるか)わからない。家に引き戻されたらアウトなのだ。監視は厳重になり、次はないだろう。血糖を必要以上に上げる日々が続き、そのまま・・糖尿病性の合併症にまっしぐらだ。

高血糖の合併症は厚労省が認知する分だけ(医師の書く申請書類に項目を設けている分だけ)低血糖の合併症よりも援助は届きやすいが、それでも合併症が起きて良いわけではない。今よりもさらに体の不調が増えるのだから。

ホームのベンチで頭痛と吐き気に耐えながら電車を待ち、ようやく乗り込んだ。

電車が動き出して一安心。しばらく休み、携帯の電源を入れて姉に連絡をする。おそらく、母は姉に相談しているだろう。(父は頼りにならないので。)

居間の書き置きには、最後に「落ち着いたら連絡する」とは書いておいたが、恐らくは... 驚いているだろう。案の定、母は姉に相談していた。私は姉に謝罪し、母を頼んだ。落ち着いたら必ず、自分から母に電話をすると伝えた。

(・ω・;) 良かった...。姉の話によると、母は相当、慌てたようだった。警察に連絡されたら、あっという間に連れ戻されていただろう。(全てと縁を切りたかったので)面倒に思ったが、書き置きを置いていって良かった。

この時、私は本当に(事前に調べておいた)賃貸物件に入居してから連絡するつもりでいたが、実際は数日後に電話する事にした。

姉は普段、私の脳機能の状態を正しく認識しないまま「ショック療法だ」などと言って悪化させることもしていたが、この時は私を責める事も引き留める事もしないで「気を付けて」と送ってくれた。有難いと思った。

Mission Complete! (;´▽`A``


【到着・情報収集】

寝台列車で一晩過ごし、終点まで到着すると、そこは別世界だった。雪国ではないけれどwここを選んだのは、今の脳機能の状態で生活できる範囲だったからだ。どんなに状態が悪くても、電車に乗ってしまえばドアtoドアで都会の大病院へアクセスできる。そして、やはり脳機能の都合上、終点が良かった。

(駅の切符売り場で路線図を認識するのも難しい状態だ。頭痛と吐き気、フラッシュに邪魔をされる。 なので、覚えなくても・確認しなくてもいい始発から終点の移動が脳に優しい。)

駅の改札を出ると、本当に喉かで静か。建物も少なく、人通りも殆どない。脳機能に優しい場所だった。

予約したホテルは駅の傍で、迷わず行けた。自分の貯金から1週間~2週間ほど予約を取っていたが、GWに引っかかるので1回ホテルを移動した気がする。(うろ覚えw)

チェックインの後、通された部屋は快適だった。隠れタバコもなく、リネンの洗剤も悪くない。(たまに、妙な香りや消臭剤が使われていて、寝られないベッドもある💧)

おまけに、近年では珍しいルームサービスもある。脳機能が厳しい時でも、血糖を保ちやすい食事ができる。通常、ホテルのルームサービスは高めの価格設定だが、このホテルは出前だった。しかも、中華料理である。乳製品にアレルギーのある私には、本当に嬉しかった。

(ピザやファーストフードの出前だと、どうしてもチーズやパン(乳製品)が入って注文できないが、和食や中華はありがたい。乳製品の問題は、甲殻類などと違って、材料に混ぜ込めるので発見しにくく除去できないこと。和食や中華はそこが楽だ。また、お米のメニューが豊富なので、血糖を保ちやすい。)

中華料理屋だったが、中華だけでなく親子丼やカツ丼等もある。1食500円~1200円くらいまでで、非常に助かった。美味しかった✨

ベッドで2時間~3時間ほど休憩し、場所の認知が追い付いた頃、ホテルの散策とコンビニに出かけた。

まずは血糖対策の買い出し。後遺症や群発頭痛による酷い頭痛・嘔吐に備えて、粉末のダシの素・うどんスープの素や味噌汁の素を買う。そして低血糖対策にジャム(または蜂蜜)。さらに、どんな場合にも役立つお麩を買った。

おにぎりやゼリー飲料も役立つが、旅は身軽でコンパクトな方が良いw どこでも簡単に使える。

(乳製品のアレルギーがなければ、クッキーやキャラメル・チョコレートなどを便利に使えたと思う。)


【情報収集:市役所遍】

2~3日して体と脳を休ませた後、始動する。

まずは、市役所。移住促進を担当する課に行き、情報を仕入れる。そして、体力的・脳機能的に可能であれば福祉課などへ相談に行く。

ホテルで文書を作り、A4用紙2枚程度に事情を書いて案内を頼んでみる事にした。

視聴覚情報の少ない(何もないw)田舎なので、今の脳機能にとって外を歩きやすいのは確かだが、それでも初めての場所だ。市役所やバス停まで、後ろを振り返りつつ歩いた。

市役所は広く、道中の疲労や移動による認知機能の負担もあり、ベンチで休んでも症状が落ち着かなかった。それでも、来た以上は仕事を済ませたい。

まずは、早く終わりそうな移住促進の担当課へ。

市内の地域情報や移住促進のエリア情報、就労情報(農業)などの資料を貰う。ついでに、地域の防災情報のマップもお願いした。

少しベンチで休み、福祉課へ。(福祉と言うより、生活支援とか相談の課だったかも・・。名前はうろ覚えだw)

課の担当者さんは、私の事情を記載した書類を受け取って奥へ。

私は椅子で座って待つ状態だったが、気付かない内に痛みや認知機能の疲労がピークに達していたようで、眼の焦点が合わなくなったようだ。

通りすがりの職員から、顔をじっと見られて「大丈夫ですか」と声を掛けられる。私は慌てて、トイレに行くと言って席を立った。

危ない💧 ある程度の事情は書いたとはいえ、職員の目の前で状態の悪さが露呈したら、家に連れ戻されかねない💦

立って移動するには少しフラつくが、何とかトイレに到着。捕食を摂って、少し時間を置き、脳を何とか働かせる。

席に戻ると、最初に書類を渡した担当者が女性職員と共に待っていた。何か相談していた様子だが、最終的には特に情報は得られなかった。

(「住む前の人・移住前の人の相談」なので、これは予想した結果でもある。ある程度ダメ元だ。)


【情報収集・賃貸物件遍】

(。_。;) これ・・・ ね。結構長い。色々あった。ありすぎるので割愛w

内覧もしたが、最終的には「余所者に貸す部屋はない」という事だった。賃貸には保証会社も存在するのだが、大家の声が非常に強い地域で「同じ市内に身内がいない人間には貸せない」という事だった。

(そんなアホな話があるかw 何のための賃貸業か。何のための保証会社か。同じ市内に頼れる身内がいれば、そもそも部屋を借りる必要はないw)

県庁にも訴えたが結局、行政も含めて「移住促進政策」は完全に嘘だとわかった。行政も大家達の顔色を窺って動く感じだ。そして、同じ事情で移住を断念する若者が多い事も知った。(市役所から県庁に問い合わせる人は、他にも多くいるらしい。)

この地域が酷いのか、どの地域も田舎はそういう物なのかはわからない。

ただ、その土地に嫁いで50年経っても、まだご近所さんから余所者扱いされてイビられる女性の話を聞く事があり、まぁ・・ 無理だと感じた次第。

その県の大学病院に手術で入院する予定のある隣県の患者さんさえ、どこも部屋を貸してくれずに困ったという話も聞いた。(手術の前後に、落ち着いて経過を見るために借りる必要があったそうだ。)ここは人非人の集まる地域なのだろう。

不動産屋を数件回った結果、医大生が相手でも「しょうがないから貸してやる。だけど卒業したら早く出て行け」的な感覚を持っている様子が感じられた。(ただの学生ではなく、医大生が相手なのにそれだ💧)

そして、地元の人々は言う。「若い人が都会へ出て、戻ってこない。過疎が進む。賃貸物件の借り手も現れない。限界集落が増える。困った。困った。」

当たり前だw あんた方が必要以上に人を選んでるからだよ!w こんなに排他的な世界、一度都会へ出たら戻らないのは当たり前だ。


余談だが… 実はこの地方、日本の中で自殺率のかなり高い地域である。(・ω・;)

その理由は日照が少ないからだと言われているが、ここの場合は完全に違うねw 実際にこの地に来てわかった。

この土地よりも日照の少ない地域はあるが、ここほど自殺率は高くない。完全に地域性が原因である。

彼らの言う「余所者」とは県単位ではない。市単位、地区単位、自治会単位、学区単位、クラス単位である事が伺える。

小学校では、同じ学校の同じ学年でも「1組の子」「2組の子」という違いによって、(大人になっても!)余所者として変な扱いを受けるらしい。「この子は2組の子だけど、1組の○○さんと友達なんだよ」という話があって、ようやく(仲間として認知され)人間として対等な扱いを受けるのだとか💧 

そりゃ、自殺率が高くなるのも無理はない💧 お互いに首を絞め合うルールで暮らしているようなものだ💧

つまり・・極端に人間的な能力のキャパが狭い地域なのだ💦 変化に弱すぎるというか、臆病というか…。


【家族の理解】

私は約束通り、ホテルに到着してから(2日目くらいに)母に電話をした。姉のお陰で気持ちは幾分、落ち着いた様子だった。

私はここで、様子を見ながら家のリフォーム(ミニキッチンの増設)を提案した時と同じ理由を話した。

両親の年齢、収入、目や足の健康、私の視神経を含めた脳機能の状態、そしてこの土地に来て改めて感じた酸素の重要性。(田舎で空気が綺麗なため、脳が酸欠に陥っても回復が早い。)

そして、この土地で賃貸に住んで回復を図ろうと考えた事。(地方で賃貸価格が抑えられるので、自分の貯金だけでも1年間は保ちそうだという事も。)

そうして・・・ 家族は転地療養という事で理解してくれた。

脳機能に優しい環境を求めて、という理由については少し合わない感じもあったが、それでも家賃や生活費を支援してくれると約束してくれた。(「だから、まともな物件を借りなさい」と。)

ありがたかった。

これ以上、親の老後の資金を使いたくはなかったし、親の資金を使う分だけ余計な干渉を認める事にもなるので、気持ち的には避けたいが、自分の体の状況もある。

自分の回復や収入が整うまで、気持ちに少しの余裕ができる。

私としては、家の自室にミニキッチンを作れたら一番、家計と健康維持のバランスが良いと考えていたが、同じ理由を話しても、家族の理解は雲泥の差だった。(今でも不思議。)

話の途中で、父親の意味不明な理由による「振出しに戻りそうな展開」もあったが、何とか軌道修正ができた。(◎_◎;) 焦ったよ...💦

(父は現実問題の理解と認識に問題がある人だ。夢の中で生きているようなところがある。現実を正しく認識しないまま、自分の感情だけで判断・発言する事が多い人なので、真に受けると現実がおかしな事になる。そうなっても父は当然、責任を取らない。俺は悪くない、俺はそんなこと言ってない、で通そうとする。父自身がやらなかった事を本人はやったと言い、やった事をやらなかったと言う部分もある。なので、簡単な日常の会話でも、父の話を真に受けるのは危険である。

母はそれを理解しながらも、いざという時に優柔不断さを発揮して「世帯主を大事にしなければ」という感覚で追従し、尻ぬぐいに追われる隙がある。)

軌道修正ができて本当に良かった。(◎_◎;)


【結果】

G Wを挟んだ家出は、家族の理解を得て終了した。(心配していた行楽客の増加はなく、ホテルの費用は上がらなかった。)

この後、2往復してこの土地での物件探しを続けたが(途中で母も後ろから付いてきたが💦)、先に書いた「余所者に部屋は貸せない」という理由で断念する。

家族の気が変わらない内に、私は他の地域で(賃貸情報誌などで)物件を探し始めた。結果として、東京の始発から終点までのドアtoドアではないものの、東海地方に部屋を借りる事になった。

寝台列車を使うには実家から近くて(停まらない駅なので)困るが、大石寺へ行く道中のエリアだ。よくよく体調が悪ければ、脳機能に合わせて途中下車なり宿泊なりをしながら、普通電車を乗り継いで東京に行く事は可能な距離だった。

不便でお金もかかるが、これ以上は致し方ない印象もある。私も少し疲れた💧

母は「いつでも車で迎えに来るから。この場所なら、添書登山もしやすいし」と言って、最初に借りようとした地域よりも乗り気だった。(普段は私が1人で住みながら、時には母の休憩所として機能する予定があった。夫婦の別居先という感じ。)

いくつかの物件を見た後、父の同行もありながら、物件が決まった。

築浅のメゾネット物件だ。1階部分に空室があり、シャッター付き。内覧した印象や周辺の生活環境も良かった。 間取り的に、私と母(あるいは姉)が同時に家にいても、互いの生活に不便なく過ごしやすい作りだ。

(これより先に決まった築15年くらい の物件もあったが、入居3日目に内部の老朽化による水漏れが発生し、退去した。)

脳機能に重いダメージを追ってから、3年半。私はようやく脳機能に適した療養環境を手に入れた。


【この期間の信心】

この期間の信心は、家での勤行は3分の2を口パクで唱えていた。(三唱は7割方、いつでもできるようになっていた。)最初は声を出せるものの、初座や二座の途中から酸欠で唱えられなくなるので、そこから先は口パクで唱えていた。

まだ黙読も難しい状況だったので「お経文を目に映しておくだけ」という事も試したが、本当に心にも読む事ができないので、御観念文を含めて、勤行を筋肉で覚えている口だけを動かしていた。

(認知機能の低下や言語障害を抱えている状態での勤行について書いているので、何を言っているかわからない、わかりにくいと思います。すみません💧 

「少しだけでも声を出して唱えられるのに、どうして黙読ができないのか、黙読が進まないのか」という点については、自分でもわかりません。不思議です。脳神経内科が診察を引き受けてくれればいいのですが、これまで記載した通り、何のアドバイスももらえない状況なので、今でもわからない状況です。)

酸素量として脳よりも筋肉の方が動かせる状態だったが、体に余裕がなくて口パクさえできない時もあった。(体にも、脳にも酸素が足りない状態。)そんな時は三唱だけをしていた。

船旅や家出の際はお守り御本尊様に勤行をして、ホテルに到着後はホテルの部屋や、最寄りの日蓮正宗の末寺へ参詣して勤行を続けた。

唱題は、声を出し続けられない状況と共に、黙読もできない状態のため、家では三唱で済ませていた。お寺ではなるべく住職さんとの勤行や唱題会に参加して、御本尊様に手を合わせて(唱えられなくても)聞いていた。

不思議なことに、日蓮正宗の御本尊様への勤行や唱題を聞くだけでも、体の痛みや酸欠が少し軽くなるので、治療に行くつもりで寺院に参詣していた。

旅先での寺院の参詣方法はタクシーを利用した。1度、試しにホテルが貸与する自転車を使ってみたが、やはり認知機能の低下した脳には景色の変化(時速)が早くて危険だった。

(ホテルから数メートル進んで断念し、駐輪場に返したw (;´▽`A`` )

物件探しや周辺の情報収集の際は、徒歩やバスも利用した。お寺へ行く時はお参り(勤行など、息を使って唱える事。祈る事)が目的なので、脳の酸素(認知に使う酸素)を節約するためにタクシーを利用していた。


【励みになった住職さんのお話】

家出して物件を探していた時に、最寄りの寺院の住職さんと話すことができた。気を使って話を聞いてくれたのだ。

(これまでも通院や仕事、旅先などで寄った末寺の住職さん達は、全員、所属の信徒を含めて来訪者の話を積極的に聞こうという姿勢で迎えて下さった。本当に有難い。最も、私も全てを話すには時間がないので、今回の家出については「転地療養のため物件を見にきた」という事しか話していない。)

その中で、私は地域の特色や防災について教えてもらう事ができた。

先述の通り「余所者」を嫌う特徴が強い地方なので、その地に赴任した住職さんの苦労やノウハウ、心構えをを少し教えてもらう事ができた。

自分から積極的に、地元のレストラン(移住者)や和菓子屋さん、喫茶店(地元の人)などから、買い物ついでに地域の情報を聞くようにしていたが、住職さんからはより土地の生活に密着したお話を伺えて本当に有難かった。

(日蓮正宗の住職さん達は不定期の転勤があるので、私がお話を聞いた住職さんも 土地の人にとっては「移住者=余所者」の状態。なので、お話は非常に参考になる。)

この土地の人々は、余所者である以上、住職さん(お坊さん・聖職者)の立場があっても交流が難しいようだった。

住職さんは詳細には語らなかったが、こんな話を聞かせてくれた。

「どうして私がこの地域へ配属されたんだろうと思う事は、本当によくあります。だけどね。それでも仕事をしていると、自分で良かったと。信徒さんのこのようなの悩みや案件は、私が住職の時に起きて正解だったと確かに思う事もあるんです。

隣の市は、この場所とは人間の性質が正反対の人々が住む地域でね。両極端で、どちらも他の土地から来た人には大変な地域なのですが、そちらの(正宗の)住職さんとたまに話すと、同じような話を聞きます。」

(~ω~;) うん...。大変なんだね。住職さんも。

住職という立場なら、講頭さんや役員さんとは話が通じやすいかと言えば、この地域ではそうとも言えないようで...(京都ではないが、まるで京都のような‥ 本音と建前の差が大きい地域性。)

住職のAという話が、2人目・3人目の時点でBどころか・・Zくらいの全く違う話になって伝わる事があり、赴任当初はとても苦労したらしい💧 そして今でも気が抜けない(油断できない)と...。

そんな中、この住職さんはまだ独身で、腹を割って話せる味方が身近にいない状態でありながら、排他性の強い地域にたった一人で頑張っていた。

そして「こういう難しい人々の住む地域だからこそ、御本尊様が必要で。仏性や御仏智が育つ伸びしろが十分にあるという事です(要旨)」と言った。

そんな風に自身の住職としての仕事について、前向きなやり甲斐を見出していた。


私の事情とは異なる世界の難しい問題を抱えている住職さんの話は、その姿勢がとても参考になった。そして、私を気持ちの上でとても励ましてくれた。

あれから6年が経つ今、あの住職さんはどうしているだろうか。健康で素敵なお嫁さんと結婚して、一緒に暮らせていると良いなぁ。

【療養生活 ☕🐧♪】


療養生活は、物件探しの次に御本尊様の御下付から始まった。

2011年の時は前任の住職さんに話したところ、お守り御本尊様の御下付となったが、今回は新任の住職さんの判断で御本尊様の御下付が決まった。住職さんがどの程度、理解していたのかはわからないが、私から家族に話したのと同じ説明の内容で、御本尊様を御下付して下さった。

有難く賜り、母と引越しの日に御安置させて頂いた。お陰様で、(2011年とは違って)体調の悪い時にお寺に行くという事をしないで済むようになった。一安心だ。

(物件は前回と同様、1人でお寺に行ける距離の場所を選んでいたが、自転車やタクシーは必須の距離だった。)

そして、念願の療養生活で最初にしたことは、「詳細な日常の動作がどの程度できるか」の確認だった。引っ越しの段ボールを1つずつ片付けながら、ゆっくり確認していった。(1週間で2個~3個の段ボールを片付けていた。仕事をしていない状態で、脳機能的にこのペースだった。)

この時点で2015年8月だ。2011年12月から3年半が経っている。脳の症状は相変わらずだが、失禁など改善しているものもあった。


・身体状況(失禁、顎、視野欠落)

まず、失禁(立ち上がって、床に滑って気付く状態)は完治していた。尿漏れもない。

視野の欠落は軽減し、「たまに見えなくなる。脳が疲労すると、見えなくなる事が多い」という状態だった。

頭痛に伴う「閉じられない顎」の問題については、6割方改善していた。この頃は徐々に回復してきた分だけ、「頭が痛いから、顎に力が入る」という事が再開し始めていた。(気付くと歯を食いしばっているので、たまに意識的に手で顎を軽く触って、力を抜くようにしていた。)


・洗濯

物の形の認識については、2011年12月と変わらず苦労していた。

洗濯物を干す、畳むという作業は、タオルのような単純で同じ形の者はスムーズに作業できるが、衣類(下着を含む)は難しい。

洗濯機から取り出す時は目を閉じて、手にした1枚だけに集中しながら干していく。畳むときも同様で、「他の形・他の洗濯物が視界に入らないようにして」ゆっくり1枚ずつ作業していた。(大きな風呂敷やシーツで全体を覆って、1枚だけを手探りで取り出す。)

畳んだ洗濯物を片付ける事が一番難しくて苦労した。これについては良い工夫を思いつく事ができなかったので、血糖値がかなり高い時に片付ける事にした。(畳んだまま 1~2週間くらい溜めながら整理していた。)

脳機能的にお風呂に入るのも大変なので、洗濯も1週間~2週間に1度の割合だった。

(お風呂は居室と場所が変わる(景色が大きく変わる)上に、掃除・服の脱着、替えの服の用意、石鹸類の判別など、脳機能にとって非常に負荷がかかる作業だ。)

弱った脳機能には洗濯も入浴も大変な作業だったが、家族と同居による脳の負担がない分、実家よりも多い頻度で行う事ができた。(肌の衛生環境は向上した。)


・音(洗濯機と掃除機)

大きな音でも脳機能が影響を受ける状態だった。

洗濯機の脱水や、掃除機の音は厳禁の状態だったが、掃除機は海外製の低音掃除機の購入(エレクトロラックス)で解決した。洗濯機は、居室と洗濯置き場が間取り的にドアや壁・空間をかなり隔てる状態だったので、体調を見計らって使っていた。


・料理

台所(料理・皿洗い)については、好きな分だけ他の場所より脳機能は働きやすかったが、それでも作業は難しかった。

野菜を切って形状が変わる事に、認知機能が追い付かない。くし型やイチョウ型、短冊に切る事ができなかった。丸太切りがせいぜいだ。以前は自然にできていた事ができないという状態は、最初は辛かった。しかしじきに... ワイルドな料理に目覚めて解決したw

(近所にJAがあり、見切り品のカット野菜が売られていた。最初はこれを使えて助かった。じきに、葉物野菜は手で千切り、薄切り肉を冷凍して手で割って使うなど、「目視しないで作れる」ワイルドな料理を身に付けていったw)

時間経過で料理好きの本領を発揮し、楽しくズボラな(=脳機能に優しい)料理を開発していったw

(;´▽`A`` 調味料は目視できたので、闇鍋ではないw 念のためw

また、料理にあたってはかなりの集中力が必要なようで、家族(特に姉)からの長電話の後は包丁で手を切る事が多く、やはり低下した脳機能には、常態として静かで変化のない=視聴覚情報の少ない環境が必須だとわかった。

お皿洗いも形の認識が大変なので、なるべく1つのお皿で済むようにした。ただ、半身の軽度麻痺は残ったままなので、(無意識に)左手に持った食器を割ってしまう事は続いた。

(力を入れてしっかり持っているつもりなのに、取り落してしまう。脳機能に後遺症が出る前は、取り落すことはなかった。手の触感が十分に伝わっていないのかもしれない。)

対策としては、何でも1つずつ両手で持って移動する事にした。


・会話能力(言語障害と短期記憶障害、認知機能低下)

この時も、まだ通常の会話はできない。(会話=即時応答)「紅茶とコーヒー、どっちが良い?」という質問にも答えられない状態だ。そして予期しない場所や、作業中、考え中など他の事に集中している時に「こんにちは」と挨拶をされた場合も返事を返せない。

まるで人見知りのようにも見えるが、私は本来、見知らぬ人にも自分から声をかけるタイプである。この状態では、ただの「失礼な人」である凹

余談だが、このような状態が継続して続いているため、奉安堂で倒れた時の大石寺の酷い対応について相談に乗ってくれた本山勤務のお坊さんから、大きな誤解を受ける事になった。

原因となっている重い低血糖による脳の後遺症について、何度も話そうとしたが、お坊さんはその度に手で大きく遮って、話をさせてくれなかった。

色々あったが結果的に、私の家族を含めてとても失礼な態度を取られるようになり、疎遠になった。

(詳細は省くが、会うたびに私を随分と見下すようになった。そして、病状の重い私を御開扉のために車で連れて行くために家族が買い換えたスバル車についても、嫌味を言うようになっていった。 スバル車はエンジン性能がよく、長距離の高速道路の運転に向いている。膝の弱った母親が運転するには必須だった。 理由を話そうとしても、いつも通りなぜか手で遮るのだ。)

このような状態で物件探しや情報収集ができた理由は、短期記憶能力の障害と、低下した認知機能の特徴にある。特徴とは「常に、長いこと考え続けている内容について、ゆっくりした会話であれば、通常の応答が何とかできる」という事だ。

(自分では、短期記憶の領域を抜けて、中期記憶?に差し掛かるくらいの認知レベルだと思う。)

同じ事(特に関心の強い事)について、それだけを考え続けられる状態が数時間ほど続いていれば、その同じ内容についての情報の変化(会話による情報の変化)には、ある程度ついて行けるという事だ。

「それだけを考え続けられる状態」というのは、つまり・・ 自分1人だけで、静かな暗い場所に居続けるということ。視聴覚情報の変化が一切ない状態を保つという事だ。


・共通事項

日常のどのような作業にも共通するのは、1度に1つの事をするので精一杯というところだ。2011年12月時点と比べると、静かで視聴覚情報に変化のない状況であれば、1度に1つ事なら、何とかできるようになったとも言える

例えば、食後の片付けで「右手に調味料を持ち、左手にお皿を持って移動する(=調味料を冷蔵庫に返し、お皿を流しへ置く)」という事はできない。普通は同じ台所にある用事なので、無意識に一度に作業しようとするが、これができない。どうしたら良いかわからず、途中で動けなくなってしまう。

洗濯物をしまう時も同じ状況だ。ズボンとタオル、下着とハンカチなどを同時に持って片付ける事はできない。

「ながら作業」もできない。人と話しながら作業をするとか、誰かと話しながら一緒に外を歩くとか、聞きながら作業をするという事は一切できない。

(ただ、自然音やホワイトノイズを聞きながらの作業は問題ない。却って作業がはかどる場合もある。脳に大きな負荷を与えず、適度な集中力をもたらすので、低下した脳機能でも働きやすくなる。部屋の掃除の時はこれを利用した。)


・就寝と脳血管の圧迫

寝る姿勢については、座ったままの姿勢なら2時間は継続して寝られるようになった。(頭を枕や壁に付けると、血管の圧迫で痛みが出る状態。軽減するために、祖母からずっと前に譲り受けた電動ベッドで背中を持ち上げ、椅子状態にして断続的に寝ていた。)寝入ってしまうと起きた時に酷い痛みが出るので、血糖の番と同様に、起きるように努力していた。

(結局、24時間ローギアで起き続ける生活💧 眠いし、痛いし、疲れるし、眠いし...でも、しっかり寝てはいけないし、そもそも痛くて寝られないという...。)

ちなみに、以前は唱題やネットゲーム(オンライン)で血糖の番をして過ごしていたが、脳に後遺症が出てからはゲームができなくなった。画面の遷移や画面内のキャラクターの動きに、認知機能が追い付かなくなったからだ。酸素を多く消費する唱題もできない。(自分の声で頭痛が酷くなるという問題もある。発声に使う筋肉も頭痛を増す。もちろん、お経に限った事ではない。)

眠いのに、寝てはいけない日々をどう過ごすか。本や漫画、カタログを読む事にも、脳はまだ追い付かない状態だ。(ページが変わるたびに変化する内容に、認知機能がついていかない。本当に必要な書類に限って読むために、普段は無理をしないで脳機能を休ませておく状態。) 

最終的に、ユーチューブのASMRや自然音の動画で気を紛らわせることにした。(動画だけど映像は見ないで、静かな音だけを聞く状態。)


・外出(買い物)

買い物については、これも脳機能の状態を見計らって出かけていた。

(平均すると2週間に1回くらい。調子が悪い時は2カ月間まったく外に出られない時もあった。

外出できない時の買い物はネット通販にした。厚紙や小さく切った段ボールで、画面の見る範囲を狭くして、少しずつ選んで買った。)

物件の近くにはJAがあった。引っ越して1カ月後くらいには、更に近い位置にコンビニエンスストアができたので不便はなかった。少し離れた場所にはドラッグストアやお肉屋さんもある。

普段はコンビニとJAによく行っていた。

田舎の広い一本道は迷う事がなく、商店も少なくて看板もないため、脳機能にとって非常に歩きやすい(視聴覚情報の少ない)快適な道だった。

多くの品物が並ぶ店内は脳機能に厳しい世界だったが、最初はリハビリのつもりで「何も買えなくても、道中を楽しんで散歩できればOK」という状態で(出かけられる状態の時に)行っていた。


【地方医療の問題】

首都圏の主治医から紹介状を貰い、引っ越し先の病院を受診した。しかし... この病院の医師は話が通じなかった。初診の段階で「何のために来たのか」とひたすらに私に聞くのだ。

診察前の看護師による問診からその状態だった。おまけに、看護師の話は大勢患者がいる待合の中で行われる。簡単な内容なら構わないが、「何のために来たのか」と直接何度となく聞いてくるのである。大勢の患者がいる中で、長々と話す意味がない。とにかく医師と話をさせてくれと言って、ようやく診察室に入れば、やはり同じことを尋ね続ける。

理由は簡単で、引っ越しに伴う転院である。それでも、現状に体調不良がなければ診察できないという可能性もあるので、普段からある胃の不調(高血糖自体による胃の不調)を伝えたが、それでも医者の「何のために来たのか」という質問は止まらない💧 壊れたテープレコーダーのようだw

話の内容をまるで理解していないように見えて、私は思わず医師の顔をじっと見た。稲垣吾郎に似た顔。つまり、医師という仕事の割に、どこかボーっとした雰囲気があるという事だ💦

これはダメだなw 普通の話し方では伝わらない。

私は少し考えて「外出中に低血糖で倒れて、救急搬送された時のため」と言ったら、ようやく医師は「あぁ。そういうことね。それなら確かに、この辺ではうちの病院しかないな」と納得した。

・・・不安である💧 かなり不安である💧

一応、1型糖尿病を診察できる規模の病院であり、事前に患者会のHPでも確認はしていたが、それにしても... 不安しかない💧

他の病院へ行く手もあるが、残念ながら、この地域には他に1型を診察できるほどの大きな病院はない。

結果的に、立地が大石寺に割と近い事もあり、通院はこれまで通り首都圏に通う事にした。毎月の添書登山の際に、母の車で実家に帰って通院する形になった。脳機能的にこの移動はかなり大変だったので、診察は2カ月に1回にしてもらった。

実は歯医者も同じような結果になる。内科よりはマシに見えたが、治療の内容が酷くて悪化したり、治療を拒否される事が続き、結果的に歯医者も首都圏の病院へ戻る事になる。

治療の拒否については「内科に重大な疾患があり、脳機能に後遺症まである患者さんの歯科治療は、悪化した時に任せられる大病院がない地方では、引き受ける事ができない」というものだった。

(脳機能の後遺症と歯科治療の問題は、麻酔にある。歯科の麻酔が脳に影響を与える可能性を心配された。)


【始動 📖🐧☕ 】

引っ越して1年半ほど経った頃。ようやく興味のある事に取り組もうと思える程度に、脳機能が落ち着き始める。「やってみよう」「やってみたい」と思えるだけでも、脳機能にとっては大きな進歩だった。(実際に何かができるかどうかは別。だけどまず、興味を反映させる行動が1つでもできる事が大事。)

資格取得の講座カタログを取り寄せたり、「○○代、女の将来設計」的な本を買い、(1ページごとに変わる情報に対して)恐る恐る読み始めた。

(実はこの時もまだ、漫画や洋服カタログは読めない状態なので、相当に努力している。)

大学時代、社会保険労務士の受験勉強をしていた事もあって、最初はその講座パンレットを取り寄せた。しかし、やはりテキストの文字量(情報量)が多く、講義の動画も早口だったので脳内でフラッシュが頻発し、とても今の脳機能で勉強する事は無理だった。

他の講座や資格試験のテキストも試したが、実学の系統はどれも似たような事態になるので、趣味的な講座の資料を取り寄せたところ、これが正解だった。

(文字情報の多さの他に、文字が多いところへ急にヒントマークが入ったり、ポイントとして講師の似顔絵など、文字とは違う内容が目に入ってくるので、そこで頭が真っ白になってしまう。そして、これまで読んだ部分を全てを忘れてしまうのである。1ページずつ絵を付箋で隠すなど色々な工夫をしたものの、脳に負荷がかかり過ぎて断念した。)

収入に繋げる事を考えていたので実学を勉強したかったが、今の脳機能では、実学に比べて内容の薄い趣味講座が精一杯の状況だとわかった。趣味講座も絵が入っていたが、文字と絵の量のバランス、サイズ感覚がちょうど良かった。不透明な下敷きや段ボールで隠しながら読める状態だった。

私はここで、好きな紅茶や天然石・ハーブなどの民間資格を取得する事にした。(全て通信講座。)将来的に仕事にするには(まとまった収入になるには)実学に比べて時間のかかる分野だが、「今できる事」「今後の脳機能を考慮して、できる事」としては、リハビリがてら勉強するのに悪くないと思った。

何より・・・ 内容的に簡単そう(難しくはなさそう)に思えても、低下した脳機能にはテキストを読む事も、課題や試験問題を読む事も意外と大変だった。非常に時間がかかる。本来の私なら朝飯前に完了できる事でも、数日かかるのだ。しんどい分だけ「こりゃ、実学はまだ無理な訳だ」と納得できてしまったw ^^;

仕事や収入(再就職・あるいはフリーランス・独立)を考えていたが、楽しむ事に意識を切り替えた。ワクワク♪と紅茶や天然石の勉強を進めて、教材付録の紅茶やサーバーなどの使い方を楽しんで覚えた。


【🌴それぞれの講座を選んだ理由🌴】

・紅茶は、外で仕事をしていた時にハマった紅茶専門店がきっかけ。

職人気質なおじさんがマスターで、紅茶の種類が豊富。味もとても美味しかったし、おじさんの紅茶の説明は本当に詳しく、わかりやすくて勉強になった。空気の悪い東京の真ん中で、本格的な木造の店内。薄い気の香りと紅茶の香りが素敵で、いつかあんなお店を持ちたいなぁと思ったことがある。


・天然石は流行のパワーストーン。(数年後、益富地学会館の鉱物鑑定士補も取得する。)

バセドウが悪化していた頃、趣味でつけていた琥珀のブレスレットが壊れて、まさかと思いつつもパワーストーンとしての効果を調べたら、甲状腺疾患に良いという記述を見つける。見た目と肌触りを気に入っていたアマゾナイトの効果にも興味があり、勉強してみたいと思っていた。

(アマゾナイトの謎は解けなかったけどね。^^; あれは不思議と、高血糖やケトンによるウツ熱を紛らわせるような、長時間 身に着けても体温が移りにくい高い比熱がある気がする。気持ちの良い石。)

趣味としては... 実は、カナダの水晶祭り(参加費を払い、自分で重機やつるはしを用意し、与えられた土地を水晶が出るまで掘り進める。)に参加してみたいとか、洞窟の中のでっかい原石を見たいとか、大きな原石を傍に置いて眺めたいとか、そういう願望があるw 身体的にできるかどうかは別として💦 でも、いつかやってみたい憧れ✨

(今は諸事情あって無理だが、いつか必ず身体状況と資金を整えて、紅茶と宝石の有名な産地であるスリランカへ、船で仕入れの旅に行きたい✨ 鉱石の洞窟目当てでブラジルも良いなぁ。費用概算で・・・ 凄くかかるけどね💧 飛行機に乗れるくらい脳が回復したら、早く叶うと思うんだけどなぁ...。)


・ハーブ(とアロマ系の勉強)

これは紅茶や天然石の抱き合わせで販売されていた講座。(「セット受講でお安くなります!」というキャンペーンw)

ハーブというより漢方薬とか食養に興味があるものの、まぁ... セット品だし、オマケだし。「適当にやってみるか」という感覚で勉強した。

その割に・・・ これが意外なところで役立つ事になるw

歯医者で診察を断られ続け、痛み止めの薬さえ十分に手に入らなかった時に、勉強したハーブの知識が役立った。歯医者の帰り道にコンビニで買ったハーブを口に入れて、薬が手に入るまで耐えたw (まさか本気で、医療が未発達な時代と同じ使い方をするとは思わなかったw 効いたけどさw)

なお・・アロマ系は頭痛持ちには少し厳しかったw 一応、終了まで頑張ったけど💦


【仕事(はじめの一歩)】

私は通信講座を修了した後、ネットショップを始めた。

(それまでは、負荷の少ない一人暮らしの環境を利用してフリーのライティングなどをやっていた。大手に登録したものの、納品前に犯罪まがいの依頼だとわかったり、他者の権利を侵害する内容の依頼である事が発覚した場合もあり、あまり仕事にならなかった。報酬の未払いもあった。

犯罪や権利侵害のない仕事は単科が安すぎて、脳機能の圧迫に見合わなかった。内容が良くても悪くても、文字数だけで単価を稼ぐ仕組みだ。1文字0,25円など。自分の能力が鈍るだけでなく、その日の食事を準備する脳機能さえ失われてしまう仕事だった。)

茶葉や石の問屋を調べて相談、仕入れを行い、1つ1つを記録して脳機能が不十分でも問題なく進められるようにした。石をアクセサリーに仕立てるには左半身の軽度麻痺が厄介だったが、それでも時間をかけて作り、完成させた。

HPを作るのも大変だったが、一番の問題は商品の撮影と編集だった。目の不調により酷い痛みに見舞われて、その都度3週間~1カ月ほど作業が中断した。顎が閉じられなくなる痛み💧

それでも何とかネットショップは完成した。💻🐧✨

あまり売れてはいないが... それでも、これで一先ず「どういう人か?」と聞かれた時に「万年療養中の重病人です」と答えなくて済むw また、家族が私について聞かれた時にも便利だと思った。(自分自身は外に出られなくても、外の人間に知ってもらう機会ができる。)


【 🌴 余談:療養中にもかかわらず、無理をする理由 🌴 】


ある日、よく行く商店の店主から「あんた・・何やってるの💧 療養に来てるんでしょ? そんな無理しちゃダメじゃないの~💦」と言われた事がある。

そして、私も言われて初めて気が付いたw そうだった。私は療養中だった。^^;

ただ・・・ 気が付いても止まる訳にはいかなかった。

家計を思うと、いつまでも「静かで、暗くて、視聴覚情報の少ない環境」である1人暮らしが保てるわけではないとわかっていたから。 

この状況は、1つの財布で2世帯を賄っている状態だ。定年後の両親にそれは無茶な事。脳機能に優しい環境があるうちに、少しでも経済的な自活の道を作りたかった。

(この時、水道代などはケジメとして自分で支払う事にしていたが、家賃など生活費は主に父の退職金や嘱託勤務のお給料で生活していた。

アスペルガー+多動性症候群+αの障害が疑われる父の仕事は、化学の研究開発だった。若い時に世界的に有名な特許も取っている。大企業の研究開発部の部長。それが現役時代の肩書である。一芸の勝利。発達障害の影響が強く疑われる問題部分は、部下たちが全てフォロー・サポートしてくれていたのだ。部下の人たちは本当に大変だったと思う。)

経済的な自立が必要な理由は他にもある。

「病気に無理解な家族とは縁を切る必要がある」という動機だ。私が家を出たのは、介護虐待に似た状況があったからだ。もし回復しても再び家族と同居したら、それこそ今度は私が(高齢で弱った両親に)復讐しかねない。私が受けた事と同じ虐待を、家族に対して親切ごかしに返すだろう。

私はどんな事情があろうと家族と物理的な距離を置いて、幸せになる必要がある。自分が幸せになる事でしか、(将来に予測される)やるせない負の連鎖は防げないだろう。私は私を幸せにする義務がある。


【仕入れの旅 👜🐧】

引っ越して2年~3年目くらいの頃。私は仕入れの旅に出るようになる。

東京で年に1回~2回開催される業者向けのイベントに参加して、紅茶や石の問屋を見回り、より良い品の仕入れ先を探し始めた。家のお金で家賃を支払ってもらう状態なので、貯金に余裕が残っている。この貯金で交通費と宿代を賄い、仕入れの旅を始めた。

脳機能に合わせて動くので、健康な状態よりも多く宿泊費はかかる。それでも、資格試験の受験も同時に行うので、コストなりの価値があった。

ここで益富地学会館の鉱物鑑定士補の試験を受ける。途中で会場の照明に耐えきれず、頭痛や閃輝暗点と共に左半身の自由が効かなくなってきたため、試験監督に頼んで廊下で受験させてもらう事になった。

イベント会場では、人混みを避けて上手に回れるようになってきたが、試験会場では、イベントと違って自由に暗い場所に行くことができないので、ずっと明るい照明の中にいる事になる。

やはりまだ、無理は禁物のようだ。

試験が終わっても半身麻痺で足元がおぼつかなかったので、タクシー乗り場まで歩くのに少し大変だった。(タクシーでホテルまで戻る。)


【この時期の信心】

最初は1日1回の勤行から始まった。1日2回勤行をすると、その後は脳内の酸欠が酷くてインスリンの調整(計算)もできなくなってしまうので、無理をしないで継続する事を大切にお題目を唱えていた。

引っ越して1年半くらい経った頃から、1日2回の勤行が少しずつできるようになってきた。唱題は5分から始めて、最終的には15分~20分くらいできるようになった。

お寺へは月に1回の添書登山に連れて行ってもらい、帰りはそのまま母と実家へ戻り、内科や歯科の診察を受けた。(1週間くらいの日程。)

・友人の折伏(その2)

都内へ仕入れのイベントに行くと、遠方の友人に会う事があった。この友人は健康で、患者仲間ではない。友人の母親が出店しているので、手伝いに来ていた。(友人は出店者として参加。私は来場者として参加。)

イベント会場で会うと、友人の母に許可を取って2人でご飯を食べに行くのが恒例だった。 友人はいつも、体の弱い私を気遣ってくれた。

ある日の事、久しぶりに会った友人の様子が大きく変わっていた。目の前にいるのに、話しているのに、誰もいないように感じるほど気配が薄い。(ICUの患者さんによくある雰囲気。それくらいに気配も印象も薄い。遠方からでも友人の母親はすぐに見つけられるのに、近づいてさえ友人自身を見つける事は難しかった。)

ご飯を食べながら近況を聞くと、特に体調が悪いわけではなさそうだ。そして、流行の御朱印集めをしているらしい。集めた御朱印の写真などを嬉しそうに私に見せてくれた。

友人の気力のなさは御朱印集めが原因ではないかと思ったが、滅多な事は言えない。少し様子を見ようと思った。

食後にイベント会場へ戻ると、友人は仕事の準備に入った。(御朱印集めの寺社仏閣で購入したという、土産物の稲荷の印のような紙に冗談めかして手を合わせ、商売繁盛を願っていた。)

そして、普段は接客に忙しい友人の母親が、私の元にやって来た。私は挨拶をして、何となく聞いてみた。「○○ちゃん、大人っぽくなりましたね。」すると、友人の母は間髪入れずに聞いてきた。「どんなふうに大人っぽくなりましたか? (具体的に教えて欲しい。)」と。

さすがに気配がなくなったとは言えないので、落ち着きが出たとか、静かねお姉さんっぽくなったとか、そんな風に答えていると、友人の母は言った。

「実は最近、私の知り合いや身内からも、同じように言われる事が増えていて。身内からは、元気がないように見えるので、病気でもしたのかと...。でも、病気や体調不良はないんですけどね。会社の健康診断も問題なかったし...。食事の間に、あの子から何か聞いていませんか?(親に言えない事でも友人になら、何か話しているかも‥)」と、娘を心配していることを教えてくれた。

私は迷ったが、友人が土産物の稲荷の印に手を合わせていた姿も気になって、嫌われる事を覚悟の上で話してみた。

「実は、病院のICUで見る患者さんと同じくらい、気力がないように見える」と。一時的に疲れているだけかもしれないとも話したが、友人の母は納得しなかった。それくらい一定期間以上は、周囲から娘の様子が変わったと言われ続けていたそうだ。

友人の母は出店者として忙しいはずなのに、娘を心配して私から離れず、もっと情報を聞きたそうにしている。私は躊躇したが、(他に心当たりがない場合は)御朱印集めが友人の気力を奪っている可能性について話した。もちろん、事前に御朱印集めや稲荷に手を合わせる事が、家の宗旨ではないことを確認した上で話した。(家の宗旨であれば、私がそれ以上、その場で言えることはないと思った。)

さすがに友人の母も「まさか~」と苦笑していたが、私は言った。

「祟りとか、そういう事ではなくて。御朱印集めのブームに乗る寺社仏閣には、元から旅行者が集まる有名な場所だけでなく、ブームの前は参拝する人がほとんどいなかった場所も多いです。エネルギー不足の場所にブームで人が行くようになって、さびれた寺社仏閣に住む何者か、見えない存在が人間の気力を奪っている可能性があります」と。

馬鹿にされようと、怪しく聞こえようと、変人扱いされようと、その時の私に言える精一杯の事だった。そして、謗法厳戒の日蓮正宗の信徒としては、かなり優しい(緩すぎる)伝え方である。本当は「末法時代の寺社仏閣からは、人心の乱れによって善神が去ってしまっているので、空になった社に悪鬼や動物霊が棲みついている。だから、末法の現代では(日蓮正宗以外の)寺社仏閣を拝んではいけない」と言うべきところだ。

友人の母は年齢的にも経験豊富で、地域のPTA役員などの経験も豊富なので、私のような(世間的に見て)変人の言葉も怒らないで聞いてくれた。お陰で私も「他に心当たりがない場合は、御朱印集めを一時停止して様子を見る方が良い」と勧める事ができた。念のため、宗教チャンポンの問題についても話した。(悪影響が出た時に、どの宗教が問題かわかりにくくなるため。)

しかし、問題は友人である。私よりも3歳~5歳若い。私も友人も、年齢的に経験不足でストレートな物言いになる部分がある。

友人の帰り際に、私は念のために御朱印を一時停止し、もし再開しても観光で見るだけにして、手を合わせないように伝えた。友人も最初は笑って済ませようとしていたが、寺社仏閣や宗教を観光やアクセサリーとしか考えていないために、そのうち「気持ち悪い。何言ってるの? どうかしてる。※※※※!」と怒らせてしまった。

(※※※※!の内容は、単語ではなく文章だ。これは非常に下品だったので伏字にした。私が犯罪に遭えばいい、という変な内容だった。友人自身が犯罪に遭ったんじゃないかと心配されるような内容)

経験不足で伝え方が悪い(気が練れていない)自分の至らなさを痛感しながら、それでも友人の感情に任せた下品な酷い物言いに、年長者の余裕で答えるように努力した。

私が「うん。○○ちゃんが元気でいられれば、それで良いんだ。どうかお大事に」というと、友人は声を詰まらせた。「心配してくれてありがとう、大丈夫だから。じゃあね」と最後の理性でそれ以上の暴言を止めてくれた。

その後、この友人とは音信不通だ。イベントに行っても私はそちらのブースには寄らないし、何より・・・ 友人の気配がないのだ。向こうからは私が見えるかもしれないが、私には(母親しか)見えない。

そうこうする内に新型コロナの流行が始まり、私は去年の酷暑の太陽で目の不調が悪化し、サングラス等の対策をしても外へ出られなくなった。友人は今頃どうしているのか...。まぁ、縁があれば再び会うかもしれない。無事ならそれでいい。

・イベントエピソード(お寺編)

都内へ仕入れのイベントに行く時は、それだけの用事で向かい、ホテルに数日滞在して(実家へ寄らずに)帰っていった。

新幹線には乗れないので、普通電車と快速電車(グリーン使用)を体調に合わせて乗り継いで、時にホームのベンチで休み、回復を待って後続列車に乗る方法を取っていた。

(時速は普通電車の方が脳機能に優しいが、時間がかかり過ぎるので、いくつかの方法を試しながら乗り継いだ。乗り継ぎにかかる脳の負担は、家を出る前の下調べによって軽減させていた。)

ホテルに滞在中は最寄りの日蓮正宗の寺院へ参詣し、勤行をしていた。

時にはイベント会場の立地によって、最寄りの寺院が遠方の場合もあったが、日蓮正宗の御本尊様への勤行と唱題によって痛みや疲労が軽減するので、欠かさず立ち寄っていた。(脳機能の状態に合わせて、無理をしない範囲で勤行をしていた。)

自分の所属寺院とは異なるお寺に行くと、住職さんによって信徒との関わり方が少しずつ違ったり、地域によって御講の回数や時間が異なるなど、色々と勉強になった。(方言の強い地域では、住職さんによる勤行の練習会などもあった。)

時に、そのお寺の住職さんや信徒さんとお茶室で話を聞けたり、友人の折伏について相談に乗ってもらったこともある。私が唱題中に「あなたは、まっすぐに信じる姿勢が全身に現れている。いいね!」という感じで、声をかけて励ましてくれる信徒さんもいた。とても励みになった。

そしてたまに... 困った信徒さんやお坊さんに出会う事もあった。

ある日のイベントで立ち寄った寺院。本堂に居合わせた信徒さんから、強引にサングラスと帽子を取るように要求されて困った事があった。

私は脳機能に障害がある事と、外すと痛みと麻痺が強くなって動けなくなる事、事前に受付の執事さんに了解を取ってある事を話したが通じない。とにかく取れと言う。そして不思議なことに「住職さんはわかっているから、早く取りなさい」とまで言い出した。

私はイベント中、1日1回はそのお寺にお参りしていたが、時間的に住職さんとはまだ居合わせたことはない。この人が何を言っているのか、意味が分からない。

そして、信徒さんは「取りなさい」と言いながら私の服を引っ張り始めたので、私は本堂から出て受付の執事さん(修行中のお坊さん)に話したのだが... これがまた、妙なお坊さんだった💧

私の話を聞いた後、執事さんは「あの方は海外から来た信徒さんなので、感覚や言い方が日本人よりも強いかもしれません。」と言う。(日本人と同じ黒髪・黒目のアジア人)

私は「海外から来た人だから、医療的な脳機能障害という言葉の意味が分からなかったのでしょうか」と応じた。

すると執事さんは「いいえ。あの信徒さんは日本に来てもう20年~30年経ってますから、日本語は達者ですよ。まぁ・・言い方がキツイのはしょうがないです。我々からは何も言えないので、また同じことがあればその都度、あなたから説明するようにしてください」と笑って言った。

これ・・・ 執事さんの応答に違和感を覚えるのは私だけだろうか💧 誰が「言い方の問題」の話をしてるんだ?w 中身の問題だよ!

私は当然、そんな場所に長居はせずにホテルに帰ったが、20歳を超えた執事さんの応答とは思えないほど変だ。

執事さんは修行中の身で、立場的に各たる事を言えないのはわかる。そういうルールだ。しかし、それならそれで。この場合は「それは... お体は大丈夫ですか? (御無理はなさらないでください。)この件は必ず、私から御住職に伝えさせて頂きます。どうぞお気をつけてお帰り下さい」と言うのが自然だと思うが、どうだろうか。

たとえ職業がお坊さんでも、20歳を超えていてわからないことはないと思うが...。

多くの僧侶がいる中で、変な人間が混じる事は確率的にあり得るが、過去のお坊さんたちの様子を思い出すと何となく... 少し、世間一般よりも不適切な対応をする確率が高いような気がするのは、気のせいだろうか💧

(世間知らずというか... 世間一般の感覚やルールに疎い印象がある トラブルや苦情への適切な対応の仕方、お寺の立場を伝えながらも、必要以上に相手の神経を逆なでしない伝え方や、保留などの具体的な文言を知らないというか。

日蓮正宗のお坊さんは、副業禁止のために、お坊さん自身が世間一般で働く事によって、トラブル時の適切な接客応対を勉強する機会が持てない。さらに、日蓮正宗のお坊さんは信徒からの御供養によってのみ生計を立てる以上、自由な買い物や旅行が大幅に制限される傾向にある。このため、お坊さん自身が接客サービスを受けるお客の立場になって、適切な接客を勉強するという機会も非常に少ない。)

大石寺はやはり、もう少し教育システムを見直した方が良いと思う。お坊さんたちは総じて素直で真面目な人が多いので、教育次第で改善できるはずだ。

(この東京のお寺の一件は後日、寺院名と共に大石寺の内示部に報告した。)


【日常の困った事。脚気対策などw】

脳に優しい田舎での、脳に優しい1人暮らし。

医療の問題は大きいものの、それ以外は概ね快適なはずだったが、それでもストレスはある。

(この期間、生えかけの親知らずに大きな虫歯ができたのだが、既往症を理由に歯科治療を断られ続け、歯科を転々とする中で半年~1年近くアセトアミノフェンで耐える事になる。結局は首都圏の歯科に戻る事になる。)

ストレスの種類は医療的なものだけでなく、脳機能の理解が不十分な家族によってもたらされる「その時点では必要のない視聴覚情報」の負荷が大きかった。

母は2011年や2012年に比べると、ある程度は(30%くらいは)理解と協力を得やすくなっていたが、姉は変わらなかった。(今も変わらない。)2011年当時、既に家を出て独立していたので、私の脳機能の状態を直接知る機会が少なかったからだ。

このため、姉からは長電話の他に 気遣いによる贈り物などが多く、私はその度に困っていた。荷物が届くと、予期しない品物や、必要を感じていない品物が入っているため、強い恐怖で何もできなくなるからだ。(箱ごと置いておく、という事さえできない。)

姉は親切な性格だが、強すぎる愛情は独善的な傾向もあり、「自分の親切・思いやりは、いつでも、どんな状態の人にも受け入れられて当たり前」と思っている節がある。

その結果、私がどれだけ脳機能の問題を伝えて贈り物を拒否しても、火が付いたように怒り出すのだ。「(拒否するなんて・突っ返すなんて)生意気だ! あいつは一体何なんだ!」と。(のび太のくせに生意気だ! くらいの感じw)

添書登山で母と一緒に立ち寄ってくれた時も、直接対面してさえ似たような事があった。私はそこで初めて、口から生まれてきたような姉と面と向かって大喧嘩した。

姉の不満を口にする大きな声に対応できる脳機能ではなかったが、もう何も聞かずに、自分の主張だけを大声で叫んだ。

冗談ではなかった。脳機能の回復には、視聴覚情報を極めて制限した環境が必要で。そのためにどれだけの生活費がかかっているかを私はわかっていた。少しずつ回復し始めている脳を、無理解な姉の言動で水の泡にする事はできない。姉は私の脳機能の状態はもちろん、費用と時間薬の重大性をわかっていなかった。

それでも・・・ 非常にありがたく、頼りになる姉なのである。 理解さえ得られれば、とても心強くて愛情深い姉なのだ。


🌴☕🐧🌴

他のストレスには... ちょいちょい、不動産の管理会社と水回りの不調などで揉めることもあったし、田舎特有の虫害など、色々あったw(とんでもなく大きい蜂が、網戸に何匹も止まるとか、とんでもなく大きいアシダカグモ?や、スプレー中の殺虫剤に正面からジリジリ向かってくる巨大 なGとか・・・)

それでも、虫や管理会社の問題くらいは良い刺激になったw 低血糖中の害虫出現で(アドレナリンが増えて)補食を摂らずに血糖を上げた時は少し辛かったが、自分が「生きている」実感は得られたw(しかし、虫で血糖を上げたくないw)

🌴☕🐧🌴

・脚気の危機w

何だかんだの中で、私が外出できるのは 平均して2週間に1回くらいだ。時にクローゼットを眺めて、服を全て捨ててしまおうかと考える事も何度かあった。

この時点で、退職してほぼ10年経過している。そして、毎日買い物や遊びに行けるほどの健康もないため、外出着は病院へ行く時しか出番がない。お寺へ行ったり、商品の仕入れに行く時には着るけど... 「何だかなぁ・・・」という気分になる事が度々あった。

髪だって、目の不調で切りに行くことが難しい。美容室では、照明を落とした状態で安全にハサミを使う事は難しいだろう。いっそ坊主にした方が楽では・・? 

そんな風に思う事もあった。元々ヘアスタイルには拘りがなく「邪魔にならず、手入れが簡単なカット」を美容師にお願いしていた。(2021年現在でも、ちょいちょい思うw 坊主の方が楽じゃないかとw どのみち、外出中は帽子とサングラスが必須である。それならまぁ・・ねw)

これらは合理的なようにも思うが、実は少し不健康な心理状態だ。

そんなある日、膝が立たなくなった💦 座布団から立ち上がれない。 いくら運動不足とはいえ、急に立てなくなる(どう力を入れたら良いかわからない)というのは変だ。ちょうど御開扉で私の部屋に来ていた母に相談すると、ドリンクタイプのチョコラBBを買ってきてくれた。

私は「疲労? 疲労かなぁ・・・ うーん・・?」と思いつつも飲んでみると、15分~30分くらいで立てるようになったw

思い返してみると、脚が立たなくなる2か月くらい前から、豚肉(ビタミンBの豊富な食材)を食べたいと思いながら、食べていない日が続いていた。

近所のJAの豚肉はあまり美味しくなかったので(下ごしらえをしても少し臭う💧)少し歩いた先のお肉屋さんに行きたかったが、体調が悪くて出かけられない日が続いていた。

そこで「豚肉は食べたいけど、どうしても豚じゃないといけない訳ではないし... 肉なら良いんだ」と、鶏肉や魚を食べていた。(料理はしていたし、低血糖にならない程度に量も定期的に食べていた。)


そして・・・ 私は1型糖尿病である。それは代謝障害があるという事。多尿により、水溶性の栄養素(ビタミンB群やイノシトールなど)は不足しやすい状態にある。(毎食しっかり食べていれば防げる程度だが、疲労や多忙であまり食べていない状態が続くと影響が出やすい。)

1型糖尿病で日頃から栄養が不足しやすい体内環境なのに、豚肉を食べていない状況が続いた事で、いつの間にかビタミンB不足に陥っていたようだ。軽い脚気だったんだと思う。

精神的にも、服を全て捨てようと思ったり、今さらながらの問題(体調不良で外出が少ない事)に気落ちするのも変な話で、これもビタミンB不足による軽い鬱状態だったのかもしれない。

肉でも野菜でも「これが食べたい」と思う時は、少し無理をしてでも用意した方が良さそうだ。

これ以降、私の部屋には錠剤のチョコラBBと肝油が常備されるようになったw(外出が少ないので、肌の色も不気味に白くなる💦) そして、窓のシャッターを調整してアイマスクをつけ、部屋の中で日光浴をするようになった。

(上半身の服を脱いで、座布団二枚に寝そべる。10分ほど、背中に太陽を当てて甲羅干しw)

その年の誕生日には、家族にエアロバイクを買ってもらった。

(運動不足の解消と、カルシウム作りのため。地方は空気が良くて歩きやすいが、脳機能的に帰って来られない事も何度かあったので、室内で運動できるエアロバイクをリクエストした。)


【体力づくりと気分転換🐧

エアロバイクを買ってもらったのは、療養生活が2年経った頃だった。

この頃は引っ越し当時よりも脳機能が回復していて、調子の良い時は歩いてホームセンターやスーパーに行くことができた。(2カ月に1回くらい。)

多くの品物が並ぶお店は脳にとって厳しい場所だったが、地方の特徴が幸いして、サングラスや帽子を付けて歩く事ができた。

地方はホームセンターもスーパーも非常に広く、商品がゆったり陳列されており、お客さんの人数も少ない。(スーパーの場合は時間帯による。)

お陰様で、脳に後遺症を抱えてから、首都圏ではできなかった買い物ができた。もちろん歩き方はとても遅いし、帽子などで視覚情報を制限しながらの買い物なので、周囲から見ると怪しい人物に見えただろう💧 いつも私を遠巻きに見ながら、ヒソヒソと話し合う若いバイトが2人いたものの、レジは(他の人が)きちんと対応してくれた。

(若いバイトの態度は非常に失礼だと思うが、外見の怪しさから警察に通報されない分だけ、マシだったのかなぁ💧 それにしても失礼である。)

散歩(体力づくり)も兼ねて歩いていたが、たまに脳機能の問題で帰れなくなる事もあったので(タクシーで帰る事があった💦)途中から、落ち着いた照明の飲食店で休憩するようになった。

ホームセンターの傍にはモスバーガーがあり、ここで紅茶(ルフナ)と豆乳ケーキで休憩するのが好きだった。(そしてたまに、お土産に持ち帰る♪)


・映画館の旅 👜🐧♪

そんな日々の中で、ある日・・・ 好きな漫画の映画が公開される事になった。しかし、マイナーな漫画のせいか(あるいは、見方によっては不健全なせいか)最寄りの映画館では上映されていない。同じ県内の都市部では上映されているようだ。

私は悩んだ。 映画は見たい。しかし、今の脳機能では大きな音や光の出る映画は、危険ではないか? おまけに、始めて行く場所だ。 (-ω-;)ウーン...💧

考えた結果、「行けるところまで行ってみよう」という事になった。到映画館の近くにホテルを取って、見に行こう♪🐧♪

お金はかかる。でも、普段がどこにも行けないのだから、ちょうど良いリハビリだ。脳の回復度合いもわかるだろう。

👜🐧♪ 出発~✨

そうして‥ 移動する人間が少ない時間帯を計算して、気合を入れて出かけたところ、最寄り駅までのタクシーでトラブルもあったが無事に到着し、電車を乗り継いで映画を見に行く事ができた✨ 

到着後、ダメもとでコンセッションに寄ると、乳製品にアレルギーのある私でも食べられるポップコーンが売られていた✨ たとえ塩味でもバターを使う場合が多いのに、ここは違った。これだけで来て良かったと思える。(*´▽`*) 映画館で映画を見ながらポップコーン‥ やってみたかったんだよ~♪

お茶も一緒に買って、チケットの席に座る。パンフレットなどは売り切れだった。

さて。今度は映画の音と光に耐えられるかどうか。居られるところまでで良い、途中でも帰る勇気を持とうと思っていたが...意外なことに、映画館は非常に古くて音響は控えめ、さらにスクリーンもかなり小さかった。

(映画館側が観客人数を少なく見積もっていた部分もありそうだった。^^; グッズやパンフは売り切れるほどなのに。)

上映が始まると、落ち着いて最後まで見る事ができた。ε-(´∀`*)ホッ

映画の内容は一度漫画で見ているので(内容的には)認知機能に負荷はなかった。そして、小さなスクリーンと、テレビのように控えめな音。さらに、映画の内容(漫画のテーマ)が少しダークだったために、明るいシーンが少なかったことが脳機能に幸いした。

見終わってしばらく・・。

(*´▽`*) はー 良かった。久しぶりの映画だったなぁ...。うん、幸せ✨

と、手荷物を確認したところ、ほぼ手付かずのポップコーンがあったw どうして食べていなかったのかと言うと...

コメディ要素も十分あるものの、映画の内容がダークすぎて、食べられる雰囲気ではなかったのだw

一応ハッピーエンドなんだけど(ハッピーな方が主人公なので)、ちょうどテーマがゾンビだったから・・・。 ^^; あんまり食べる気分にならなかったのだ💦

私がホラーやスプラッタな漫画を好きだという事ではなく、その・・映画になった部分がゾンビ回だったので💦

映画の余韻を味わいつつ、映画館内の廊下のベンチでゆっくり食べてからホテルに向かったw

ホテルもかなり古くてレトロだったので、脳に優しかった。古い分だけ部屋の窓も開けられるので、空気の入れ替えができて快適だった✨ 照明にはLED電球が使われていたが、自前の持ち歩き白熱電球に交換し、これまた持ち歩きのアルミホイルでシェードの側面を覆って「使えるお部屋」にした。(チェックアウトの際は元に戻している。)

帰路も人混みを避ける時間帯に移動してスムーズに進み、無事に家まで帰る事ができた。ヾ(*´∀`*)ノ

その後は数日間、普段以上に暗い照明で過ごしたのは御愛嬌w 普段が10W程度の間接照明を2つ点ける生活だが、しばらくは0~5Wくらいの間接照明になったw (照明の種類はもちろん白熱電球。LEDや蛍光灯は全く使えない。)

【退去のカウントダウン 🐧💦

療養生活が2年ちょっと過ぎた頃。同じアパートの上階の住人が入れ替わった。新たな住人は若いカップル(夫婦?)だった。

最初は特に問題はなかったが、入居して1カ月ほどしたころから、私の部屋で(洗濯置き場のあたり)、強烈なマジックの臭いが充満するようになった。最初は同じアパートか近所の家で外壁の塗装でもしているのかと思ったが、夕暮れ時に出て確認すると、そういう事ではなさそうだ。足場が組まれた様子もない。なにより、外は空気が良いのだ。家の中に入るとマジック臭がする。

不動産の管理会社に問い合わせたが、塗装を含めて工事は行っていないとの事だった。

頭痛が悪化し、喉まで刺激がある変なマジック臭は数時間で消える(薄くなる)ものの、その後も数日の感覚を開けてつづいた。(1週間に1回くらい)

私は臭いの強い洗濯置き場(水回り周辺)を確認したが、異常は見当たらない。私は頭痛持ちなので、洗濯洗剤はシャボン玉石鹸などを使っている。シャンプーやお風呂の石鹸は、マジックのようなシンナー臭はしない。

不思議に思いながら窓を開けて対策していたところ、ある日からマジック臭はしなくなった。そして、そこからさらに奇妙なことが始まる。

居間にいると、何の臭いもしないのに息が苦しくなり、次第に風邪のような咳が続くようになってきた。12月だったので風邪だと思っていたが、薬を飲んでも治らない。咳や息苦しさと喉の不快感によって動きにくくなる中で、何とか買い物のために外出したところ、2時間ほどで咳も苦しさもなくなり、快適に動けるようになってきた。

「気の持ちようだろうか。それにしてもなぁ...」と思いながら帰宅すると、15分~20分後くらいから、再び息苦しさと咳に悩むようになった。

年末年始、実家に戻れないほど体調が悪くなった私を心配して、母が泊まりに来てくれた。色々な薬や栄養のある食品も届けてくれた。しかし、体調はあまり改善しない。

年が明けて2月。添書登山に立ち寄ってくれた母と姉が私の部屋に入ると、2人とも顔を見合わせた。「この部屋、なんか変。喉がヒヤヒヤする。手足が冷たくなる」そう言った。私もたまに感じていたし、去年までの同じ月の電気代と比べて明らかに暖房代が高くついていたが、どうする事もできなかった。

しばらく部屋にいてもらうと、2人とも咳をし始めた。(外へ行くと治る。)

やはりこの部屋はおかしい💧

変な空気は天井から降ってくる印象があるので、母と相談して、天井にビニールを張る事にした。(ホームセンターで農業用の透明なシートを買い、養生テープで止める。)上階の住人がタバコを吸っているのかもしれないと考えたのだ。しかし、天井すべてをビニールで覆っても「しないよりはマシかなぁ・・・」という程度だった。

不動産管理会社に問い合わせて、上階でタバコや臭いの強い洗濯洗剤を使っているのか確認してもらうが、住人は「赤ん坊がいるので気を使っている。タバコは吸わないし、臭いの強いものは使っていない」と言うそうだ。

念のため、管理会社の担当者に私の部屋に来てもらい、30分ほど滞在してもらった。すると担当者もメンソール系の臭いに気付き、咳が出始めた。

そして改めて、上階の住人と管理会社の担当者、私たちとで話し合いをしたところ... 奇妙なことがわかる。上階の玄関先で話をした。奥さんが赤ん坊を抱えて出てくる。しかし、ドアを開けた瞬間から異様に強い芳香剤の臭いがした。玄関には大きな芳香剤が置かれていた。管理会社の担当者が電話で聞いた話とは違う状況だ。

そして、もっと変なことがあった。若い奥さんが抱いている赤ん坊は、まるで人形のようだった。顔色が悪い上に、呼吸をしていない様子だ。寝ているように見えるが、狭い玄関先で近距離にいると違和感を覚える。

上階の奥さんと話していたのは5分~10分程度で、特に口論はしていない。しかし、半畳程度の狭い玄関に大人が5人も集まって話している状況だ。赤ん坊が身動ぎもせず、鼻息さえ感じられないのは奇妙だった。

そして、母と姉は赤ん坊の体に力が入っていない様子や、顔色が悪い様子を見て、完全に人形だと見抜いた。私は2人に、木造のアパートで防音性能が低いにもかかわらず、赤ん坊の声(泣き声)を聞いた覚えがない事を話した。

管理会社の担当者は違和感を感じながらも「それ以上は住人に突っ込んで調査できない」という様子だ。(上階の住人からは、使用している洗濯洗剤を教えてもらい、管理会社はその成分を確認したという。)

話し合いの日以降、今度は外からも妙な臭いがするようになった。不思議に思って外へ出ると、上階の住人が、窓を連日開けっ放すようになっていた。(それまで窓はずっと閉まっていたのに。)

結果、私と母と姉の3人では、「上階の住人は危険な人たちだ」という認識で一致した。赤ん坊がいると嘘をついてまで(リアルな人形を用意してまで)シンナーか危険な薬物を使っている可能性がある。

悩んだ末、私は県庁の相談窓口に異臭について電話した。すると、担当者は丁寧に話を聞いてくれた上で「シンナーか、シンナーに類する有機溶剤の可能性があります」と言った。

強いシンナー臭は最初の内だけだったが、メンソールのような臭いや体に感じる症状、そしてビニールでは防げない状況から察するに、何らかの有機溶剤の可能性が高いとの事だった。そして、「上階の住人がそういった溶剤を使用している可能性が高い」との事だ。

警察に通報した方が良いかと聞くと「警察は具体的な証拠が出ないと動きません。しかし、自分で空気を袋に詰めて調査機関へ持って行くと、検査だけで数十万円かかります。結果に関わらず費用は自腹になってしまいますから、もしその費用が出せるなら、引っ越す事を強くお勧めします」と教えてくれた。

さらに「ある一軒家のご家庭で、似た問題を担当したことがありまして。最初はその家の奥さんが体調を崩しました。原因は近所の家から出る妙な臭いでした。空気を調査する費用も出せず、その内に御主人まで体調を崩し、2人とも化学物質過敏症になってしまいました。結果的に御主人は仕事も続けられなくなり、引っ越しの費用も出せないまま、苦しみ続けています。 

なので・・あなたの場合は賃貸であり、帰れるご実家がある事が救いです。費用が出せるなら引越しをするのが一番お勧めです。今以上に体が悪くならないうちに、早く引っ越した方が良いです」という具体的で親身なアドバイスをもらった。

その後、私は避難のために最寄りのホテルに数日泊まり、今のアパートと同程度の費用で借りられる物件を探してみたが、良い物件は見つからない。結局、実家に戻る事になった。

そう... 脳機能の後遺症に対して、理解の不十分な家族のいる実家へ・・・💧

(゚Д゚;) イヤダ―💦 おやめになって~~💦


【引っ越し準備 🐧💦💦

泣く泣くの引っ越し。しかし良いこともある。2012年と違い、自身の思い体調不良が原因での退去ではなく、自分で荷物の整理と始末をつけ られることは幸いだ。

引っ越すと決まれば時間はない。管理会社との話し合いの結果、上階からの悪い空気が原因で、室内に居られない状況が1カ月続いても、家賃を割り引かないと言うのだ。一日も早く退去する必要がある。

そして、県庁の担当者が言うには「その状況だと、上階の有機溶剤を吸ってしまった家具もおそらく使えなくなるでしょう」という話だった。

(-ω-:) フム。家具か...タンスとか本棚とか、色々ね...。了解。まずは引っ越し業者選びと荷造りだ。

荷造りは低下した脳機能にとって非常に負荷のかかる作業だったが、天井の豆電球をアルミで覆い、間接照明にして部屋全体を照らす事にした。(引っ越し作業のため、全体を照らしながらもハッキリ物を認識させない暗さ、閃輝暗点や頭痛を引き起こしにくい明るさを確保した。)

脳に優しい1人暮らしが一定期間続いていたお陰で、大変でも思ったよりはスムーズに作業が進んだ。空気の悪い中での作業は辛かったが、最終的に玄関のドアを開けはなし、防犯に養生テープを数本張って作業した。

玄関から入ってくるツバメや、サンルームから見えるキジの歩く姿も見納めである。綺麗な青い田んぼと月も、竹林も...。JAからの帰り道、ちょっと切なくなった。

サンルームでお月見をするのが好きだったけど、それも終わりかぁ... (´・ω・`)

太陽の強い光に痛みを強く感じる私でも、反射光の月明かりは浴びる事ができた。昔から好きだが、空気の綺麗な地方で見る月は最高だった。

引っ越し準備の時は上階の空気の悪さを避けて、1,5畳ほどのサンルームで過ごしていた。長座布団を床に敷き、こたつを入れて過ごしていた。御本尊様も一緒だ。手作りの簡易な箱に御安置させて頂いた。

サンルームと居室の間には大きな窓があり、サンルームの上は上階のベランダだったため、悪い空気が降ってこない。そこが唯一、居られる空間だった。ここに入ると咳が止まる。

🌴🐧🌴

食事は基本的に家で取っていたが、この頃は部屋の空気の悪さも相まって、近所のとんかつ屋さんに行くようになる。

年配の夫婦が営んでいるお店だが、抜群に美味しく、何より夫婦ともにスッキリした馴染みやすい印象があった。話を聞くと、元々は都内でお店をやっていて、雑誌にも取り上げられる有名なとんかつ屋さんだったそうだ。年を取り、リタイアして旦那さんの地元に帰ってきたとの事。

私は嬉しかった。首都圏に住んでいながら、体力不足で(街歩きの目的で)都内に出かける事は殆どなかったため、雑誌に載るようなお店や話題のお店に行くことがなかったからだ。

まさか、こんな地方で気軽に通える距離に東京の味があるとは...✨ 空気が悪くて家に居られない状況が続く中で、このとんかつ屋さんは憩いの場となった☕

🌴🐧🌴

美しい自然や静けさ、美味しいとんかつ屋さんから離れる寂しさを感じつつも、ゆっくりしてはいられない。

引っ越し業者の選定は大変だった。特に療養に不可欠な、リクライニング電動ベッドの解体と組み立てができる業者を探すのに苦労した。ベッドが古すぎてメーカーと連絡が取れないため、どの引っ越し業者も躊躇した。

また、相見積を取る事や家族と相談する暇を与えず、何時間も家の中で粘り続ける大手引っ越し業者もあり、最後は「どうしたら契約してくれるのか」と泣きながら聞かれ、何かと大変だった。

(是が非でも即日に契約を取らないと、ドヤされるようなブラック企業なんだろうか?💧)

最終的にはアリさんマークの引越社に決まる。(ハートマーク?の業者も良かったが、業者のスケジュールに空きがなかった。)

さて。問題は... この家具たちをどこへ持って行くかである。県庁の担当者が言うように、確かに臭った。試しにミニテーブルだけを実家へ持って帰ると、シンナーくさかった。

このため家具は一定期間、母方の祖父の工場に預かってもらう事になった。(祖父は自営業で溶接をしていた。当時すでにリタイアしていたが、工場は空いていた。事情を聴いた祖父母が「使って良い」と言ってくれたので、お言葉に甘えて一時的に置かせてもらう事にした。)

リタイアして10年ほど経過した工場は埃っぽく、雨漏りなどもあり、床の手入れが必要な状態だったが、この大変な作業を母が一人で引き受けてくれた。

そして... 引っ越し後の予定は、まず脳機能と身体機能に多くの後遺症を抱える私が、実家で療養に必要不可欠なミニキッチンを増設する事だ。

私は母に再びの説得(お願い)をしたところ、今回はスムーズに協力を得ることができた。しかも、私の部屋(4畳半+押入れ半畳)ではなく「元の部屋にはベッドを置けないし、居間の次に広い部屋に通常のキッチンを増設し、そこを新しい私の部屋とすると良い」と言ってくれた。

そして、家を建てた時と同じ業者にリフォームを依頼した。

私は引っ越し後、完成までの間の工事期間(大きな音の出る期間)をビジネスホテルの連泊プランで過ごすように事前に予約を取った。

最後に、リサイクル業者へ家電を売って引っ越し準備は完了した。


【引っ越し当日 👜🐧】

管理会社の担当者による最終確認を済ませた後、退去となった。

名義人の父にも来てもらい、父からの恒例の質問攻めに困りながらも、母の協力で何とか退去手続きを完了する。

(アスペルガー+多動性症候群+αの疑われる父は、常に矢継ぎ早に相手を質問攻めにするので会話にならない。相手が回答し始めた矢先に次の質問をするのだ。異常なほど落ち着きがない。

それで相手が困っていても、本人は「自分の頭が良いから、周囲がついて来られないんだ」と本気で言う💧  本当に頭の良い人は、相手が答えやすい話し方をするものだけどね...💧)

認知機能の保全のために、引っ越し荷物に入れないで最後まで取っておいた炬燵や炊飯器などを車に乗せて、アパートを出発した。

事前に話しておいたにもかかわらず、脳機能の状態に理解がない母は文句が止まらない。(「こういう物は、引っ越し業者に頼むものだ!全く!」との事。)

普段身近にあるものが傍にあるだけで、場所の移動による脳の負担が減り、認知機能の保全に役立つのだ。車内にある必要はないが、炬燵などは帰宅後の自室に必要な物だった。祖父の工場に持っていく訳にはいかない。

母の様子は相変わらずである。家を出る前(2年半前)と変わらない。

先を思うと不安しかないが、それでも新しいキッチンができて部屋の移動を完了したら、心配はなくなるはずだ。頑張ろう。

そう思っていた。




【直近の3年、始まる⚡】

ここからページを移動します。上のリンク(直近の3年、始まる⚡)を押してください。

ページ名は【(サイト管理人の人生と信心・続き)直近10年の人生 その2】です。


ご覧の通り、3年半で脳の回復を促せる療養生活が終わってしまいました。( ノД`)

(2015年春に家出。2015年夏に引っ越し。2019年春に退去。実家に戻る。)

2011年とは違い、残念ながらも無事に実家に戻るのですが... 家族の脳機能への理解はあまり進んでいないため、色々起きます💧 (それでも頑張って環境を整え、当初の予定よりもかなり立派なキッチンなどを増設できた。但し、業者の問題で大幅に工期がズレる💧)

特に、父!

この問題を経て、ようやく今現在に至ります。再び大変な日々が始まりますが、そんな中でも更に信心を後押しする経験が出てきます。(そして、当サイト「信心の休憩所 オアシス035」が生まれます。)

最後までサラリと書き上げたいと思いますので、御興味のある方はどうぞ見守ってください。(;´▽`A``

(* ̄0 ̄)/ 最後の3年、書き上げるよー!✨ 気合いだー!www

(心優しい閲覧者様は、胃薬やハーブティーを片手にご覧くださいw 大丈夫です。全てはサイト管理人に起きた事であって、閲覧者様に起きた事ではありません。大丈夫です。)

オアシス035
2020年2月12日 サイト工事開始
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