(続き)サイト管理人の人生と信心直近10年 その2

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少し特殊な持病=難病を抱えた状態での、これまでの人生。

学校、仕事、旅行、病院、信心(寺院参詣を含む)全てにおいて、

特殊な疾患を抱える者がどんな状態で日々を過ごしているかを記載します。

外見に現れやすい身体障害とは異なり、外部から見えない内部疾患である難病を抱えて生きる日々には、どのような困難があるか。

これは信心(お寺)を含めた、社会への問題提起でもあります。









【無事の帰還✨🐧✨そして部屋作り】

無事に実家に到着し、まだ脳機能が働くうちに準備を整える。レンタル品のルーターの返品や、4畳半の自室に居場所を作りはじめる。

田舎の綺麗な空気と、1人暮らしによる視聴覚情報の削減で、2~3カ月に1回はスーパーへ行けるくらいに回復していた脳機能だが、実家は空気の悪い首都圏であり、家族と同居なので余分な視聴覚情報の負荷がかかる。脳機能は回復が止まるだけでなく、今よりも悪化し、動けなくなるのは時間の問題だった。

急がねば...💦 と、部屋作りに取り掛かると、母から声がかかる。「ねぇ、その部屋、大丈夫?」とw

詳しく聞くと、私の部屋の真下にある居間のエアコンから、洗浄剤の成分が揮発して苦しい可能性があるとの事だった。母は目や喉に痛みが出たようだ。

(引っ越しの1週間くらい前に居間のエアコンを掃除したものの、掃除業者のすすぎが不十分で、居間にはいられないほど薬剤の臭いや成分が充満していたそうだ。)

そこで母は1階から避難して、私の隣の部屋で寝るようにしたのだが、それでも薬剤が苦しいという事だった。(居間は広いので、上階の2部屋分と同じ面積がある。)

それで、居間のエアコン自体の真上に位置する私の部屋は、大丈夫なのか? という事だった💧

👀💦 それ、早く言ってよ!!

そういう事なら、部屋作りの前に床の加工が必要だ。母が言うには、ラグでは太刀打ちできなかったという。なので母に翌日、ホームセンターで透明なビニールのテーブルクロスを買ってもらうように頼んだ。量り売りのテーブルクロスの中で、一番薄くて安価なビニールで作られたテーブルクロスを使って、床や畳を覆うのだ。クロスを水拭きした後、その上からラグを敷けば違うはずだと思った。

そこそこ手間のかかる作業だが、自分の脳と体が動けるうちだ。引っ越しで疲れている母には申し訳なかったが、ホームセンターへ急いでもらった。

4畳半に綺麗なコピー用紙を部分的に置き、ビニールクロスの床への張り付きを予防すると、ビニールクロスを置いて養生テープで止め、上から薄いラグを掛ける。そして炬燵やスタンドライト(頭痛や目に優しい間接照明)、調光器(スタンドライトに繋ぐ)、キャリーケース、布団などを置く。

狭い部屋なので一気にできるはずだが、ここで脳機能をフルに使って頑張ってしまうと後が怖いので(閃輝暗点や激痛で3週間~1カ月は動けなくなる)面倒でも休憩を入れながら、丸1日かけて部屋を作った。

母は半信半疑のようだったが、完成した私の部屋に入ると「凄い! 大丈夫になった!」と喜んだw そして母は、自分が臨時で寝る隣の部屋については「エアコンの真上ではないから大丈夫」と言っていたが、後日、同様に加工する事になった。(私も手伝った。)

エアコンの問題は、業者にすすぎだけを再度頼んだが改善せず、最終的には買い替える事になった。


【キッチン増設までの日々】

帰宅早々、思わぬ事態に脳機能をすり減らし、短期記憶能力が悪化した。そんな中でも母はしゃべり続ける。ゆっくり話してほしいという頼みも叶わない。口では「わかった」と言いながら、現実は全くついてこない。

それでも、キッチンの増設が完了すれば距離が取れる。当初の予定では5月中に工事が終わる予定だった。予想される工事期間の間だけホテルを取っていた。(2週間ほど)

しかし・・・ 実際に工事が完了したのは8月の事だった。

私はリフォーム会社の担当者と打ち合わせを済ませてからホテルに移動し、脳を休ませた。ホテルまでの移動中に、脳の疲労が祟って一歩も動けなくなる事もあったが、何とか到着。そして2週間後に帰宅。この頃には完成しているはずだったのだが...

リフォーム会社の担当者の不備で、こちらがオーダーしていないキッチンが取り付けられる事となり、途中で気付いた私たちが担当者を呼んでも一向に連絡に応じない。

応じられないまま、大工は仕事を進める状況だ。 これは変だ。最終的に直接大工さんに一時停止を申し出て、何度目かの呼びかけにようやく応じたリフォーム会社の担当者と、その上司、キッチンメーカーの担当者と話し合う事ができた。

結局、全てはリフォーム会社の担当者が、全ての連絡事項を自分の元で止めていた事が分かった。キッチンメーカーの担当者や大工さんも、全員困っていたのだ。

結果的に、費用をかけた割に希望していないキッチンができあがり、寸法などに不便の残る形になったが、それでも通常の賃貸と同じ規模の、しっかりしたキッチンが完成した。(私が最初にリクエストしていたオフィスタイプのミニキッチンとは比べ物にならないほど、立派なキッチンだ。)

しかし、キッチンが完成するまでの3カ月間に色々なことが起きた。予定通り5月中に完成していれば起きなかったであろう問題が・・・💧


【 父の問題 】


・父の日

私はいつも、父の日や誕生日には贈り物をしていた。それは家族として特別なことではなく、毎年やっていた事だ。

しかし、アスペルガー+多動性症候群+αの疑われる父は、贈り物を直接受け取る事が少ない。その場に落ち着いて座っていることができないのだ。誰と何をしていても、常に体の一部が動いている。目の前にいる場合はまだマシだが、大抵は家の中でウロウロと絶えず移動しながら話す事になる。

それが父の常態ではあるが、約3年ぶりにあった父は、その状態が更に悪化していた。そんな中での父の日は、こんな様子だった。

夜遅くに帰宅した父に、私が贈り物を渡そうと声をかけると「ちょっとまって」と部屋で何か作業をしている。私はそのまま待つ事にした。しかし、5分待っても10分待っても終わらない。再度声をかけても返事がない。直接父に会おうにも、父の部屋にはLEDが付いているために近寄れない。

結局、居間のテーブルに置いておくことになる。(せっかく忙しい現役時代が終わって、顔を見れる時間帯に帰宅できるようになったのに、これである。)

翌日に声をかけると、ありがとうとは言うものの・・・ 実質的には記憶にないようで、贈り物は忘れ去られている。(開封されても使われることはない。)

日頃の父を知っているので今さら驚かないが、やっぱり異常だと思った。


・身勝手な父(「勤行をやめろ」と言われる話)

ある日、父が私に言った。「寝られないから、夜に騒ぐな」と。(この時、私と父は2階の隣り合った部屋に寝ていた。母は1階に寝ていた。)

騒ぐとは何かと聞けば、夕の勤行の事だと言う。私はすぐに謝罪し、了解した。そして小さな声で勤行をして、夜10時以降は唱題もしないようにした。

私にとって夕の勤行や夜間の唱題は、血糖の管理や諸症状に対応するために必要なことだったが、父に配慮した。

(血糖の調整をしたり痛み止めを飲んだりした後、効果が出るまでの間に唱題をする事が多かった。体調不良の中で、落ち着かずに時間だけを待つのは心理的に良くない。脳機能の不調で本が読めたり、音楽やラジオを聞き続けたり、ネットゲームができる訳でもないので。)

しかし、約1週間後に父から同じ注文が出される。今度は「何の努力もしていないだろう。勤行をやめろ」と言う。

私は思わず、何も言わずに父に向かって(未開封の)煎餅の袋・ペットボトルの水、急須を投げた。(水はボトルごと投げた。父には煎餅の袋だけが命中する。)

こんなことをするのは初めてだ。しかし、私が怒ったのはそれなりの訳がある。信心に関係する事だからここまで怒った訳ではない。(それだけの話だったら、いきなり物を投げて抗議することにはならなかった。 静かに話し合う事ができた。)

父の言葉は、過去30年以上つづく自身の身勝手さを、完全に棚に上げた要求だったからだ。

ここでいう父の身勝手とは、大イビキによる家族全員に対しての安眠妨害である。

父は結婚当初から、給料の3分の1を酒代に使ってしまうほどアルコールを飲む人だった。結婚当初、母は家にちゃんと適量のビールを用意していたそうだが、父は会社帰りに大量に飲みながら帰る事が多かったとの事。

(会社の飲み会や接待の他に、帰宅途中に自転車に乗りながら飲んで帰る。そしてさらに。20年以上たって、当時住んでいた社宅の他所のお宅でも父が大量に飲んでいた事が発覚し、母は恥ずかしい思いをしたという。 社宅なので、そこの御主人と父が仕事の件で少し立ち寄って話したらしい。奥さんが気を使ってお酒とつまみを用意したところ、心配になるくらい大量に飲んでいったと...。)

そして私や姉の物心がつくころ、既に父の毎晩の大イビキは恒例となっていた。母はアルコールを控えるように再三話していて、当然、家にもアルコールは一切置かなくなっていたが、父は外で(接待や出張を含めて)大量に飲んで帰るのである。

(元々、アスペルガーや多動性症候群などが強く疑われる傾向のある父が、多量の飲酒でさらに悪化した=脳が十分な制御を失った事が、母が離婚を考える原因になったと考えられる。

父の異常性については、実は父方の祖父が気付いていた。当時は発達障害という言葉もなく、そんな外来もなかったが、それでも異常性に気付くほど父は元々、正常ではないという事だ。)

家中、地響きがするほどの大イビキを毎晩くり返し、睡眠時に無呼吸になる事が恒例となっても、まだお酒を飲み続ける父。母は禁酒とともに病院へ行くことを何度も勧めてきたが、父は行かなかった。家族は全員、睡眠不足で辛い日々を過ごしているというのに。

私が夜中に血糖の番をしてる時も、父の大イビキや突然の無呼吸(奇妙な大きい音がする)によって、何度も浅い眠りを妨げられていた。母も姉も私も、何度となく父に病院へ行くように勧めていたが、結局定年するまで(定年後も)無呼吸外来へ行くことはなく、家中に地響きの伴う大イビキが続いていたのである。


この時、私が父にいきなり物を投げるほど怒ったのは、そんな中での「夜中に騒ぐな。勤行をするな」という要求だったからだ。

私は1週間前、最初の父の要求に対して冷静に応じただけで精一杯だった。2回目の要求は、腹に据えかねた。この時点でも、父の地響きの伴う大イビキは続いていたからだ。

父は2回目の要求では、私が努力をしていないと言うが、確実に努力をしていた。それが父にわからないのは、父自身のイビキがあまりに大きいからである。

(そもそも、最初の要求だって私の声が大きいというよりは、父自身のイビキと無呼吸で睡眠の質が低下していた可能性の方が高い。)

定年後は母の目もあるために、現役時代より酒量は減っていたが、既に内臓疲労が蓄積されているのだろう。今では少量のアルコールでも大イビキと無呼吸に陥る。

父に向かって抗議した私を、母はフォローしてくれた。

母「あなたはこれまで、どんなに勧めても病院に行かないで、ずっと大イビキを続けていたでしょう。この子はまだたった1週間よ。」

父「俺は2週間前に病院に行った! (無呼吸では)初診だったから、薬の効果を見ているところだ。もう少し待ってくれよ。急には無理なんだからさ」

母「ほら、あなたはいつもそうなのよ。何十年も経ってようやく病院に行って、しかも2週間たっても調整がつかない状態なのに、まだ1週間しか経っていないこの子の努力を認めない。待ってやろうとも思わない。あなたは自分にだけ、いつも甘いのよ」

更なる父の身勝手な主張に、母は私を代弁してくれた。

そして、ここでも父の異常性は発揮される。

この2人の会話の間も、父はずっと居間の中を動き続けている(逃げようとする)のである。しかし、そこに私の投げた急須の割れた破片が邪魔をして動けない。

父は「あーあ、割れて飛び散ってるじゃないか、お前どうするんだ。早く片付けなさい。早く。」と私に言う。

元より私にその話を聞く気はないが、間髪入れずに母が言う。

「片付けなくて良いわよ。今すぐじゃなくたって。あとで片付ければいいんだから。そんなことより、あなたこそ落ち着いて話を聞きなさい!」

ここまでしてようやく、父との会話は成り立つのだ。

あとは喧々囂々、体さえ誰も移動しないものの、逃げる父と追う私、逃がさない母の口論が続く。

私は父に言う。「勤行の声は小さくしているつもりだ。それを感じられない場合はもっと努力する。」それでも父は同じ言葉で責め続ける。「お前は1週間前にそう言ったじゃないか。その約束が果たされていない。だから勤行を止めろ」と。

私は続ける。「夜10時以降は全く唱えないようにしているけれども、それでもお父さんにとって意味がないなら、それももう、しなくて良いんだね?」と。

すると父は黙る。黙った後に「大体お前は生意気なんだ!」と、父にとってお決まりのセリフを言う。

(父はボキャブラリーが少ない。理系だからではなく、発達障害が強く疑われる状態のために、落ち着いて熟考したり内省する経験が少ないからだ。 過去にも夫婦の口論や姉との少しの口論で「そんなこと言うなら、俺にも考えがあるからな!」と言ってその場から逃げる事が多い。この手の漫画のようなセリフ。しかも実のない内容を簡単に言うところも、発達障害の特徴である。

もちろん、アスペルガー+多動性症候群+αという発達障害が疑われる父には、もう20年前から母が専門病院の受診を勧めているが、父はこれにも頑として行かない。本人に病識がない上に、化学に秀でて若いうちに出世したため、部下はフォローしてくれるし、気を使って父を持ち上げてくれる。結果、本人自身は悩んでいないのだ。だから勧められても病院へ行かない。家族や周囲の困り具合には「俺の頭が良すぎて、ついて来られないんだ」と本気で言う。父自身を含めて誰一人、救われない事態だ。)

父「大体お前は生意気だ。俺は親に向かっても、誰に向かっても物を投げた事なんてない!」と、今しがた私に大きなマグカップを投げつけようとして、母に止められた父が言う。

(ちなみに。私が投げた物の中で父に命中したのは煎餅の袋だけである。)

母は父の言葉に笑った。私も笑った。 

母が「あなた、してたわよ。(子供たちに物を投げつけた事はあったわよ)」と言うと、父は絶句して驚いた顔をする。「嘘だ。そんな事は1度もしていない」と言う。1度や2度ではなかったにもかかわらず、本人は何も覚えていないのだ。

これは父の発達障害に伴うジキルハイドな一面だ。父自身は自分の事を「とても良い人・良い夫・良い父」だと思っている。そして、会社の部下や同僚にも飲み会の度に「家族を愛している」と語っていたようだ。会社の人間たちは「こんなに家族思いのお父さんはいないだろう」と思っていた様子。(その後、部下の人たちを家に招く事があり、もてなした私たち家族と直接会って「何か違う」と違和感を思えた人は数名いた様子。)

しかし実際は、私も姉も母も、物を投げられた事は複数回あるし、私は脳機能に後遺症を負った後に蹴られた事もある。母は襟首をつかまれた事もあるし、38度の高熱を出して寝込んでいた時に「約束したじゃないか!」と怒鳴って無理に週末の買い物に連れて行かれた事もある。

その一方で、家族の中で誰一人として父に暴力を働いた人間はいない。私が父に物を投げたのは今回が初めてだ。そして30代後半のこの時点で、私が父に抗議したのは人生で2回目である。

基本的に私は静かだ。母と姉がいつでもハッキリ物を言うタイプなので、私は大人しくしている。(父と姉の激しい口論は見慣れた光景。3年に1回くらいある。父の異常性による母の苦しみ、姉自身の苦しみ、妹の苦しみ全てを代弁して父に訴えていた。)その分だけ、家族は私が10年に1度あるかないかの状態で抗議すると、かなり驚く。余計に父は逃げようとする。

今は姉が独立して家を出ている分だけ、次は私の番なのだ。体力がない上に立場の弱い私は、姉の頑張りには遠く及ばないが、遠慮なく抗議した。

最終的に私の夜の勤行については、最初に父に話した通り「私はさらに努力をするので、もう少し待ってもらう(もう少し様子を見てもらう)」事になった。

(元々、こんなに揉めなくてもいい話なのだが、父の身勝手な主張が強く繰り返されたために、より根本的なそちらの問題について大揉めする事になった。 姉と父の口論でも同じ。夫婦の口論でも同じ展開になる。 

父の物事に対する「逃げの姿勢」も一因だ。今持ち上がっている問題に対して、常に逃げの姿勢で身勝手な主張を繰り返すために、その父の根本的な問題について口論する事になる。)

【 父から見た家庭生活 】

お金回りと父の理解について。(サイト管理人の推測。)

父が事態を正しく理解しないままお金を出す理由(転地療養にかかる家賃などの負担や、キッチンの増設など)は、母の協力と、父方の祖母による非常に大らかな教育方針の成果という可能性がある。

必要性を理解しないまま出資する事になる父は、その分だけ心理的に要らぬストレスを抱え続けている。結婚当初からそれはあったが、父自身に自覚がないため、母からの離婚相談についても拒否し続けている。そして今がある。

(父自身は、自分を取り巻くトラブルは全て「俺の頭が良すぎて、周囲が付いてこれないから問題が起きるんだ」と本気で思っている。実際にそう家の中で話していた事もある。)

離婚に応じれば、父にとっても無理のない快適な生活が待っているというのに。ちなみに、母は子供を思って離婚に悩むが、父は子供の事よりも先に、自分自身の感情や社会的な立場・見栄のために離婚を避ける部分が大きい。父も子供の事を考えていない訳ではないが、優先順位が違う。

離婚に限らず何事も、状況による判断や必要性よりも、本人の感情が先行するタイプだ。 優しい人なのは間違いないが、現実認識のバランスが非常に悪い。 

たとえば、見た目を気に入ったからといって、自分の体には合わないサイズの服を着続けて、服を傷めたり、自分の体に傷をつけてしまうような状況だ。そして、問題については「自分の判断が悪いのではなく、この服が不良品だから悪いのだ」と考えて、合わないサイズの服を買い続けてしまう。 

普通は時々でも自分の姿を鏡で確認し、体に合う他のサイズを選んだり、自分の体形を整えたり、服を手直ししたりするのだが、そういう客観的な状況を確認・把握して適切に対処する能力や発想が、父にはないように見える。

父に正常な人間関係を作る能力や、現実問題を正しく認識する能力があれば、本人にとって「意味が分からないまま、お金を出す」という(ないはずの)ストレスを抱えなくて済むのだが、アスペルガー+多動性症候群+αが強く疑われる父には難しいようだ。

どちらかというと「理由がわからなくても、お金で解決できるなら(自分が)煩わしくないのでそれで良い」と思っている節もある。

その割に、家のメンテナンスなどの人間関係以外の問題についてはお金を出し渋り、不完全な仕事をして家を壊し、却って修理代などがかかる事を繰り返す。注意欠陥性の多動症候群が疑われる父は、漫画にそのまま描けるほどの、重度の不注意による危険なミスが多い人だ。

(その状態で大企業の中途採用として異例の出世が叶った理由は、研究開発の専門職として優秀であった事と、高いIQによって「中身を理解できていなくても、表面的には無難に済ませられる方法」を習得できたからだと思う。対外的には何とかなっても、本質が問われるプライベートでは多くの問題が起きる。)

【母の信心】

母は2011年に私が関西に引っ越した時も、たまに様子を見に来てくれた。そして、2015年に東海地方へ引っ越した時も、様子を見に来てくれた。

私の健康状態は大きく変わっているが、それでも母が私の家に来てくれた時の感想は、いつも同じだった。「ここへ来るとホッとする」とよく言っていた。

2011年の時は私の体が比較的健康で充実していたためか、「お前はこんなに大きな(ゆったりした)気を持っていたんだなぁ。」と嬉しそうに話して、「お前の部屋はよく眠れる」と言っていた。

母は「家にお父さんといると、まるでお化けと住んでいるようで落ち着かない。」と言う。これは、父の異常性による行動の影響だ。

父は家の中でいつもそわそわと落ち着きなく動き回り、突然大声を上げたり(原因は「何かやる事を思い出した」という場合が多い。大きすぎる声なのが問題だ。)静かにテレビを見ている時に突然、腕を持ち上げて、手をゆっくり握ったり開いたりを繰り返す。

そして、何の切っ掛けもないのに突然「誰かが(家の中を)覗いている」「見られている」と言って、家中の戸締りを確認したりする。これも非常にガタガタと忙しなく動き回って行う。何かに追われているかのような変な動きだ。

父の異常性や奇行は、挙げればキリがない。離婚を条件に何とか父の御授戒は叶ったが、勤行はしない。御講やお盆・お彼岸だけは何とか家族で連れて行っているが、奇行も異常性も改善しない。

(この5年くらいはようやく1日1回の夕の勤行はするようになった。母が毎日、しつこく言い続けることによって。それでも改善しない。)

他にもある父の異常性と問題について、住職さん(前任の住職さんの時代)に相談に行ったところ、執事さんは私が書いた父の症状(A4用紙1枚に箇条書きにしたもの)を見て、蒼褪めた様子で慌てて住職さんに伝えた。しかし住職さんからは「仕事が大変なのでしょう」という月並みな回答だった。

しかし父の異常性は定年後の今も続いているため、はっきりと言える。仕事の問題ではなく、明らかに父自身の問題だと。

そして。父の異常性による母への影響は、家の中にお化けがいるような落ち着かない感覚だけではなかった。

私が東海地方での療養中、通院のために家に帰り、久しぶりに会った母と 家の将来や仕事の展望についてお互い話していたところ、母は眼に涙を浮かべ始めた。

「お前と話せて嬉しい」と。「あの人(父)といると、気力がなくなる。将来について、どんな提案にもマイナスの事しか言わないから。何もできなくなる」と泣く事が何度かあった。

母の話はよく分かる。父といると、誰でも気力を失っていく。

父は外見上、楽天的で(=短絡的で)いつも笑っている印象だが、実は根暗で超マイナス思考の持ち主である。

結局のところ、父は「自分に少しでも何らかの協力や努力が伴う話は全て却下」「(発達障害により、状況を把握できず、他人の言葉や感情も理解できないために)自分が不足を感じていない状況で、事態を動かす将来の展望については、全て却下。面倒と感じる。」「妻が独立可能になるような仕事の話、主に事業計画的な話も、全て却下」するのである。

また、将来の事だけでなく、日常の些細なこと(夕飯の相談など)についても「今夜何が良い?」とか「頂いたお菓子、一緒に食べる?」という問いかけに対しても、間髪入れずに「いらない!」と変な勢いをつけて全て断るのである。

間髪入れない物言いは、本人が思う以上に人を傷つけるし、不快にさせる。母が何度説明しても、そのことが父にはわからない。

こういう日常が繰り返される事で、母は消耗していくのだ。

聞かなくても答えが十分予想される話については、父には話しかけないようにしたら良いと私は思うのだが、母はどこまでも異常性の強い父に対して普通に接しようとする。そして消耗していく。

父の異常性による様々な悪影響は、私も姉も学生時代から気付いていたが、母はそれでも離婚しない事を選んできた。そうである以上、気力を取り戻すには勤行と唱題しかないのだが、母は父に「勤行をしなさい」と勧めるだけで疲れてしまうようだ。母自身の勤行が減っていく。

言う方が疲れるというのは私もわかるが、それでも離婚や別居を選ばないのなら(父に気力を奪われ続ける以上は)母自身が生きるために勤行は必須だ。

私は母に勤行を勧めるが、少なくともこの数年は1日1回がせいぜいだったり、三唱だけになる日々が増えている。

母は「世帯主である父が勤行をする事が1番大事だ」と言う。それはそうだが、私は母が、母自身のために勤行をする事も同じだけ大事だと思う。

いくら世帯主であっても、主体性がない状態では問題が改善するには厳しく、まだまだ時間がかかると予想されるからだ。

しかし、父の問題が解決しなくても、私や母に健康や経済の力があれば縁を切れるはずだ。だから母にとっても私にとっても勤行は必須なのだ。

【母の対処:発達障害の父と、脳に後遺症を抱える娘の間で。】

このような父の状態(注意欠陥性の多動障害)と、視神経を含めて脳に複数の後遺症を抱えて、視聴覚情報の変化に極端に弱くなった私。

療養生活から私が戻ってきたため、ここから今日までの3年間は、性質が真逆の2人が同じ家の中で暮らす事になる。

母の負担は確実に増える。

目一杯になった母が何を優先するかというと、父を優先するようになる。

結果、ここから私には父が原因となる強い体調不良が引き起こされたり、(結果的に)父に妨害される事でトイレやお風呂にも自由に行けなくなっていく。対処を母に頼むが、なかなか実行されない状況が再開する。

(徐々に転地療養をする前と似た状況に戻っていく。 当時と異なるのは「時間はかかるが、確実に改善されていく」というところだ。母の理解は得られるという事。ただ、対処の実行が遅いという問題。対処が完了するまでの間に、私の病状は徐々に悪化していく。具体的にはこれから記載する予定。)

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この時点でもまだ、母かららの私の脳機能(後遺症)についての理解は30%くらいに感じられる。父は数パーセントくらいだろうか。

両親も姉も皆、私の転地療養は自立の一環であり、脳機能の後遺症による種々の問題は私の性格的な問題(遅く来た反抗期のようなもの)だと思っている。実際には、家族からの低血糖脳症への無理解と虐待によって、私は自分を守るために無茶を重ねて家を出るしかなかったわけだが…。

事実。脳機能への後遺症による無理解は、(家族は良かれと思って)私の歯磨きなどの身体メンテナンスを妨害し、上顎洞炎の発症を誘発した一因となっている。そして脳機能の後遺症によって前後不覚に陥り、恐怖の中にある私を無理やり外へ連れ出し(=環境を変化させ)、母と姉は動けなくなった私を強く攻めた上に(父は)足で蹴った。私が短期記憶を補うために、コミュニケーションツールとして筆談を頼むと、母は渡したペンを私の顔に向かって投げつけた。コントロールが悪かったのではなく、正面の近距離で私の顔に向かって投げつけたのだ。

他にも数え上げればキリがないが、私自身からの適切で具体的な対処方法の願い出を却下して、真逆の対処をしていた家族。それが現実だ。これらの過去を未だに家族は「この子が悪いのだ。性格の問題だ。廃用症候群だ。反抗期だ」などと本気で思っている。実際にそう口に出しているのを私は何度か聞いている。

この先も続く母の遅い対応は、異常な父親と重い後遺症を抱える娘の間で、母の中での問題認識と優先事項の判断の結果と言えそうだ。


【キッチンの完成と荷入れ】


8月、ようやくキッチンが完成した。改めて引っ越し業者を選び、祖父母の家(工場)に預かってもらっていた荷物を入れることができた。

4月下旬に引っ越して、5月下旬、遅くとも6月には荷入れの予定だったが、実際は荷入れまで4カ月かかった。工場に置いた荷物にはホコリと虫が多くついていたが、荷出しの準備に向かった母が箱ごと掃除してくれた。私は眼球使用困難症によって明るい場所にいられないため、引っ越し業者に渡す図面を作っていた。


キッチン完成から荷入れまでの間に、私は新しい部屋の窓に眼球使用困難症のための工夫として、カーテンボックスを検討していた。

元々は障子の部屋だが、この部屋の障子はとても大きくて規格外のサイズだ。前の自分の部屋なら通常サイズの障子なので、自分で遮光障子を張れた。しかし、キッチンを作った部屋の障子は1枚が縦3m近く、横2mほどある。これが2枚。そして、これよりは小さい障子が2枚。
大きすぎて自分で遮光障子を張るのは無理なので、遮光カーテンを使ったが、レールの隙間から光が漏れる。ベランダには屋根がない事もあり、隙間の光は眼球使用困難症にとってかなり痛い状態だ。そこでカーテンボックスを母に頼んだが、母は嫌だという。理由は「15年前に私が頑張って付けたレールを外したくない」という事だった。
そう・・約15年前、私のために母はレールを付けてくれた。だけど・・眼球使用困難症の悪化に伴い、通常のレールでは対応できなくなった現状では、カーテンボックスが必要だった。しかし、母の理解は得られなかった。(数ヶ月後、自分で黒い養生テープでレールの上を塞ぐことにした。それでも光は漏れて体は痛むが、ないよりはマシ・・・。)

荷入れ当日、私はシャッターのある1階で待機し、業者の立ち合いは父にお願いする事になった。作成した図面は父から業者に渡してもらう。(母は荷出しの後、後片付けなどで数日してから帰宅する予定だ。)

スムーズに進むはずだったが... ここで父が言う。私の書いた図面に、父の希望を入れてほしいと...。 具体的な理由を聞いても父は答えなかった。
荷物の整理上、一時的に2部屋を占拠する事になるのだが、仮置きとして使う小さな部屋(私の部屋だった場所)に入れるタンスの位置が気になるらしい。
私は布団や洗濯物を干す窓(ベランダ)を潰さない位置にタンスを置こうとしたのだが、父は窓辺に置いた方がいいという💧 洗濯物はどうするのかと聞けば、屋上に干すという。(物干し台も用意してないのに💧)

このタンスは仮置きであって、最終的にキッチンを作った部屋に全て納めるのだと話しても、父は納得しない。

謎だ・・・。祖父母の家に向かった母にも電話で相談したが、母も祖父母も、父の意図がわからない。いつもの事と言えばそうだが、父からは他にもいくつかの不思議な注文があった。(明確な理由を言わないため、この時の父の注文を図面に取り入れることはなかった。)

そして、荷入れの時には父に手伝ってもらいたい事があったのだが(重いキャスターと荷物の左右を入れ替える作業)、これを最初、父は拒んだ。具体的には「細かく理由を聞いて、父自身が納得すれば手伝う」という状態だ。

何事も一から十まで聞かなければ動けないのは発達障害の特徴だが、これは単純作業の話である。今見えているものについて、右と左を入れ替えるだけだ。大変なのは「引っ越し業者が休憩中の今、次の家具が入る前にやらなければ、左右を入れ替えるスペースがなくなる」という部分である。

(私が1人でそれをできない理由、手伝いが必要な理由は、短時間に一気に強い力を使う事で脳血管や血流への負荷がかかり、脳機能の後遺症が悪化するという理由がある。)

このような「荷入れの最中で時間のない時に、理由を事細かに聞く」というのは、父の場合「面倒だから。やりたくないから」というのが本当の理由だ。

(普段は理由を説明しても理解できないのが父である💧 化学については卓越した能力を持つが、日常に関してはどんな話も理解が遅い人だ。この時、父が私にらしくない質問ばかりをしたのは、明らかに「面倒なのでやりたくない」という感情が動機だった。)

母からの依頼であれば(離婚したくないから)どんな内容でも理由を聞かずに動くのが父である。もちろん、それだって父は本当はやりたくないので、ミスや事故の多いやっつけ仕事だが。

子供の私からの依頼の場合は、自分にとってメリットがないと感じられるからやりたくない。忙しい荷入れを手伝ってやろうとか、病気で体の不自由な子供を手伝ってやろうという思いやりもない。正確には、手伝う必要性や私の病気・病状について説明しても、理解できなかったり、聞いた傍から忘れていくために「手伝う必要性を理解できない」のだ。その結果、父自身の「自分にメリットがない。面倒だ」という感情が優先されて前述のような事になる。

(聞いた傍から忘れていくというのは注意欠陥性多動症候群の影響が強く、それが発達障害に輪をかけて、父の物事の理解と記憶を難しくしている。 過度の飲酒による後天的な脳への影響も大きいと思われる。忘れるという面があると同時に、落ち着いて人の話を聞かないので、そもそも覚えていないという部分も大きい。)

父の話はキリがないので割愛するが、まぁまぁ、何とか荷入れは完了した。


【父の癌と大腸憩室】

この時期、父は大腸の検査をした。理由はかねてからの体臭がよりひどくなったため。検査の結果、11個~13個の大腸憩室と、小さな悪性の腫瘍が見つかった。

腫瘍はすぐに切除して、1年後の再検査を勧められた。大腸憩室については炎症を起こしていなかったという事で、特に処置はなかったそうだ。

父は40代後半くらいから、時々妙な臭いを漂わせていた。家の中でも外でも、急に何かの拍子に父の方向から妙な・・・ 内臓や肉が傷むような臭いが瞬間的に漂ってくるようになった。 しかし、一瞬感じる程度の臭いなので、最初は母も姉も私も気のせいだと思っていた。

しかし、60歳を過ぎた今ではトイレで似たような妙な臭いが強くするようになっていた。臭いの種類まで変わってきて、ただ臭いという状態ではなくなってきたので、父に強く検査を勧めたのだ。

過去にも何度か母が大腸検査を勧めていたが、睡眠時の無呼吸と同様、本人に問題意識がないために検査に行かなかった。しかし、最近になって父は便秘や腹痛に悩む事が出てきたために、ようやく検査に行った次第だった。

今回、悪性の腫瘍は見つかったが、父はタバコを吸わない人だ。若い頃は吸っていたらしいが、マイコプラズマ肺炎に罹ったことで禁煙し、以降は今日まで吸っていない。このため、現役時代からの過度の飲酒の影響が考えられそうだ。 

大腸憩室は通常、食事に食物繊維が不足すると発生しやすいらしいが、父は繊維質が大好きな人だ。そして、発達障害も相まって普段から無駄に動き回る人であり、運動量は十分だ。

それなのに…通常は発生しても1個~3個くらいの場合が多いと言われる大腸憩室が10個以上も見つかる原因は何か。

考えられる原因は、過度の飲酒に加えて1日2時間を超えてトイレを占拠する生活にあると思われた。父は昔からトイレを占拠する人だった。新聞だけでなく、小説・歯ブラシ・髭剃りを持ち込んで、朝晩それぞれ1時間以上もトイレを占拠する生活を長年続けていた。父のトイレは元々長かったが、単身赴任になった頃からエスカレートしたようで、それを定年後の現在まで続けていたのだ。

便座に座り、腹圧を長くかけ続ける状態は腸に負担となる。これまで家族から何度もトイレを占拠しないように言われていても、延々と続けた結果のように思えた。

父は検査の結果、腫瘍が悪性だったことについてショックを受けた様子だったが、大腸憩室については何とも思っていない様子。そしてこの後もまだ、延々とトイレに長居を続ける。

🌴  🌴  🌴

この後、私のトイレ問題へ発展する。(私が家の中でトイレ難民となる。)

家には1階と中2階にトイレがあり、父は中2階のウォシュレットのトイレを占拠していた。私と姉(学生時代)は2階に部屋があるため、父の占拠によって、いつも1階まで降りていく必要があった。そして、私の体調が悪くて階段が危険な時は、同じ中2階にあるお風呂場で用を足す事もあった。

今では眼球使用困難症によって、窓のある廊下・階段を歩くのが困難で、大きな窓のある風呂場にも入れない時は...父と数回の喧嘩の末(母に1階と中2階の便座を交換する相談をしても理解を得られず)私は増設したキッチンで代用するしかない事態が起きる。

(2021年10月現在、母がようやく1階にウォシュレットを入れてくれた結果、私はようやくまともにトイレを使えるようになった。2年かかってようやく・・・✨)


【父のミスと生命の危機】

8月下旬に荷入れが終わって9月。私は目や脳の疲労と回復のバランスを取りながら、段ボールの片付けに入っていた。部屋には段ボールが多かったので、私は一時的に1階に寝ていた。(居間の隣の部屋。)

この頃、父の悪意(嫌がらせ)なのか発達障害による無理解やミスなのかわからない、困った事が頻発していた。家の中、特に廊下の窓のカーテンを開けっぱなしにされて、眼球使用困難症の私が部屋から出られない(廊下へ出られない)事がよくあった。

父には眼球使用困難症について何度も話しているが、理解を得られない。挙句、父が昔に使っていたソーラー腕時計(画面が割れて壊れ、何年も使っていない腕時計)に光を当てたいからという理由で、閉めてあるカーテンを開けっぱなしにされる状況である。(その後、父自身は長時間 外出してしまうのに。)

お陰で私は部屋から出られない状況となり、母に電話して助けてもらう事がよくあった。この時、キッチンは完成していたが、まだ段ボールが多く積まれていて、住める状況ではなかった。

(脳機能の後遺症によって環境の変化に弱く、物の形の把握にも時間を要するため、段ボールの片づけはかなりの日数がかかった。)

🌴 🌴 🌴

そんな日々の中で、重大な問題が起きた。ある週末、両親が車で買い物に出かけた。1時間~2時間ほど経った頃、私は隣の部屋で低血糖を起こした。そこで、いつも家の中でも持ち歩いている手持ちの補食を摂ったが、量が足りなかった。追加を取りに行こうと隣の居間へ行こうとすると、明るくて居間へ入れない。両親は、シャッターが全開の状態で出かけてしまったのだ。

(後に聞いたところでは、眼球使用困難症の私が一人になっても困らないよう、外出に備えて母が閉めたシャッターを、数分遅れて家を出た父が 出掛けにわざわざ全開にしていったらしい。

私は補食の他に帽子とサングラスも持ち歩いているが、9月上旬の太陽は強く、眼球使用困難症にとって太刀打ちできるものではなかった。

私は困った。インスリンの自己分泌がない1型糖尿病は、インスリンポンプを停止すれば(食べなくても)勝手に血糖値は上がる。しかし、既に体に注入済みのインスリンは、向こう2時間は効き続ける。 手持ちの補食を食べてなお、下がる状態にある今の血糖値では、補食の追加がない状況は危険だ。

身体機能だけでなく、脳機能が保てる間に手を打たなければならない。脳に後遺症を抱える私の場合、通常の低血糖よりも猶予が少ない。買い物中の母に電話をしたが、週末の道路は大混雑で渋滞しているという。帰ってくるのに2時間以上はかかりそうだ。

私は焦った。現状、意識はあるので救急車を呼ぶのは躊躇われるが、時間の問題だ。悩みながら警察に電話をしてみた。低血糖の事情を話した上、家の鍵を壊して入室し、居間のシャッターを閉めてもらえないかと相談する。警察は快く引き受けようとしてくれた。(御両輪にカギを壊す許可を得られれば、すぐ行きます! との事だった。)しかし・・・ 最寄りの警察署からパトカーで来るにあたり、やはり週末の大渋滞で2時間近くかかりそうだとの事。時間的に両親が買い物先から戻るのと同じくらいになりそうだ。

低血糖の状態から考えると、両親も警察もどちらも遅い。しかし、他に手がない。最終的に警察に依頼するかどうするか。電話しながら悩んでいると... ふと、目の端に防災用の袋が留まった。車検のために、普段はトランクに積んでいた防災袋を部屋に運んでいたのだった。

👀もしかして・・・!

私は急いで中身を確認すると、防災用のクラッカーが入っていた! 日切れだったが、缶詰のクラッカーだ。心配ないだろう。量も豊富にある。たとえ後から食あたりを起こすとしても、両親が戻るまでの血糖保持に使えれば十分だ✨

警察と電話をつないだままクラッカーを見つけた私は、そのまま事情を話し、警察に感謝を伝えて救助の依頼を取り消した。そしてクラッカーを食べながら母に電話し、補食の確保と無事を知らせた。

🌴 🌴 🌴

夕方、両親が帰ってきた。そして母は、私の無事を確認した後すぐに再び出かけた。私用の万が一の補食を多目に買いに行ったのだ。私がいつ、1つの部屋に籠城する事になっても安全が確保できるように、家の中のすべての部屋に、一定量の補食を確保しておこうと考えてくれた。

一方、父は帰ってきても私に一言もなく、居間に座る私から逃げるように隣の部屋へ行く。母に口酸っぱく言われていた通り、夕の勤行を始めた。 しかし・・ 居間との境にある襖が開いたままで、LED電気をつけている。私は体が痛い。ふすまを閉めてもらうように何度も声を掛けたが、父は無視を続けている。 私は困って、少しでも暗い台所へ移動しようと動いた瞬間、バン!と壊れんばかりの勢いで、隣の部屋とのふすまが閉められた。

その後も、父からは謝罪も安否を確認する言葉もない。その上、廊下のカーテンを開けっぱなしにしたり、壊れた時計のために私の家の中での往来を妨害する事も止めなかった。

廊下のカーテンについて少し改善が見られたのは、この約3か月後。母からの何度目かのお説教があってからの事だった。(それでも、今も壊れた時計のためにカーテンを開けっぱなしにする事がよくある。 最終的に、私は1型糖尿病と運動不足による血栓を恐れながらも、自室に籠城するしかない日々が続いている。気休めに青竹を踏みながら・・・。)

母はこれまでも父に、私の眼球使用困難症とカーテンの必要性について話してきたが効果がなかった。最終的に「あの子はね。眼球使用困難症の状態で家の中でカーテンを開けられたら、あなたと違って、他にどこへも行くことができないのよ!?」という言葉で、ようやく(カーテンについては)少し改善した。


【この時期の信心】

御講へは引き続き、毎月家族で参詣していた。勤行と唱題も日々継続している。家族との同居で脳機能に負荷がかかり、脳内の酸欠が悪化したので、5分~20分ずつ休憩しながら勤行を続けていた。

添書登山についても毎月1回参詣していた。母と2人だったり、母・姉と3人だったり、自分1人だけだったり。母と姉の仕事のスケジュールに応じて色々だったが、私自身は毎月参詣していた。

父の問題発言(7月)や問題行動(9月)の時は、末寺へ行って勤行をするとともに、偶然居合わせた班長さんや住職の奥さんに話を聞いてもらった。

(住職さんからは何の話もなかった。アドバイスも励ましも、何もなかった。 御講で少し、関連のある昔話を聞いたくらいだ。 道教の父が息子の法華経に反対した話。)

父の9月の問題行動の時は、たまたま数日後に私1人で行く添書登山が決まっていた(申し込みを済ませていた)ので、下山後にビジネスホテルで2日ほど、気を落ち着けるために滞在した。

この時、私を心配した母は「何日でもいい。泊って気分転換しておいで」と言ってくれていた。ありがたく、もう数日泊っていきたかったが、緊張しきった神経にはそれができなかった。

ホテルに滞在中、ずっと考え続けていた。「こうしていても(泊まり続けても)何も解決しない。何とかしなければ・・・でもどうすれば・・だけどこうしていても、何も・・・。今すぐ、住み込みで働けるような体力や健康は持っていないし…どうすれば・・」そんな堂々巡りを続けるだけだったからだ。帰りたくないが、致し方なく帰るしかない。何日泊ったところで、それは変わらない・・・。そんな訳で、2泊で帰る事にした。


【その後の状況。】

10月~11月。ようやく部屋の段ボールの片づけが完了し、リフォーム後の部屋に住めるようになった。発達障害や多動性症候群の疑われる父とは、なるべく顔を合わさないように気を付けて生活を始める。

それでも、洗濯など水回りで鉢合わせすると私は痛い目を見た。

(ここから約2年後の2021年秋~冬。現在、一部は改善されたが8割方は同じなので、極力、私は部屋から出ない事を徹底せざるを得ない状況だ。)

例1

私が仕掛けた洗濯物が完了したので、干すために洗面所へ向かうと、歯磨き中の父がいた。洗面所は狭いので、一時的に場所を譲ってもらうように頼んだら、父は不機嫌に怒りだす。

「こんな時間に洗濯か。寒いのに全く。昼間にやれば良いじゃないか」 

父の感覚はおかしい。洗濯は暑い・寒いを理由にやらなくて良いものではない。何より、窓が多い水回りで眼球使用困難症の私が洗濯できるのは、夜に限られる。夜間で、就寝する家族に迷惑のかからない時間に洗濯するとなると、父が水回りを占拠する時間に遭遇しやすくなる。

普段の洗濯は母に頼んでいるが、この日はちょうど、自室で使っているキッチンマットに調味料を大量ににこぼしてしまったため、急いで洗う必要があった。(時間が経つと、派手な汚れが落ちにくくなる💧)

また、父の歯磨きは長い。30分はかかる。(この頃、父は朝晩にトイレと洗面所を占拠し、水回りから出てくるまでに毎回2時間かかっていた💧)その時の私の洗濯は、やや厚いキッチンマット1枚だ。すぐに取り出せる。 しかし、それでも父は「寒いのに・こんな時間に・明日やれば」などと文句を言う。

もちろん、理由を話しても父は悪態をつくだけだ。何も理解しない。

例2

これは悪質なもの。洗濯でもトイレでもなく、ただ偶然に廊下で居合わせただけの状況で、父はいきなり天井の電気をつける。(この行動は発達障害や多動性症候群の影響が強そう。)これにより、眼球使用困難症の私は目に激痛が走ってうずくまる。それは開いた目に閉じたハサミを突き刺し、そのまま目の中でハサミを開くような痛みだ。酷い頭痛も伴う。この場合の頭痛は群発頭痛とは少し異なり。頭の上から(目の上から)太いキリを刺すような痛み方だ。

父の悪質さはここからだ。

声も出せない痛みにうずくまる私を見て、父は言う。「おい。どいてくれ。・・・頼むからどいてくれ。動けないじゃないか」 そして最終的に父は、私の体を脚で押しのけて移動する事も何度かあった。

その後は母に文句を言う事もある。「あいつが退かないから、廊下を通れなくて困った」と。

こういう父自身が原因となって起きる問題の時に、父から私の安否を確認する言葉は聞いた事がない。私の感じる痛みがどういう物か、回復にどれだけ時間がかかり、その間の血糖測定やインスリンポンプの管理が適切にできない事などの問題を話しても、まるで理解しない。(その瞬間はわかったようなフリをするが、本当は何もわかっていないので、同じ行動を繰り返す。)

これは父の悪質さなのか、異常性なのか。どちらにしても難病を複数抱える私が、どうやって身の安全を守るのか】という問題が生じている。トイレに行く事さえ命懸けだ。


例3 (これは特に翌年、2020年からより顕著になる。)

トイレの問題。先述のように、トイレは父の長居のために色々な問題が起きている。

朝晩に父が占拠中、私がトイレに入ろうとノックをする。こういう時、昔は(私が小中学生の頃は)すぐに出てきてくれたが、今では「はいはい」と返事をしたまま10分は出てこない。

私が1回まで降りられる健康状態を保てない時は、10分も待てない。その上、高校生からのようにお風呂で済ませようと思っても、今では眼球使用困難症のために 窓の大きい(明るい)風呂場に入る事ができない。

再び早く出るように父に言うと、父は大きなため息や、わざとらしい大あくび、時に文句を言いながらウォシュレットを使い始め、ようやく出てくるのだ。(さっさと紙で拭いて出てくれば良いものを、わざわざ時間のかかるウォシュレットを使うあたり、悪質だと思う。)

苛立った私が段々と強くノックをしたり、直接ドアを開けようとすると、父は足を踏み鳴らして怒った。

他にも父から「お前は中2階のトイレで大便をするな」と言われ、私は毎回、大便の度に母に電話をして1階の電気を切ってもらい、1階のトイレへ用を足しに行く事になるなど酷い事が繰り返された。そんな中で、私は母にトイレの便座を交換する提案をしたが、却下される。

(中2階のウォシュレットを、1階の普通の便座と交換する提案。父は母にだけは遠慮をして、母が近くにいる場所では 長居の時間が少し控えめになる。 私は体調が悪い時でも安全にトイレを使用したい。)

母が却下する理由は「便座のタイプが合わない気がする」という事だった。私がそれなら業者に見てもらえば良いと言ったが、母は何もしなかった。 自分で業者に問い合わせたところ、残念なことに業務多忙で予約が取れない状況だった。(もし予約が取れた場合でも、明るい場所で業者の作業に立ち会えない私は、母に協力を頼む事になる。この時、母がそれに応じてくれたかどうかは未知数。)

結果、私はトイレ難民となり、自室で用を足す事が増えていく。

私は女性で、男性よりもトイレの回数が多い。その上、1型糖尿病のために健康な人よりも多尿・頻尿の傾向がある。トイレの悩みは大きかった。

翌年の夏、母が災害用の簡易トイレを私のために買ってきた。自分の部屋で使えと。これで大便も安心だと。(どうしてそうなるの!? だから、まずは便座を交換するのが先だって! 他にもひどい話がある💧 私はさすがに母に皮肉を言った。詳細は後述する。) その後も紆余曲折の末、ここから約2年後の2021年10月にようやく1回にウォシュレットが付けられて、(母のお説教もあり)父は1階を使うようになった。私はそこでやっと、まともにトイレを使う事ができるようになった。


🌴この人生・この状態における信心の考え方(サイト管理人の場合)🌴


因果と転生を説く仏教では、私のこの事態も、そもそもタイムラグのある話。現世の行動を、同じ現世の内に結果として及ぼすことは、実はそもそも難しい事だと伺える。

現世で信心を頑張っていても、自分の業が深ければ、あるいは魂の志が高ければ、そう簡単には 現世の理屈通りには解決しない可能性も...残念ながら、あるかもしれない。

因果と転生、魂の世界が前提=体であり、現世は影である以上、現世の理屈は通らない。2つの世界を個別に見てしまうと、それぞれの世界のルールは、たぶん少し異なる。このジレンマ。

わかってはいるけど、個人的には... 全てが因果なら、現世の理不尽や苦境こそが因となる面もある気がする。困難な経験を活かして、良い結果を(今生の将来か、来世に)生む。そもそも、何らかの良い結果を現世に・今生に生もうとして「自らが転生前に選んだ、困難な因」という可能性。

(魂は全て、成仏を目指して転生している以上、

最終的にはどんな因果も、どんな人生もそうなってしまうけれど。^^; )

転生は多いので「どれが因で、どれが果か。」という卵と鶏の話になるけども💧 魂レベルで何かを志したなら、因果と転生を使って長いスパンで果たす事になりそうだし...。

日蓮大聖人は謙虚に、自分は前世で悪い事をしたから、他の生命を奪う漁師の元に生まれたとか色々書いてるけど、私はそもそもこれ・・・ もうちょっと解釈の余地があると思う。実際のところ・・という面で。。

大聖人には、釈迦から末法の法華経弘通を託された時点で、魂に高い志がある。(すでに菩薩だったので、衆生救済の志は高くあるけど。)そして、弘通において適切な時期と場所に生まれる必要があって、結果的に、殺生を仕事とする漁師の元に生まれたと。 僧侶として得度するには、恵まれすぎても、恵まれなさ過ぎても叶わなかったはずだ。大聖人も人生、幕府に追われる以外にも色々あっただろうけど、体を持って生きる困難は、どんな人も変わらない。

(肉体を持つという事は、体力次第、体調次第で、本来の良い人間性や良い能力を活かせなくなるという事。どうしても限界が生じるという事。仕事や育児・介護などの過労だけではない。 古い言葉だが、成田離婚もその1つだw 幸せな新婚旅行でさえも、大きな環境の変化に体力・気力が消耗しすぎれば、互いを思いやる余裕が減っていく。それが極まると喧嘩になり、帰国の成田空港で離婚が決まる事態になるw 

肉体を持つという事は、大病や大怪我、日々の食糧確保や体のメンテナンスだけが大変なわけではない。健康でも、肉体を持っていることは大変なハンデなのだ。肉体を持って生まれてきた時点で、すでに全員が魂レベルで負け組であると同時に、勇士のチャレンジャーであり、とても立派な志を持っているのだと私は思う。)

大聖人ほどの大役や使命・志はなかったとしても、私たちも何らかの志があって転生している以上、今生に起きる困難の全てを 前世の悪業の結果として嘆く必要はないし、今生の信心の良い結果が簡単に現れなくても、焦る事はないと思う。今生の人生全体という枠で見れば「現在の信心ありきの今生ではなく、前世の人生ありきの今生」なのだから。

(つい無意識に、現在の信心ありきで考えてしまうので、信心が嫌になるw 

でも実際は、正法に縁のない「前世ありきの今生」が先。)

因果と転生の原則から見ると、日蓮正宗で信心を続ければ現世安穏になるっていうのは、 そもそもが、チートな話なんだと思うょw だから、三障四魔が競うって・・そういう事じゃないかなぁと...w 菩薩たちが喜んだ(法華経によって即身成仏が叶い、歴劫修行をしなくて済むようになって喜んだ)って、そういう事なんじゃないかなぁと...w

ついでに、現世安穏っていうのは... 今生の安穏って訳じゃない可能性さえ・・・💧

本当は果てしなく転生を続けるしかないほど タイムラグを重ね続ける必要があるのに、日蓮正宗の法華経で一気に近道できるっていうのはチート的なんだょ。たぶんw

私は... 持久走・耐久レース・根競べなら、最後まで負けないょw (ФωФ)フフフ・・・ 他にできる事もなく、アトがないからねw このレースを完走して、必ず成仏して、死後にその先を見るのです。👀✨ 今生はどういう意味があったのか、そこまでして叶えるべき成仏は、何のためなのか。もっといい手はなかったのか。知る方法はないのか。知らせる方法はないのか。今生が大変な分だけ、知りたい事は山ほどある。叶えるためにも、まずはリタイアせずに完走するのです。( ̄ー ̄)ニヤリw

何かというとダメ出しをするのが今の日蓮正宗ですが、そもそも、ダメだらけの衆生だから末法に生まれてるんですw 末法の荒凡夫って、そういう事じゃないのかと・・。そんな荒凡夫でも成仏できるっていうのが、法華経ってことなのだし...。

なので、精神論でダメ出しばかりする話って、(信徒の身では)あまり気にしなくても良いと思うw サイト管理人は、まずは、その時々の自分のできる精一杯の範囲で「生涯、全うする事」を第一に続けてます。体調が悪すぎて続けられなくなりそうなときは、精一杯を少し緩めますw 状況が改善したとか、物足りないとか、良くも悪くもやる気が湧くきっかけを得れば、また精一杯やりますw


良い事があればやる気になるけど、そういう事って中々起きない。自分を振り返ると、残念ながら「状況が悪くなる、悪いままなので、信心をせざるを得ない。他に手がないから」という部分が大きい。

良い事ももちろん、あるんだけどね。^^; ただ、人生全体で見た時にバランスがね… どうにも・・・ 悪い事の方が大きすぎて・・・💧 その分、体に対する功徳もわかりやすくて、自分なりに続けられる信心の確信を得られるわけだけど… 何が幸せなのかねぇ…w 魂的には幸せなんだろうけどね?w



あw そこで「サイト管理人にはできても、私には無理!」と思ったアナタ! 大丈夫ですょw サイト管理人を含めて、末法にはそういう衆生が多いってこと、釈迦はちゃんとわかった上で法華経を遺していますからw 日蓮大聖人はそれをちゃんと発掘して、御本尊様をあらわし、住職さんによる御授戒によって、私たちに金剛法器戒を授けてくれています。

金剛法器戒 は、他者が破ろうとしても破られる事がなく、たとえ自らが破ろうとしても、決して破れない強い戒律だそうです。このため、自分から退転しても、将来、あるいは来世のどこかで必ず再び正法に巡り合い、成仏への信心修行を再開する事ができるそうです。というか、本人が意識しなくてもその流れに入ってしまうらしい・・・w

退転を考える人にとっては、なんともお節介な戒律ですねw しかしまぁ、一度日蓮正宗で御授戒を受けたのが運のツキですw 諦めて下さいw そして、安心してくださいw 安心して、気負わずゆったり、水の信心で生きていきましょう。

そして、耐えられずに退転したなら、それはそれで。御本尊様はいつでも、修行の再開を待っていてくれます。同じ今生で再びこの信心を志した時は、気負わずに再びお寺に立ち寄ってみてください。たとえ退転しても、過去に信心をしていた徳は消えない(後退する事・なかった事にはならない)と言われています。

退転するほど辛かった信徒さんの人生と信心が、今生でも来世でも、次回こそは続けやすくなるように。続ける事で自分なりの信心の確証を得られるように、サイト管理人は願っています。 

今の正宗は、ダメ出しと頑張れと言うだけで。退転するほど、退転を考えるほど辛い人生、辛い信心という部分を人間として思いやる言葉がない。それは信心を続け、成仏を目指す上ではとても大切な事で、改善の必要があると思う。

詳細に全てを聞いたり、全てに応えようとしなくても、思いやる言葉の一つがあれば、人は自分で未来を拓く気力と行動を作れるのだから。 

「あなたも大変だねぇ。そりゃ辛かったよねぇ。わかるよ~その気持ち。そんな中であなた偉いよホント、凄いよ。よくやってるよ。」

「私もね、色々あるんだけど・・もしよかったら、お寺でまた会おうよ。唱題してお茶しようよ。」 

そんな感じで良いんだ。僧俗関係なく、そんな言葉をお互いに掛ける場面がもっとあって良いと思う。信徒同氏はたまに聞くけど、お坊さんからの声掛けが本当に少ない。

そして、人間として思いやる言葉がない事は、邪宗の付け入る隙を作る。正宗は、その重大性を認識するべきだ。)

法華守護の諸天善神は、法華経の行者(日蓮正宗の御本尊様にお題目を唱えたり、折伏する人)を守ると言われています。法華経の修行の励みとなるよう力を貸してくれるはずですので、まだ退転していない人は、 御本尊様へのお題目三唱と、午前中に東を向いてお題目三唱だけでも続くと、どこかで信心の励みとなる切っ掛けを得られるかもしれません。サイト管理人も、応援しています。 

大丈夫です。良い事も悪い事も、自然と信心の肥やしになっていきます・・・w サイト管理人だって... 人生いろいろあり過ぎて、最早「のしイカ」同然ですw それでようやくこの感覚になりましたが、もしかすると・・過去世で何回か、正宗に触れては退転や大謗法を繰り返したかもしれないんですw

でも、そんな前世の事なんて覚えてないので、今生ではお構いなしですw 必要がないから前世を覚えていないのですから、何を考えようとも、ひとまず今生で正宗の信心を全うする事を第一に、続けています。

ま、管理人の場合は病気の体に良い効果(功徳?)が現れるので、 続けている面も大きいんだけど…。全ての信徒さんが自分なりの確証を得られるように、続けられるように願っています。

【年末年始・身内のゴタゴタ】

12月30日。この年、最後の燃えるごみの収集があった。このゴミ出しについて、私は父と喧嘩した。トイレ問題ほど大きな問題ではなかったが、日々の積み重ねに私の堪忍袋の緒が切れた。それ以上、大きく揉める前に私は家を出て、母方の祖父母の家で年を越す事にしたが... そこで泣きっ面にハチの目に遭う。 

日蓮正宗に厄の考え方はなかった気がするが、これは年末の厄払いかと思えるほど強烈だった💧

🌴 🌴 🌴

【父とのトラブル】

年末の最後のごみ出しは、収集時間に迫るまで大掃除に精を出したいものだ。しかし、父は違う。時期を問わず、地域のルールも問わず、自分の気分次第でゴミを出す事を徹底する。問題は、それを家族にも強要する事だ。

発達障害と多動性症候群の特徴をフルに発揮して、忙しなく「ゴミは? 持ってくぞ。ゴミは? 早く出せ」と何度も言うのだ。

ごみを出してくれるのはありがたい。だけど私はこの時、自分で出せる状況であるのに、父のペースで事を進めようとする。強要するように何度も忙しなく聞いてくる。夜7時の収集地域なのに、午後1時や2時からこう聞いてくるのだ。

父はこの頃、普段から1時や2時にゴミを出していた。私はいつもゲンナリしながら「ありがとう。自分で持っていくから大丈夫だよ」と答えていたが、この日は年末最後の収集日。そういう日にまで同じことを繰り返し、さらに家族に強要する父。私は堪忍袋の緒が切れた。

父「おい。ゴミ持ってくぞ。」

私「ゴミの取集は7時だよ。まだ1時。」

父「それでゴミは? おい、おまえの分も持ってってやるぞ。早く出せ」

私「ゴミ収集は夜の7時!」

父「生意気なんだよお前は! 持ってってやるって言ってんだよ!」 (足を強く踏み鳴らす)

私はここで「非常識なんだよあんたは!」と言いたかった。実際は言わなかったが。

ここで私が、TPOのわからない父に合わせて1から10まで説明すれば(「今日は年内最後の収集日で、大掃除の日だから、収集時間に近づいてから出すよ」など)結果は違ったかもしれないが、私はもう精神的にも脳機能的にも限界だった。

それ以上、互いに話す事はなく。父は(ごみを出した後)普段通りの身勝手な買い物に出かけた。私はその隙に荷物をまとめて家を出た。このままでは、無意識に包丁で父を刺しかねないと思ったからだ。頭に血が上るのではなく、頭から冷水を被ったような感覚だった。妙に冷めた感覚なのに、ボーっとしながら刺してしまいそうだった。

年内最後の仕事で外出していた母にメールで簡単に経緯を伝えて「祖父母の家に行く(そちらで年末年始を過ごす)」と連絡した。母からはすぐに「わかった。気を付けて行ってらっしゃい! もうじき仕事が終わるから、○○で会おう」と待ち合わせの返信が来た。そして私の話を聞きながら、見送ってくれた。

母から事情を聞いたのか、姉からも連絡がきた。うろ覚えだが「事情は聞いた。落ち着け、まず家を出ろ。刃物は持つな」そんな内容だったと思う。大丈夫だよ、お姉ちゃん。 私もう、東京駅だから✨👜🐧✨

姉はこの頃、仕事がとても大変だったので、私はあまり連絡を取っていなかった。しかし、たまに電話で母から伝え聞く父の問題行動と私の状況に「私、そっちにいたら(お父さんを)包丁で刺しそうだ」と母に話していたらしい。

即座に「家を出ろ。刃物は持つな」と返信がきたあたり、姉妹の以心伝心かw 私が父に殺意を持ったのは9月からだったが、無意識に父に刃物を向けそうだと思ったのはこの時が初めてだった。しかし、母の話によると 姉はもっと前からその状態だったようだ。

🌴  🌴  🌴

東京駅についたころ、日はとっくに暮れていた。体の状態が悪くて(高速の)新幹線に乗れない私は、普通電車に乗って東海地方の祖父母の家を目指した。

時間的にも体調的にも当日中に到着する事は無理だったので、途中下車をしてビジネスホテルで一泊した。翌日31日に再び普通電車に乗るが、なかなか距離がある。何度か途中下車をしてホームのベンチで休みながら、何とか祖父母の家へ向かった。

この時、実は少し迷っていた。

新幹線を使えない中での遠距離の移動は体調的に厳しい。その上、祖父母は高齢だ。あまり気を使わせるのも問題だ。(私は健康な体ではなく、祖父母の家事を手伝える状況ではないのに、世話だけをかけてしまう。)ビジネスホテルで年末年始を過ごした方が良いかもしれない。父を無意識に包丁で刺す事を避けるのが第一の目的で、それが達成できれば御の字だ。しかし・・・年末年始のホテルは、満室だったり高額だったりするのでは・・・。

そんな風にあれこれと迷いながら、祖父母の家に向かう事にしたのだった。

(この時、迷わずダメもとでお正月のホテルの空室と料金を調べればよかった、ホテルで年末年始を過ごせば良かったと、後で死ぬほど後悔する事になる💧)


【カオス、始まる】

12月31日 午後6時頃。ようやく祖父母の家についた。(前日に母も私も連絡は入れていた)この日は、例年は来ない叔父さん一家(従妹弟たち)も来ていた。

私は移動でだいぶ疲れていたし、頭痛などの症状も強くなってきたが、忙しい年の瀬に急な来訪となった私のために、祖父母は食事から寝床まで準備してくれていたのだ。気締めとして、有難く同席した。

久しぶりに集まった身内と、楽しく食事をするはずだったが... 食卓での会話が、妙な方向に進み始めた。

叔父さんが、私の母や姉を言葉で叩き始めたのだ。 しかも内容がおかしい。

私に向かって、母の目が大きすぎて変だと言ったり(「目がこ~んなで、ぐりぐりの目! こ~んな!」と、大きなジェスチャー付きで何度も言う。祖母の遺伝で、叔父さんだってかなり目が大きい。祖母はかなりの美人だ。)

姉が小学生の頃に祖父と海水浴で遊んだ思い出話を「本当に馬鹿らしいと思ったよ、まったく!」と鼻で笑う。

当時、私も海水浴に一緒に行ったが、姉と祖父は危険な遊びをしていたわけではない。小枝で砂浜を突くような遊びをしていただけだ。(私は祖母とレジャーシートでのんびりしていたw)何より、小学生の孫と祖父の遊びに、馬鹿らしいも何もない。

その内に、私の家の車(車種・メーカー)にまでやっかみ始めた。

叔父さん一家は翌日の元旦も祖父母の家に来たが、その日は私に対してもおかしい事を言っていた。私の病気はどれも、生活習慣など自己管理とは関係のない経緯で発症した病気だが、それをさも自己管理の問題だと言うような発言が繰り返された。訂正しようにも、お酒の入った叔父さんは止まらない。

さらに悪い事に・・・ 祖父母はそんな叔父さんの暴走を止めず、手をたたいて笑って聞き入っていたという事。

タイミングが悪いにもほどがある。私自身が脳機能のダメージで即時応答が難しい状況であり、今は更に移動の疲労で眼球使用困難症の状態も普段以上に悪い。居間の白い照明による痛みに耐えて座っているのが精一杯の時に、この状況である。私自身についても、母や姉についても訂正する事ができない。タイミングが悪すぎる!

(私が叔父さんに角を立てずに静止できたのは、最初の目の大きさの発言だけだった。そこで力尽きた💧)

しかし段々、叔父さんの異様な言葉の正体がわかってきた。最後には、祖父に対しても失礼なことを言い始めた。

姉と私が小学生の頃、毎年の夏休みやGWに祖父母の家へ行くと 祖父は孫の私たちをお風呂に入れてくれた。そして、仕事で使う納品のトラックに乗せてくれたりもした。(仕事用なので、たまに。)

一方で、叔父さんの子供の時は 叔母さんが子供達を祖父母の家に連れて行かなかったために、そういう触れ合いがなかったらしい。

この事実が叔父さんは気に入らなかったようだ。 事実を100%捻じ曲げて話し出した。「姉と私をお風呂に入れてやったのは、いつも自分だった。祖父と一緒にお風呂に入ったのは、自分の子だけだ」と。

(しかし、従妹弟たちはとっくに成人している。そんな昔の話を気にする叔父さんは変だ。何より、私たちと違って叔父さん一家はずっと祖父母と同じ市内に住んでいる。いつでも会える距離にいるのに。)

酔って滅茶苦茶を言い出す叔父さんの話を、祖父母は少し寂し気な顔で聞いていたが、止めようとはしなかった。

父とのトラブルと長距離の移動で、頭痛と体調不良、脳機能的に限界だった私も同席するのが精一杯で止められなかった。

🌴 🌴 🌴

翌日1月2日。ようやく祖父母と落ち着いて話ができた。 一体叔父さんはどうしたのか。昔はあんなに変な人ではなかったが...。 祖父母に聞いても答えは出なかったが、推測はできた。

時折、母から聞いていた子供時代の話。姉や私、孫にとっては良い祖父母だが、母にとっては...困った両親だったそうだ。

一番の原因は、祖母の保身のための二枚舌だ。かなり込み入っているので詳細は割愛するが、祖母は無意識に「自分が悪者になりたくない。自分の立場や印象を悪くしたくないので、本当は自分の問題だけど、他人が悪いと映るように話をすり替える。自分の意見を、他人が言うように仕向ける」という部分がある。

祖母はこの感覚で、祖父と結婚以来、母と祖父の間や母と叔父さんの間に(本人たちが知らないところで)亀裂を入れてきた。母はそれに気づいていたが、叔父さんは未だに気付いていない。

そして、叔父さんは母にコンプレックスのようなものを抱き続け、この年末年始では姪の私にまで当たるようになった、という事だ。

叔父さんの暴言に、手をたたいて笑っていた祖父母の感覚もよくわからない。母の話から、どこかおかしい面があるのはわかっていたが...。

子供と孫では立場が違う。孫にとっては、7段の雛飾りや成人式の着物を買ってくれる優しい祖父母だった。私は孫として、その部分だけを見て付き合うようにしてきたからだ。

確かに、9歳で1型糖尿病を発症した私を見て「この子と一緒にいると爆弾を抱えてるみたいで怖い」とは何度も言われていたし、表現に乱暴なところはあった。しかし、喘息発作を起こす私を病院へ連れて行ったり、夜中に薬を準備してくれたり、低血糖で意識の消えかかる私を助けてくれるなど、優しい祖父母だったのだ。

それが、なぜ今になって暴走する叔父さんを止める事もなく、手をたたいて笑っていたのか。


当初、私はお正月を祖父母の家で過ごし、体調の回復に応じて家事の手伝いや、自分が使った布団などのメンテナンスだけはして帰ろうと思っていた。しかし、この日に祖父が予告なく掃除機を使い始めるなどしたため、頭痛や脳機能の低下など体調が悪化した。私は危険を感じて、翌日1月3日に祖父母の家を出ることにした。

(祖父が掃除機をかける少し前に、私は叔父さんの発言について祖父母に話を聞いていた。祖父はそれがストレスとなり、憂さ晴らしに掃除機をかけた様子だった。 私への悪意ではなく、祖父自身にかかったストレスのために、私の脳機能の問題に伴う注意点を忘れたのだ。)

やはり、特殊な疾患や後遺症がある状態では他者との同居は無理なのだ。これ以上、迷惑はかけられない。ふらつきながらも布団を台の上に持ち上げ、できる限りのメンテナンスをして、祖母に「ありがとう。何もできる事がなくて、ごめんね」と言ってお暇した。

祖父母の年齢と自分の健康状態、今回の叔父さんの発言に対する祖父母の対応などを考えて、これが祖父母の家に来る最後になるだろうと思いながら・・・。

私は祖母のご飯とお味噌汁を忘れない。子供の頃には私のために、庭にブランコを作ってくれた優しい祖父。いつも必ず車で駅まで送ってくれる優しい祖父母を忘れない。


【帰路】

叔父さんの暴言からの祖父母の意味不明な反応に、なんだか真っ暗な気分で電車に乗った。祖父母の家で勤行はしていたが、年末年始の脳機能の負荷は大きすぎた。母に電話して、帰りもホテルに泊まりながら移動する事にした。

御本尊様の姿(お題目の文字)さえ思い出せないほど気力が低下していた。唱題がしたかった。気力も少しは戻るはず。途中下車をしてお寺に寄ったが、ちょうど初登山(支部登山)で誰もおらず、お寺は開いていなかった。仕方ないので、もうしばらく先まで電車に乗った。

体調を見て途中下車をし、とりあえず宿を取った。チェックイン後、持ち歩いているお守り御本尊様を(容器のまま)壁にかけていつも通り勤行をしたが、酸欠も治らず、気力も戻らない。左半身の麻痺も悪化してくる。体力の低下もあるが、左右のバランスがとりにくく、立てなくなってきた。食料の確保ができず、血糖値の安定が難しい。

普段コンビニに行く時も 帽子とサングラスがあって尚、苦労している。この体調悪化の状態では立ち寄れなかった。
困った・・・。 御本尊様があれば、この体は動くんだけどなぁ... お守り御本尊様は開くなと言われているけど、これは非常事態では・・・。

私は所属寺院に電話をして、許可を取ろうとした。 しかし、住職さんは留守だった。(たぶん初登山)

住職さんの奥さんに「御本尊様が足りなくて、病気の体が動けません。普段は何もなくても(お守り御本尊様を開かなくても)勤行と唱題をすれば元気になりますが、今回は負荷が強くて無理です。体が戻りません」と、事情を簡単に話した。

奥さんは心配してくれたが、お守り御本尊様についての判断は住職さんしかできないとの事。ホテルに最寄りの末寺を案内してもらったが、遥か彼方だった💧 ホテルの場所からは往復で1日がかりになるような距離だ。 いまから出発しても、到着するのはお寺が閉まっている時間になる。

仕方がない。お寺には翌日に行くことにした。今日は・・どうしよう。低血糖にならない事を願いつつ、脳機能と血圧を保てることを願いつつ・・・ このまま、ベッドにいるしかない。

不思議なほど、何もできなかった。体が弱い上に気力がゴッソリ抜けている。心中は真っ暗。こんな経験は初めてだ。 自分の中が暗くて空っぽ、動けない状態だ。

🌴 🌴 🌴

それから、どれくらい経ったか。 胸の中で小さな扇風機が回るような感覚がして、意識が戻った。なんだろう? 隙間風のように小さいけれど、爽やかな風が胸を通過する。酸欠が少し回復してきた。 

ベッドの上で起き上がり、しばらく様子を見る。そのうち手足に力が入り、動かせるようになってきた。立ち上がると、左足の感覚はまだ戻らないが、ふらつくほどではない。普段よりは覚束ないが、なんとか歩けそうだ。

この隙に、私は急いで買い物に出た。なんとか体調を整えるための食料を確保できた。

買い物から帰る途中で、私は気が付いた。 胸に小さな扇風機が回るような感覚は初めてだが、動かない体が動くというのは、御本尊様の功徳と同じだ。 ホテルに戻るともう1度お寺に電話をした。日は暮れていたが、奥さんが出てくれた。

聞いてみると、やはり奥さんが私の体調を心配して、御本尊様に唱題をして祈ってくれていたとの事。

有り難かった。そして、やはり日蓮正宗の御本尊様は素晴らしい功徳があって、祈ればどんな人でも功徳を得ることができるし、祈りを叶えることができるのだ。

奥さんに深く感謝を伝えて、お陰様で無事に起き上がり、食料を確保できたことを伝えた。

翌日の朝、胸に大きな風を感じて起きた。体調が良い。いつも寝起きは酸欠と低血圧で、最も脳機能の状態が悪くて動けないのだが、この日は違った。 迷わず物の形を認識し、スムーズに服を着替える事もできた。(低下した脳機能には、自分の体の位置や角度の把握が難しいため、着替えも時間がかかる) あとで奥さんに確認すると、住職さんが祈ってくれていたそうだ。

胸に感じる風は大きな扇風機のようで、脳の酸欠が改善されていった。 日蓮正宗の正しい御本尊様に対して、御書を根本に修行を積むお坊さんの力は、これほどに強いのだとわかった。そして、その住職さんを助ける奥さんもまた、確実に対象者へ祈りを届けられるほどの修行を積んでいるのだと、勉強をさせてもらった。

御本尊様とご住職・奥さんに感謝しながら、ホテルの部屋で勤行をした。 そして、最寄りの(距離的には遠くの)日蓮正宗の末寺へ出発した。

私は自分自身に祈りを届けるのに、約10年かかった。(最初に原因不明の首の痛みを、御本尊様への唱題で治してもらった。次にバセドウ改善等の功徳の経験。)奥さんのように、他の人に祈りを届けられるようになるには、あとどれくらい修行を積む必要があるだろう。私は性別や健康上の理由で得度資格を持たない以上、住職さんほどにはなれなくても、奥さんと同じくらいにはなりたい。誰かの力になれるような能力を持ちたい。

日蓮正宗は・・・口を開けば折伏しか言わない宗教のように見えて、色々思うところはあるけど、功徳は確実にあるんだよなぁ。つくづく、伝え方の下手な宗教だと思う。伝え方が下手で損してるよ。化他行の大事はわかるけど、それと同じくらい自行の大切さと功徳を御講で話した方が良いと思うなぁ…。

そんな事を思いつつ、何とか末寺に到着した。途中、バスの案内所で間違った案内を2回も聞き、乗るバスを(案内通りに)間違えるなど余計な時間がかかってしまった事もあり、到着して本当に安心した。(最終的に、間違って教えられた道で出会った郵便屋さんに聞き直して、ようやく正しいバスに乗れた。)

到着後は御本孫様に御挨拶。本堂には誰もいなかったので、住職さんの奥さんにお願いして、照明を暗くしてもらえた。勤行と唱題をさせていただき、体も気力も回復した。お寺を出るころには安定した歩行ができるようになり、眼球使用困難症と過度の疲労で開けられなくなっていた目と視界も、少しクリアになった。

所属寺院の元朝勤行には参加できなかったが、ここで初詣ができてうれしかった。奥さんから初詣のお供物を頂き、帰りは足取りも軽く順調にホテルに戻る事ができた。翌日の朝の勤行(ホテルの部屋で勤行)ではいつも通りに体調が整い、無事に帰路につく事ができた。

(お土産などを買う体力はなかったので、所属寺院の住職さんたちには 御供養とともに薬局で買った栄養ドリンクを持って行った。)

帰宅前に所属寺院に立ち寄り、住職の奥さんに御礼と無事を報告。御本尊様にも勤行と唱題をして家に帰った。

【2020年1月:オアシス035序章】


(;^_^A  お陰様で、何とか、ようやくここまで来ました。☕🐧🌴

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同じページに一気に書ける(完結できる)と思ったのですが、ページの更新がやっぱり遅くなってきたので、次のページに移ります。

ここまで色々な山を越えてきましたが、あと1山で、概ね完了しますw 

次のページで必ず終わる予定です💦  行ってきまーす✨



オアシス035
2020年2月12日 サイト工事開始
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