信心のヒント

こんな時は、こう考えてみる。水の信心のためのヒント集。


御開扉に行きたいけど、
末寺への申し込みに気が進まない時は?


申し込みにあたっては、どうしても末寺の人間(受付担当の信徒さん・住職さん・奥さんなど)と会う事になります。

お寺の人間関係に疲れていて「御開扉に行くのは良いんだけど、申し込みで人に合うのが嫌だ」という場合は、雪山童子の話が参考になるかもしれません。

雪山童子は修行の途中で、優れた法を知る鬼に出会いました。童子は続きを聞かせてほしいと鬼に頼みますが、鬼は引き換えに、雪山童子の命を食らう取引を持ち掛けます。童子はこれに応じ、後世の人々のために、聞いた教えを近隣の木石に刻み、その身を鬼へ施すために投げ打ちます。

(雪山童子は、この功徳によって後に釈迦として転生する。また、鬼の正体は雪山童子の求道心を試すために変化した帝釈天であった。身を投げた童子は、帝釈天に助けられて存命する。)

この時の雪山童子は、相手が人を食らう鬼(人間よりも劣る境界)であっても、説く法が多くの人々の為になると判断したために、自身の命を失う恐怖や痛みを惜しみませんでした。

お寺の人間関係に疲れてしまった時は、雪山童子の話を思い出して、御開扉を受ける申し込み手続きに進んでください。御開扉は、魂にとって本当にお得で有難い修行ですから。

もちろん、お寺アレルギーと言えそうなほど信心に疲れている時は、「水の信心について」の1番・2番の方法に戻って内得信仰を進めてください。生涯続けられる信心となる事が大切です。

御開扉には年に1回は行けるよう、必ずまたの機会を作って申し込んでみてください。

(雪山童子は身を投げた後、体が地上にぶつかる直前に、元の帝釈天の姿に戻った鬼の手に受け止められ、命をとりとめます。そして、帝釈天をはじめ多くの諸天が雪山童子の前にひれ伏し、求道心を試した事を謝罪します。さらにそこで、雪山童子は諸天たちから「あなた様が仏となられる将来において、どうか我々もお救い下さいませ」と頼まれます。)



お寺の人間関係がきっかけで信心に疲れた結果、
もう何年もお寺から足が遠のいています。

時間が経っても、どうにも行く気になれません。

そんな時は、所属する末寺を変更する事も1つの方法です。

離れて住んでいる家族や身内に、同じ日蓮正宗の信徒さんがいれば、そちらの末寺に移籍する事もできます。

その場合は、家族や身内と一緒に移籍を希望する末寺を訪れて、住職さんに相談してみてください。住職さんの判断によりますが、手続きの方法についても、状況に応じて心身に負担の少ない移籍方法を教えて下さいます。

管理人の祖父母の場合がそうでした。祖父母は十年単位で足が遠のいていて、所属寺院の住職さんが世代交代した後もお寺へ行けない状況でした。ですが、やはりお盆やお彼岸にお塔婆を建てて先祖供養をしたい・御開扉を受けたいという思いがありましたので、子供と孫の所属する末寺に移籍しました。

(高齢の祖父母は遠くに住んでいるので、御講は来られる時に来て、お盆・お彼岸・お会式などの大きなイベントの時は必ず参詣する形です。御開扉の申し込みは私たちが請け負い、一緒に大石寺へ参詣するようにしています。)


「○○ができないのは、信心が足りないからだ」
「過去世の業(自分の罪障)だから・・・」

などと言われて、解決策もなく途方に暮れる。

これ、言われても困りますよね。^^; 半端な苦労をしている人ほど、よく言う浅い言葉です。

それだからって何なのでしょう? マイナス思考で、変えられない過去世を向いた現状だけを知らせて、何が解決できるというのでしょうか。なぜ優しく励ます言葉をかけないのでしょうか。

諸難は過去世からの業であり、(それに負けずに)より信行に励むならば、必ず今よりも良い状況に至れるという事は確かですが、だからといって、悩んでいる人にそれだけを直接告げて何の解決になるのでしょうか。悩む人の心理的な負担を増して終わるだけです。

そもそも、お寺に来たり、自分と同じ信徒さんに悩みを話す分だけ、その人は「信心がある」状態ですし、より信じたいと思うからこその悩みの吐露なのです。

なので、悩みを聞いた人は「大変な中、よく信心していますね」「一緒に唱題しましょう。(状況が良くなるように)祈らせてください」と、悩む人の信心を励ますべきなのです。

これは僧侶でも役員でもない、一般信徒(サイト管理人)の独断ですが、

日々の勤行や唱題をする中で出てくる悩みや、解決の難しい長期の悩みというのは、その人の信心が前進している証拠です。

【人生の目的と信心修行の意味】のページでも記載していますが、日蓮正宗の功徳にある、即身成仏・現世安穏(後生善処)というのは、過去からの全ての悪い因縁がチャラ(=なかった事)になるのではなく、転重軽受・更賜寿命 の功徳を得られるという事です。

これは日蓮正宗の御本尊様に導いて頂けるから、重い罪の結果を軽く受ける事ができますし、 1回の転生でクリアする(即身成仏する)ために、まだ解消するべき罪障や因縁が残っているからこそ、寿命を延ばして頂けるという意味です。

つまり、1つの窮地を功徳によって救って頂けても、その後に苦難が全くない訳ではないんです。

(もちろん、今生のどこかの時点で苦難は終わりますし、御本尊様から頂く生命力の功徳によって、苦難の最中であっても周囲からは活き活きと見え、不思議と疲れた様子には見えません。添書登山で見かける信心の長いお年寄りを見ていると、本当によくわかります。)

なので、お寺で「そうなるのは信心がないからだ」などと言われている信徒さんは、どうか安心して下さい。

日々の勤行や唱題(折伏)をしていて、御開扉にも行けている状態であれば、現状の悩み事は必ず解決します。時間ばかりが経ち、無駄に苦しんでいるような気がする時ほど、信心によって罪障を次々に消滅させている期間であると言えるでしょう。

即身成仏と更賜寿命・転重軽受を得られるという事は、今生で解消するべき業がまだ残っているからこそ、救って頂けるのです。だから悩みが長期化する事があっても、必ず報われるのです。御書の「法華経を信ずる人は冬のごとし。(冬は必ず春となる)」という御文はこれを表していると思います。

(例えば、早々に亡くなってしまう宿業のある人=転生の目的を一部しか果たせずに亡くなる人が日蓮正宗についたならば、転重軽受 の功徳 によって 苦しみながらも延命します。その結果、本来は短命で終わり、複数回分の転生で果たすはずだった多くの業と因縁を、1度の生涯で解消し、即身成仏できるという考えです。)


悩みが解決する日に備えて、それまで身を持ち崩さないように、サイト管理人と一緒に唱題に励みましょう。日蓮正宗の御本尊様に唱題を続けていると、変な風に身を持ち崩すことがありません。それにより、良い機会が巡った時に、その機を逃さず応じられるようになります。

いかに苦境で頑張っていても、自棄になってフテくされたシンデレラには幸福がやって来にくいですからね。^^; 日々の勤行に加えて、唱題や折伏をすると、男性も女性も美人になります。

ホントですょ。(*´艸`*) たとえ日常が変わらなくとも、御本尊様からの功徳によって気力が充実するので、表情が明るく軽やかになるのです。人から言われて気付くので、本人は驚きます。

釈迦でさえ、弟子からのご機嫌伺いに対して「少悩少憂」と答えています。日蓮正宗の功徳を考えると、一生が修行だと伺えますから、気長に水の信心で ゆっくり生きていきましょう。(^_-)-☆



「お題目を唱えさせて頂けることが有難い、と
思って唱えなければダメだ」と聞くけれど…?

これを言う人は、その人なりに信心を励まそうと一生懸命なのだと推察できますが、 言われた側は目が点ですよね。^^; たぶん、言う人の表現力が至らない結果だと思われます

管理人は、こういう話は 気にしなくて良い と思っています。

一度でも確かな功徳を実感できた人には理解できる話なのですが、それをまだ経験した事のない人にとっては、何の意味もない言葉ですから。

確かな功徳を実感できていない(または、気が付いていない)状態では、人から言われたところで「あー有難い、有難い...」と心中、棒読みでお題目を唱えるような事になりますから、そこに功徳が得られる余地はないと思えます。無茶な話ですよね。^^;

子供のころからの難病患者である管理人は、今現在、功徳を実感しているために「有難い」と思って唱える事が自然とできている状態ですが、功徳を実感する前はとても思えませんでした。その発想も出てきません。

そんな管理人の信心は、下記のようにスタートしました。

「日々の勤行と御講だけでは、どうにもお寺で聞く功徳を感じられない。とりあえず、できる事を全部やってみよう。まずは意識的に暇を作って、末寺によく行く事。(←高校・大学時代)次に毎月1回の定期的な添書登山(←社会人から)それから唱題(20代半ばから)…」

管理人は、そんな積み重ねによって色々な功徳を実感できるようになりました。期間で見ると‥ゆっくり1つずつ取り組んでいったので、大きな功徳を実感するまでには 10年くらいかかったでしょうか。その結果、自然と有難く唱えさせて頂ける状態になったのです。(それから、少しずつ折伏に取り組み始めました。)

信心を続けていけば、いずれ自然と「有難い」と思って唱えられるようになりますから、お寺でそういう話を聞いても特に気にしなくて良いです。

「功徳を積みましょうね」という、応援の言葉に脳内変換しておきましょう。



御供養をしたのに
健全で重要な願いが叶わなかった。

これは本当にお気の毒です。(´・ω・`)

日々の勤行で真剣に祈っていて、それでも叶わない。だから、いつもより多めに御供養をしたものの、残念な結果に終わってしまう。

それは難病患者の私も、自営業で成功している同じ日蓮正宗の知人も経験しています

願いの成就や功徳は、御供養の金額に応じるものではありません。

どんな願いも【日々の唱題と御開扉】が第一です。これに勝る功徳はありません。

毎日30分~1時間の唱題と、定期的な御開扉をお勧めします。

唱題をすると確実に良い方向へ変わってきますから、勤行に加えてぜひお試しください。

そして、生命にかかわるような大きな問題を抱えている時は、住職さんに御祈念をお願いします。末寺の受付で「住職さんに御祈念をお願いしたいのですが(どのように手続きをすると良いでしょうか)」と伝えて、申し込み書(御祈念願)を頂きます。

項目に沿って記入して、必ず御供養と一緒に受付へ提出して下さい。金額は、その時できる精一杯の志で十分です。(どんなに重要な願いでも、収入や生活に見合わない額、全財産などを出す必要は一切ありません。)


御講日など日頃の御供養については、願いの重要性に応じるよりも「御本尊様と、御本尊様を正しく維持して下さる住職さんに感謝して、御供養する」 「功徳を実感して、有難いと感じた結果、御供養をする(御供養を増やす)」とした方が、現実に即しています。

もちろん、普段はそのように御供養しているからこそ、ここぞという問題が起きた時に「何とかしたい」と多めに御供養してしまうのが人情なんですけどね。^^;

それをする場合は、きちんと御祈念の申し込みをして、住職さんに祈って頂きましょう。そして何よりも、同じ日蓮正宗の御本尊様を通して 御祈念の功徳を十分に受け止められるよう、日々の勤行と唱題を心がけましょう。

御供養を含めて、全てにおいて 生涯続けられる水の信心が大切です。




余談(管理人の感想)
【 人に助言をする時に 】

人に助言をする時に

努力できる状況にある人間の傲慢さを振り回しても、何の意味もありません。

努力できる状況というのは、持って生まれた性格と考え方、環境、運や縁も含めての事です。

だからこそ、全ての鍵となる唱題や御開扉を勧めて、聞いた人が取り組みやすくなるように、前向きに励ます事が必要です。

そのことがわからない人や、相手を心配するあまりに押しつけがましい言葉になってしまった結果「~~でないとダメだ」「~~だからダメなんだ」という後ろ向きな表現をして、聞いた人を途方に暮れさせたり、信心から遠ざけたりしてしまうのだと思います。

そして、宗教として難しいのは、そういう人間としての理解力や判断力、表現力が「立場に伴って必ずしも比例するものではない」という事です。(この立場とは、住職・僧侶・役員・一般信徒という、信心の仕事内容のこと。)

そうでありながら、正宗としての功徳の特徴である、魂の成長に伴う気品と落ち着き・御本尊様の御加護を得ている様子は立場や肩書(信心の仕事内容=修行の質・量)に沿って確実に表れるために、末端の一般信徒は信心に迷う事があるのです。

このアンバランスを解消し、多くの住職さんが役員や一般信徒への適切な指導をする能力を得るためにも、どうか大石寺には「サイト管理人からお寺へ」の提案を検討して頂きたいと思っています。



お寺の中で 立場のある人から
心無い言葉を聞いたと感じたら…?

まず、少し信心を休みましょう。(【水の信心について】を参照してください。できる場合は、家で勤行を続けます。できない場合は、しばらく三唱とお給仕だけを続けます。)

自身に向けられた心無い言葉の内容について、的外れとか、妥当性がないとか、明らかに危険を伴う部分などがあれば、その言葉は気にしなくて良いです。それが何らかの行動を促す話であれば、行う必要はありません。

その内容が本当に必要な事、取り組むべき事、理解するべき話であれば、将来に形を変えて必ず取り組む機会が訪れますから大丈夫です。悩む事も、焦る事もありません。

たとえ正しい内容だったとしても、あまりに自分の現状・TPOに合わない話であれば 「時宜に応じて(行いなさい)」という大聖人の御指導にも反します。御本尊様にお任せして、水の信心を進めましょう。


今の日蓮正宗には、残念ながら、首吊りの足を引っ張りかねない問題発言をする「立場のある人」もいます。

耳障りの良い言葉だけでは人を救えない事は確かですが、信仰について具体的で強いアドバイスをする場合は、相手の話をよく聞いて、状況を正しく把握した上で伝えなければ、的外れで独善的なアドバイスとなり、悩みを抱える人の足を余計に引っ張る事になります。

管理人が末寺や添書登山などで  複数の信徒さんから聞いたところでは、どの話も明らかに【立場ある人の理解力の低さ、経験の少なさによる、判断力と表現の拙さが原因】である事が多いです。

( ´゚д゚`) ェー? そんな言ったら、取るとこナイじゃんw

(゚д゚)(。_。)ウン。ナイ。ま、悪意もナイんだけどねw 迷惑なんだよねw

そして… そういう問題発言をする人ほど、井の中の蛙である事を自ら選び、耳を閉ざし、自己満足で悦に入り、治しようのない愚か者のままでいる事を好みますw 心は純粋だったりするんですけどね…。^^; でも、人を指導する立場で純粋さしかない人では、見過ごせない大きな問題が出てくるんです。

役員さんでも、住職さんでも、立場のある人の中にはトンデモナイ人が一定数存在するのは事実ですから、心無い言葉を聞いた信徒さんは、惑わされないように水の信心の道を進みましょう。

こういう時に大切なことは、問題発言やその善悪ではなく、自身が御本尊様との御縁を保ち続けられるかどうかです。 「御本尊様と自分」の関係が第一に大切です。

(参照【水の信心について】

立場ある人の問題発言は、学校の先生や医師の問題発言・誤診と同じようなものです。 今の日蓮正宗では、権威付けというか、時代錯誤な言い回しが多い分だけ、間違ったアドバイスを聞いた人に傷を負わせやすいところがあります。宗教、信じるものとして心身や行動に与える影響は大きいですから、本当に罪ですよね。

問題発言によって混乱に陥ったり悩んだ時は、家の御本尊様に三唱とお給仕だけは続けて、しばらく気分転換をしましょう。


その後の考え方としては、下記をご覧ください。m(_ _"m)

お寺の中で立場のある人から、心無い言葉を聞いた経験のある信徒さんは、【だからこその御本尊様だ】と捉えて、休憩を上手に取り入れて、どうか御本尊様との御縁を保ってください。

日蓮正宗の御本尊様への唱題は、現世から見て最大のチートであり、トランプのジョーカーのような大きな功徳があります。理屈ではない、唯一無二の強い切り札です。「無始以来の謗法罪障、忽ちに消滅し云々…」というのは本当です。(実際にはチートではなく、理由もありますが、現世からそれを知る事は非常に難しい。)

御本尊様の功徳は生きている時からも伺えますが、臨終の様子を見ても明らかです。「(生前)あんな変な人なのに、どうして...」と思うほど、御本尊様の功徳や御加護の伺える相をしています。

また、添書登山で見かける度に元気になっていく高齢の信徒さんや、生活状態が整っていく信徒さん、私のように難病を抱えていても、とてもそう見えないほど気力が充実している人や、夢に見る先祖の様子からも、日蓮正宗の御本尊様の大きな功徳が伺えます。

(重病人の気力が充実していて、健康な人と変わらないように見えるという事は、十分な気力を養い、保てるだけの御本尊様の功徳が【物心両面に得られている】という事です。)

お寺の中で「立場や肩書に見合わない、困った人」に遭遇したら「御本尊様は、理屈抜きの最強のジョーカーだ」と思い出して、どうか水の信心を進めて下さい。(_ _〃)) オネガイシマス。



病気で早世する住職さんから伺えること。
転重軽受・更賜寿命について。

(この項目は、管理人の考察です。)

大日蓮を読んでいると、稀に働き盛りの年齢で病死される住職さんの訃報を見かけます。得度した日から考えると、30年間は修行漬けの日々を送っていた様子の人が、どうして早世するのでしょうか。(タバコを吸っていたわけでもないのに。)

人間として転生している以上、住職さんにも解消するべき過去世の業がありますから、 何らかの病気やアクシデントに見舞われる事があるのは理解できます。そして、御本尊様の功徳によって、自覚症状の程度が「日常生活に耐えられる程度に、落ち着く」事も理解できます。 でも、平均寿命を大きく下回って亡くなるのは腑に落ちない気がします。

結論から言うと【 人生は(変えられない)過去世の状態から、現世での可動域が予め決まっている可能性がある 】と考えられます。

日蓮正宗の御本尊様による転重軽受・更賜寿命の功徳は【可動域の中で、目いっぱい良い方向に振った状態が、今生の成仏】という事かもしれません。


この「可動域」の考え方は、ある信徒さんの実話からも伺えます。

ある男性の信徒さんの話です。

この男性は、子供のころから家族で毎月の御講やお盆・お彼岸に参詣し、鼓笛隊に参加したり、夏期講習に参加したり、青年部で活躍したりと、とても熱心な信心をしていました。大学を卒業した後は官庁に勤めたようで、非常に充実した日々を過ごしていたのですが、仕事が忙しくなり、御講への参詣もなくなり、家での勤行もできない(しない)状態が続くようになりました。

そんなある日、男性は大きな事故に遭い、重い後遺症から休職を経て退職。一時は家での日常生活も難しい状態になったそうです。

この男性の経験は「御本尊様の功徳によって、履かせて頂いていた下駄が脱げた」という状態ではないでしょうか。元々の能力、元々の運と縁に戻った可能性がある、という意味です。

そして、大きな事故に遭って後遺症を抱えても、まだ今生で解消できる業と因縁が残っているために、更賜寿命の功徳によって生かされていると見る事もできます。

転重軽受の意味を考えると「信心次第で、どの程度の業を、どの程度 軽く済ませる事ができるのか」という目視できない難しい話になりますが、

最終的には「過去世の業に準じた振れ幅、可動域の中で、より良い方向に針を振る事」が、日蓮正宗の御本尊様の功徳なのだと管理人は考えます。


(゜-゜) 可動域自体を良い方向に広げる事って、できないかな?

過去世を変えられない限りは無理と、わかっているけれどw


余談w

ある日、これを住職さんの奥さんに話したところ「わかってるじゃない」といって頂きましたが、微妙です。これが本当だとしたら、モチベーションが...。そして、成仏に伴う「現世」安穏とか、幸福の境界という言葉に、誘因の側面が見えてくるというか...。  他宗より確実に良い、効率よく成仏できるというだけで...。 いや、それが大事なんでしょうけどしかし…w (-ω-;) 厳しいょ。正宗は理にかなっていて厳しすぎるw だからこそ、冬の如しで、菩薩も喜ぶほどの成仏の効果があるのでしょうが。

だから、住職さん達はこういう話を言わないのでしょうねw 立場がありますし。変に誤解する人も出て来ますから。でも良いのw 管理人は一般信徒だから書いちゃうw



正しい御本尊様を、正しく保つという事。
お坊さんが必要な理由。

サイト紹介のページで、信心に疲れたり、困り果てた時に必要な事について、下記のように書きました。

「御本尊様と私(自分)」の関係。年に1回は御開扉に行く事。本門戒壇の大御本尊様との縁を保つ事。(添書登山 または 支部登山。) 極論ではありますが、そこには講中も住職さんも関係ないのです。 (中略)… みんな人間として転生してはいないからです。】

管理人はここで、人間と御本尊様を分けて考えるという対処方法を提示したのですが、 これができるのは、適切な修行を積んだお坊さんたちによって、正しい御本尊様が、正しく保たれているからです。

サイト紹介では極論として省いてしまったのですが、大事な事なのでここに記載します。

本尊としての正しさと、人間の判断・正しさが必ずしも一致しないのに、どうして人間である住職さんによって 日々祈りを捧げられている御本尊様に功徳の力があるのか(どうして適切に功徳の力を現世へ引き出せるのか)というと、

得度したお坊さん専用に与えられる教育・修行によって得られる「御本尊様を適切に保つ能力」は、信徒に対する人間としての対応力・判断力・指導力とは異なるからです。


これが一番よくわかるのは、「返還されたお寺の御本尊様」に出会った時です。

日蓮正宗の寺院の中には、種々の経緯で一時的に、他宗派に不法占拠された過去を持つお寺があります。

ある日、旅行や仕事で訪れた日蓮正宗の末寺で、奇妙な違和感を覚える御本尊様がありました。酷く重苦しい印象です。他宗の本尊ではないかと疑ってしまうほどの違和感です。

住職さんにお話を伺うと、つい1か月ほど前に返還されたばかりのお寺だという説明を頂きました。御本尊様自体は「占拠される前、日蓮正宗の寺院だった頃と同じ御本尊様です」という事なのですが、何とも言えない違和感がありました。

このような不法占拠をしていた他宗から、日蓮正宗へ返還されたお寺の御本尊様は、住職さんによって日々祈りを捧げられることで、少しずつ本来の姿を取り戻すようですが、 いかに正しい御本尊様でも、総本山の大石寺(本門戒壇の大御本尊様)と常に関係を保っている住職さんによって、適切に捧げられる祈りがなければ、大聖人が御書に示されている 有難い功徳の力を発揮する事はできない という事が伺えます。

そしてもちろん、大石寺の奉安堂の御本尊様もまた、猊下によって適切に祈りを捧げられているからこそ、適切に保たれているのです。

これは実際に目にしなければわからなかった事ですので、非常に良い勉強になりました。学生時代に、講中のお年寄りから「とにかくお寺から離れてはいけない」という話を聞いた事がありました。それはおそらく、こういう事を言っていたのだと思います。

御本尊様を見た時、出会った時の印象の違いというのは、わかる人・わからない人がいると思いますので、表現に難しい部分がありますが、伝わる事を願っています。


そんな訳で、信心に疲れたり、困り果てた時に「御本尊様と自分」の関係のみを意識して「本門戒壇の大御本尊様に、年に1回はお参りして、御縁を保つ事」で功徳を得る(即身成仏への道を常に開いておく)事ができるのは、

日々、正しい御本尊様を、正しく適切に保ってくださる住職さん達のお陰なのです。

(そぅ… 時に人として、指導者としての能力に至らない点がある住職さんであっても

お坊さんとしての能力は十分に養われているのです。ココ大事。すごく大事。

信徒にとっては、そこを理解して「何があっても御本尊様から離れない努力」が必要です

大石寺にとっては、僧侶として必要最低限の能力だけで満足していたら、折伏は伸び悩んで当然と心得て

お坊さんの人間性や社会性、指導力を磨くプログラムを強化する努力が必要です

そして、御本尊様と現世に繋がる道を正しく確保して下さる住職さん達を通じて、信徒の私たちからもまた、御本尊様へ感謝の念を送り、折伏による多くの人々の即身成仏を報告させて頂けます。


貪瞋痴が戒められる理由。
精神論では片付かない問題でも、戒められるのは なぜ?

貪・瞋・痴(とん・じん・ち)は、貪欲・怒り(瞋恚 しんに)・愚痴 の事で、これらを仏教では、成仏を妨げる「三毒(さんどく)」といって戒めています。

これらはマイナスの感情なので、良い結果や良い現実を招きにくくなる事は伺えます。しかし人間は、不当で理不尽な扱いによって自身の権利や、身の安全が著しく脅かされた時には、抗議したり、相手の出方によっては戦う必要があります。

その行動自体は問題ないのですが、望む結果が出るまでの過程で、怒りに囚われる(囚われ続ける)事があります。そこで単純に「怒ってはいけないんだな。良い結果が出にくくなるんだな」と思い直して思考を切り替えることは、非常に難しい事です。

だいたい「貪瞋痴をやめたら良い結果が出やすくなる」ということ自体、渦中の身にとっては「どうなのよ?」と思う現実に陥っている場合が多いはずです。^^;

同じ問題に対する怒り(または貪欲・愚痴)が「長く続く状態」というのは、その時点で抱えている問題は相当大きなものです。怒る事を止めた途端に、悲しみや絶望が襲ってきて潰れてしまう(生きる気力を失う)事もあるでしょう。問題の内容や大きさによっては、その怒りは変毒為薬の場合もあるからです

(過酷な現実に対処するため、精神の均衡を取るための心理変化として、貪瞋痴が作用している状況。真っ当な現実問題の他に、ストレスによるヤケ食い=貪欲、何らかの理由による過剰な欲求からの三毒もあります。)

しかし、変毒為薬として貪瞋痴が回っても、長期間に及べば体の健康にも影響を及ぼします。精神論や成仏の問題だけではなくなってしまいます。

では、現実問題の解決に尽力し、唱題に励んでも、解決に時間がかかる場合はどう考えたらマイナスの感情を落ち着けて、良い結果を得やすくできるでしょうか。

これは管理人の提案です。

芥川龍之介の小説で「蜘蛛の糸」という短編があります。仏教を元に創作された小説で、縁や利己主義(慈悲のなさ)がテーマとなっていますが、見方を変えると貪瞋痴の理解に繋がるところがあります。


【蜘蛛の糸 あらすじ】

生前、泥棒だった男(=悪人)が、死後の世界で地獄に落ちます。釈迦は、地獄で苦しむ男を救いたいと考えて、男が生前に行った唯一の善行(1匹の蜘蛛を、踏み殺さずに助けた善行)を見つけます。

そこで、釈迦は天界から蜘蛛の糸を地獄へ垂らして、悪人を救おうとします。男は頭上から降りてきた細い1本の蜘蛛の糸に気付き、登り始めます。

すると… 同じ地獄で苦しんでいた他の亡者たちが、男の後に続くように、蜘蛛の糸を登り始めました。男は焦ります。

(ただでさえ細い糸に、こんなに多くの亡者が一斉についてきては、切れてしまうのではないか…。)そして、男は下に向かって声をかけます。

「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に聞いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」

その瞬間、蜘蛛の糸はプツリと切れて、男は転落。地獄へ逆戻りしてしまった。

釈迦はその様子を悲しそうな顔で見つめた後、去って行った。    

 (あらすじ終わり)

この話は、表面だけを見れば慈悲の話で終わりますが、よく読むと、貪瞋痴の問題を理解する参考にもなります。

男を私たち自身に。男に続いて糸を登ろうとする大勢の亡者を、私たちの抱える様々な現実問題に置き換えて読んでみます。


種々の良い・悪いの話は置いといて。男の目的を達成するには、どうしたら良かったのかを考えてみましょう。

成仏(問題解決)へ向かう蜘蛛の糸を切ってしまったのは、男の無慈悲な利己主義です。ですが、男に無慈悲な言葉を言わせたのは「細い糸だから、切れてしまうかもしれない」という現実的で真っ当な不安感です。

生前の生き方によって、救われる手段が(見た目に頼りない)蜘蛛の糸しかなかったのは、男の自業自得です。それでも、男は縁によって救われるのですから、見た目に頼りなくとも、どれほど多くの亡者が後に続こうとも、男自身が天界へ登りきる前に糸が切れるようなことは、まずあり得ないのです。

(男はそれを知らない状態ですが、釈迦は知っていたはずです。言わなかった理由はわかりませんが…。 泥棒=罪人だったからかな?)


お話の表面だけを読めば、男が思いやりの心(慈悲)をもって、後に続く亡者に何も言わなければ良かった。自分だけが助かれば良いと思わなければ良かった。行動としては、糸が切れる不安があるなら せめて「一人ずつ登ってくれ」「俺が到着してから登ってくれ」と言えば良かった。

でも、もっと良い解決方法があります。それは「視点を変える事・気にしない事」です。

【他人の行動が目に入らないほど、何が起きても 真っすぐに、上の目的地だけを見て登っていれば、最短時間で確実に天界へたどり着けた】という事です。

男は亡者に語りかけた時、下を向いています。下で起きている異変に気を取られています。男が目指す場所は上にあるのに、下に気を取られて、上へ登るための手足を止めているのです。

この状況は、私たちを悩ませる現実問題に伴う貪瞋痴、マイナスの感情と成仏の関係に似ています。

男は「命綱である蜘蛛の糸が、切れてしまう可能性がある」と感じて、目的地である天界から目を背け、糸の切れる原因となり得る下の亡者達に気を取られます。 これによって、貪や瞋が誘発されて「この糸は俺の物だ、下りろ!」という無慈悲な発言となり、(糸が切れて)天界へたどり着けませんでした。糸が切れる不安に駆られて三毒に走ったと言えそうです。

そして、私たちも無視できない現実問題に対処する必要があると感じて、目的地である成仏から目を背け、下で起きている諸問題に気を取られる事で貪瞋痴が誘発されて、成仏への糸を登る手足を止めてしまいがちです。

貪瞋痴が成仏を妨げる三毒として戒められるのは、そういう事だと私は思います。

理屈はわかります。納得です。

では、現実問題の解決としてはどうしたら良いでしょうか。大きな問題の渦中で 視点と感情を切り替えるというのは、言うほど簡単なことではありません。   何より、問題について全く対処しない訳にはいきませんし。

ある程度までの問題なら唱題で切り替える事もできますが、解決に時間がかかりそうな大きな問題であれば「視点と感情(=精神)で現実を変える」という話は【絵に描いた餅】として響き、視点を切り替えるなんてできそうにありません。

それを叶えるには、安心感と信じる心が必要です。問題の内容をよく理解した上で「現状が大変であっても必ず解決できる。その日まで、必ず身を安全に保つことができる」と安心させてくれる人、信じさせてくれる人の言葉を聞くことが必要です。安心があってこそ、人は視点を変える事(上に向ける事)ができるからです。


「蜘蛛の糸」の男の話に戻りますが、もし、男が糸を登る最中に

釈迦や菩薩が「その糸はお前の縁によるものだから、お前が到着するまでは切れることはない。信じて登りなさい。心配するな。」と教えてあげれば、男の不安は消えて、どれほど糸が揺れようとも、後続の亡者へ余計な事を言わずに(=下の様子を気にしないで)天界へ辿り着けた可能性があります。


私たちの登る糸は、日蓮正宗の御本尊様による金剛宝器戒の道です。安心して下さい。

問題を抱えて「常に踏ん張っていないと(問題を注視していないと)死んでしまうのではないか」と思うような状況に陥っても、勤行や、勤行をする努力を続けていれば、決して再起不能にはなりません。

人生の中で大きなトラブルに遭い、なかなか抜け出せない時は、御本尊様を信じて心を預け、感情を手放し(もうや~めたっ! 疲れた! 放置! お任せ!という感じ)、 自然と視点が変わる時期を待ってみると良いかもしれません。

解決に向けて地道な努力を重ねてきた人には、それは諦めにも似て、非常に実行しにくい事と思いますが「急がば回れ」の精神で、どうか試してみて下さい。

一種の諦めによる放心、ショックが起きると思いますが、とことん悩んだり、三毒に振り回された後ですから、一度 感情を手放す事ができれば 、あとは時間経過で少しずつ心が回復してきます。それによって、世界がこれまでとは少し違って見えてくることもあります。

そのうちに問題に対しても自然と視点が変わり、そこから不思議と少しずつ 自分を取り巻く現実が  良い方向へ変わっていきます。

四方八方、手を尽くして解決を図り、勤行や唱題にも励んでいる状態で、解決が見えずに疲れた時。そこが「マイナス感情(貪瞋痴)の手放し時」です。

精神論では現実は変わらない。気持ちじゃ現実は救われない。そんな大きな問題を抱える時こそ、どうか試してみてください。

お寺では、貪瞋痴が云々、過去の罪障云々、そんな現実感のない話が聞こえるだけという場合もありますが、その内訳は上記のような原理であり、勤行と唱題・御開扉を続けながら(感情を手放し、御本尊様に問題の行方を預ける事で)視点を変えていく、という事です。

勤行と唱題を続けていれば、視点を変えるために  問題から一時的に意識を反らしても、再起不能にはならず、もしドツボにハマって半死半生になったとしても必ず復活します。その結果、問題は必ず解決して、勤行をしていない人と比べると、遥かに速いスピードで成仏できるという事です。


(勤行をしていない人、日蓮正宗の信徒ではない人、御本尊様と御縁を結べていない人の場合は、途中経過で再起不能に陥りやすくなったり、転生を多く繰り返す事になります。

金剛宝器戒は、そもそもの目的・効果が「成仏へ最短ルートで向かう事」ですから、その分だけ   1回の人生がハードモードになりやすいです。ハードモードかつ、寿命は延びるという・・  究極のスパルタモードですねw 

でもその分だけ、どの宗教よりも確実で、何より末法時代において唯一の正解なのです。)


…   根性ないとやってられんょ。ほんとに…マジで伊達じゃないからw ( ̄▽ ̄;) 

お坊さんたち、解説に手を抜きすぎだよ?w 

アセンションだ宇宙だアファメーションだのと回りくどい今更レベルの話が流行ってる昨今だから、私はぶっちゃけるけどさ!w 坊主じゃないし! 責任も派閥もルールも関係ないからねw 大体、釈迦がずっと前に説いて純円(円経・法華本門)で完結させてるんだから全く… (-_-;)


【境界を上げる】という解決方法。
不平等、理不尽の理由と解決方法、祈り方について。

これは御自身が直面している問題や困難について、思いつく限りのできる対処を試みて、なお解決しない場合にご覧ください。m(_ _"m)

正宗の信徒さんやお坊さんの中は、何かがあるとすぐに「過去世の業だから」と本当にそれだけを言ってお茶を濁す人たちがいますが、これを管理人なりにわかりやすく解釈するとこうなります。

【過去世の因縁により得た魂の境界によって、今生の生活環境や人間関係が作られる。なので、解決し難い問題や理不尽な状況が続く場合は、日蓮正宗の御本尊様に勤行・唱題・折伏をする事で境界を上げて、解決を図る事ができる。】

簡単な例では、下記のような状況です。

2人の新入社員が同じ職場で仕事を教えてもらうのに「怒鳴られ、叩かれながら教えられる状況の人」と、「イチから丁寧に説明されて、優しく気長に教えてもらえる状況の人」がいるとします。

理解力や物覚えの良さ、先輩社員に対する態度などは2人とも同じです。なのに、この差がつくのはどうしてでしょうか。この差を、2人の境界の違いと見る事ができます。

その他にも、良い事をしても報われない、それどころか仇になるとか、悪いことをしても不問にされたり、出世したりする場合もあります。

宗教に関係なく「真面目に生きてる人間が馬鹿を見るようで嫌だなぁ」と思う事は多々ありますが、これは転生による因縁と境界のタイムラグのせいです。


一言に理不尽といっても「いつも肝心なところでツイてない(チャンスは逃すし、とかくタイミングが悪い。徒労も多いが、日々なんとか生きていける)」という状況から、「子供のころから虐待を受けて育つ(毎日が「やるか・やられるか」超絶サバイバル)」というような状況まで、様々なケースがあります。

ここで大事な事は、今現在の日蓮正宗での信心に腰を据えてじっくり取り組み、境界を上げる努力(勤行・唱題・大石寺の御開扉・折伏)を 何があっても続けていく事  です。

間違っても、記憶になく、やり直しもできない過去世を思って意識的に反省する事ではありません。四座の御観念文の通りに、謗法罪障消滅と祈るだけで十分です。

(今生の解決し難い苦境の中で、記憶にもない過去を意識的に反省なんかしたら、マイナス思考の塊になって精神を病むだけです。「過去世の業だから...」と言いっぱなしにするような、アホな話は一切聞かんで宜しいw 今の正宗には「だから…」の先を言わないアホが多すぎるw)


長い時をかけて作ってきた過去世からの境界を持ち上げるのですから、現状が変わるには多少の時間はかかります。けれども、日蓮正宗のお寺に通い続け、家で日々の勤行と唱題を続けていく事で、必ず道は開かれます。

転重軽受・更賜寿命の功徳により、特に生命に直結する喫緊の課題については早めに解決する事があります。(まだ今生で解消するべき罪障や因縁があるからこそ、寿命を延ばして頂けるという意味です。)


(* ̄- ̄) へー、そうですか。じゃあやってみますょ、日蓮正宗。勤行・唱題・御開扉・折伏・勤行・唱題… 1年、3年、5年、10年、20年… 

「…変わらない。まだなのか!?」と思う時は、どうか日蓮正宗に出会うまでの過去世が1つだけではない事を思い出してください。

今の御自身の環境と精神状態(ものの考え方・受け止め方)は、長い時をかけて作ってきた複数の過去世による境界が反映されています。

過去世は人それぞれ異なりますので、現状の問題が早く解決する人、遅く解決する人は様々ですが、必ず解決しますので気長に信心を全うして下さい。解決した経験を持って折伏をする時(=自分の信心に功徳を人に話せる時。聞いてもらえる時)は感無量です。

日蓮正宗の信心と功徳によって境界を上げ、問題を解決できた貴方の話を待っている人は沢山います。

自身の受けた功徳の話をする事はもちろん、問題を抱えながらも勤行・唱題によって気力の充実している様子を周囲の人が見る事も折伏となります。

(意識して振舞わなくても、周囲が勝手にそう思うのです。不思議と。自分自身は日々必死に生きてるだけなのですが…。本当に不思議です。)

日々の勤行・唱題で【広宣流布のお役に立ちます】そう念じながらお題目を唱え続けて下さい。

不思議と、自然と功徳を話せる流れ(功徳を得る=問題が解決する・解決に前進する→何となく周囲に経験を話すという流れ)ができていきます。

なのでどうか焦らず、気長に水の信心を続けていって下さい。m(_ _"m)










ここからは、管理人の余談…。

大聖人は、御本尊様を通じて多くの人々が成仏する事を願っていました。おそらくは、死後の現在もそうでしょう。

しかし、現世において「肉体がない」という事は大きなハンデです。「ここに在って、ここにない」という精神だけの状態では、お坊さんや、よくよく修行を積んだ信徒、繊細な人以外には、影響を及ぼす事は難しいはずです。

でも、喜びにテンションが上がったらどうでしょう? 魂や精神だけの状態であっても、故人にとって嬉しい情報や喜ばしいことが起きれば、元気が増す事は伺えます。

色々な考え方があると思いますが、とりあえず、大聖人が喜ぶことをしてみようと思いませんか?w

まず、自分の成仏=日々の勤行や唱題によって、功徳を実感する日々を送れるようになる事。そして、周囲の人々の成仏=自身の功徳を実感した上での、周囲の人々への日蓮正宗の紹介。折伏。

管理人は夢を見過ぎだと言われるかもしれませんが、大聖人は… 何か、考えていると思うのです。鎌倉時代に60歳まで生きたのですから、当時の寿命としては御の字だと思いますが、大聖人は多くの能力に恵まれた方です。 人生60年ばかしじゃ、とても足りなかったと思うんですよね。やりたい事は、まだまだあったはずなのです。

一般信徒の管理人が、悪い頭を巡らせて必死に折伏に動くよりも、大聖人にお出ましになって頂いた方が、多くの人々を成仏へ導けるのは間違いありません。

管理人は、生涯続けていける方法での 自行化他の水の信心によって成仏し、大聖人にお喜び頂いて、人々の成仏のために、大聖人御自身が現世に大きく影響を及ぼせるような気力を養って頂けたらと思っています。

そぅ… 特に‥「時代に合わせた信心のススメ」「時代に合わせた指導のススメ」みたいな本を、日蓮正宗の信徒やお坊さんに乗り移って  書かせるとかね‥w  オカルトにしてゴメンなさい。(;^_^A 

御仏智云々と言うけれど、その割に現在まで、その辺の方法について「これだ!」という事を言う人はいないんだもの…。今の大石寺の行き過ぎた保守の指針によって、口を塞がれている人もいるはずです。なのでいっそ、乗り移って頂くのが良いような気がしますw

革新的な大聖人ですから、乗り移って本を書く人がいても、今の超保守的な大石寺からはソッポを向かれそうです。それでも必要な内容を示唆して下さると思うのです。

今の大石寺の指針は「聞いた人の誤解による何か」を恐れて、御書に明確に書かれている事しか言えない状態があります。それが時代遅れの指導となって、恐れる心が現実を認識しようとしない状態を作ってます。 

そして現場を離れた指導となり、信徒を信心について無駄に悩ませたり、折伏が進まない原因の一つとなっていることを、一番感じているのはお坊さん自身でしょうね…。   本来、指導するお坊さんが判断・検討するべき 信仰に関わる現実への対処を、信徒に丸投げする部分がある訳ですから。

慎重になり過ぎて、大聖人の「時宜に応じて」という言葉を忘れている(避けている)ように伺えて、切ないです。(´・ω・`) 

誤解を解く方法や誤解を防ぐ方法は色々あるのに、考えようとさえしない大石寺の今の保守に傾いた姿勢は、とても勿体ない事です。正しい御本尊様を正しく保っているからこそ、勿体ないです。お坊さんこそが、もう少し御本尊様を信じて良いのではないでしょうか。



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