サイト管理人の場合

(信心のヒント 2)

サイト管理人は、こんなお話を、こう考えてみた。

管理人の考察を集めた、水の信心のヒント集。

(書籍出版後のヒント集。サイト先行の情報です。)

お話の解釈の仕方や、信心における正解については、

日蓮正宗の御住職にお伺いする必要がある内容となります。

ご留意ください。m(_ _"m)

信心のヒント(1)に比べて、管理人の考察が多いです。その分だけ、信心がお寺からズレる危険も増えています。

話半分くらいにご覧くださいませ。(~_~;)


現世安穏って聞くけど、近づいてる気がしない。
平凡どころか、大変なことが多いのですが…。


これね。そう思いますよねぇ💧 日蓮正宗あるあるだと思いますw

この問題について、管理人の想像と解釈では、こんな風に考えられます。

今の日蓮正宗では、主に「幸福の境涯」とか「本当の幸せ」とか、即身成仏・現世安穏(後生善処)という言葉で功徳を表して、詳細な内容や経過を言葉で表現しない場合が多いのですが

御書には「(信徒に対して)現世安穏ならざることを嘆かざれ」という言葉もあるんですよね。「法華経を信じる人は冬の如し。冬は必ず春となる」という言葉もあります。

つまり。ここから考えると…


【現世安穏って聞くけど、近づいてる気がしない。安穏どころか、大変なことが多い】という理由は、

【現世安穏に至るまでの途中経過として、転重軽受・更賜寿命の効果が表れているから大変なんだろう】という事になります。

もし、即身成仏までの途中経過で現世安穏を考えるとしたら、それはおそらく・・・ 「衣食住について、死ぬほど困窮する事はない。」という意味のような気がします。更賜寿命の功徳ですね。

でも衣食住に問題がなければ、万事OKで幸せなのか・何の苦しみもないのかといえば、決してそうではありません。

ブラック企業から離れにくい事態に陥っているとか、ルーズな友人や同僚の尻ぬぐいが回って来るとか、人間関係や健康問題など、衣食住以外にも困る事は色々あります。

衣食住の確保は生きるための必要最低限であって、人間、ただ息をしてれば良い訳ではないですからねw

そこで大聖人は「現世安穏ならざることを嘆かざれ」と仰っているのだと思います。たぶんw


日蓮正宗で言う現世安穏や即身成仏というのは、転重軽受・更賜寿命の意味に繋がると管理人は思います。

具体的な例としては、先祖代々続く日蓮正宗の信徒さんの家で「戦争に2回召集されて、2回とも無事に帰って来た男性」の話とか、

管理人のように、複数の難病や薬の重篤な副作用による重い後遺症を抱えながらも、深いダメージの割にその都度 短期間で持ち直し、今では2つのネットショップ運営と商品に関連した相談業(有料)を行う状態。そして外見上は健康な人と変わらない様子に見られている状態と生活。

これらが転重軽受・更賜寿命の功徳を得ている状態で、行く先の現世安穏に繋がる状態(途中経過)という事なのだと思います。


2度の戦争から無事に戻って来た男性の場合は、話だけを聞けば「凄いなぁ。功徳だなぁ」と感じますが、ご本人の立場を思うと、当時どのように感じていたかは(聞いてみないと)わかりません。

戦争で亡くなる同僚(兵士)が多い中、生きて再び祖国の土を踏み、家族と再会できた事は嬉しかったと思われますが、戦場では地獄絵図を経験したはずです。張り詰めた精神と凄惨な光景。そんな経験を2度もするというのは、非常に辛いことです。

更に、戦争の場合は帰還すれば「それで終わり」という訳ではありません。

時代的に、身体を負傷して帰国すれば名誉の負傷として胸を張れますが、精神を負傷して帰れば「家の恥」として隠される。病院では戦争神経症(今でいうPTSD)の診断によって入院し、症状が落ち着いても家に帰る事ができない(家族から身元の引き受けを拒否される)人々も多くいたようです。

また、社会復帰が順調だった人でも、高齢による認知症を発症した結果、戦争時代の記憶に苦しみ出す人もいます。

最近でも、アメリカの退役軍人のPTSDが問題となっていることから伺えるように、兵士は戦場から帰還しても苦しみが完全に終わる訳ではないのです。


現代の第三者の目で結果だけを見れば、過酷な戦場から2回も無事に帰ってきた事は有難い功徳と感じられますが、ご本人にしてみれば「戦争経験なんて1回でも大変なのに、2回もなんて勘弁してくれ💧」という心境だったはずです。

(そもそも「偏平足の場合は兵隊に取られない」「事故で足を酷く負傷し、召集に応じられない」「何らかの手続き上のミスが起きた」など、戦場に行かなくて済む方法も少しはある中で、男性には2回も召集令状が来たわけです。)

終戦後に無事に社会復帰を果たし、現世安穏の状態に至ったとしても中々… 今の日蓮正宗が言うような「幸福の境涯」とか「真の幸福」という感覚を、御本人が言葉通りに感じる事はあったのかどうか… と、管理人は思うのです。

(無事に社会復帰を果たして幸せを感じても、戦争のトラウマに人知れず苦しんだかもしれず。苦労が強かった分だけ「当たり前だろ💧 これ以上、俺の人生に何を吹っ掛けようというんだ。」という気分になるかもしれません。)

もちろん、現在その方の家は大変立派で落ち着きがあり、土地などの資産もあり、子孫の方々は安定した生活を築いておられますので、その意味で現世安穏は確かに果たされていると感じます。

(戦場に行った男性自身も、先祖代々が日蓮正宗の信徒として信心に励んでいた結果、御本尊様のご加護によって2回とも無事に帰って来たと言えそうですが。)


管理人の人生を考えても、結果だけを見れば「凄いなぁ」という事になるのですが、その結果が出てくるまでの日々は本当に大変です。

(正宗の信徒さんからも、信徒ではない友人知人からも「タフ・アグレッシブ・よく精神が保つなぁ・毎回、重いダメージの割に持ち直すターンが早い。」そういう感想をよく頂きます。)

管理人が思うには、今の日蓮正宗はちょっと… 功徳の伝え方を見直した方が良いような気がしますね。

即身成仏や現世安穏は本当の事ですが、期待値を上げ過ぎる伝え方をしています。 ^^;

上げ過ぎて、却って信徒の信心のモチベーションを下げていますw

即身成仏、現世安穏、幸福の境界を言う場合は、必ず途中経過を説明する必要があると管理人は思います。


【皆さんが幸せになるためには、まず過去遠々業現在満々の謗法罪障消滅を果たす必要があります。このために、日蓮正宗の信心を始めるとまず転重軽受・更賜寿命の功徳が必ず顕れます。

その結果として、大聖人が「法華経を信じる者は冬の如し」と仰せの苦難の時期が続きます。これは人によって、十数年で終わる人もいれば、数十年かかる人もいます。

その果てに、大聖人が「冬は必ず春となる」と仰せの通り、即身成仏と現世安穏、幸福の境界が約束されています。】

(さぁ、皆さん頑張りましょう。宿業転換、即身成仏への近道は徳を積む事です! 数十年かけるよりも、十数年で現世安穏に到達したいですよね? ね!?w さぁ勤行だー 唱題だー 御開扉だー 折伏だーw 頑張りましょう~w)


これくらい具体的に伝えても良いと思うんですよね。^^;

お寺は遥か彼方の最終目標を単独で言い放つから、無駄に期待値を上げてモチベーションを下げさせるんですよw

一応「法華経を信じる者は冬の如し。冬は必ず春となる」という御文も引用されますが、セットで説明される事は少ないですし、何より具体性に欠けます。


👀ともあれ。


日々の勤行や寺院参詣を続ける中で、現世安穏に近づいている気がしなくても、大変な事しかないと感じられても、どうか安心して下さい。

それは転重軽受・更賜寿命の功徳が確実に顕れている状態ですので、必ず現世安穏は叶います。生涯続くように、水の信心を心がけて過ごしてみて下さい。

管理人などは… たまに… 炊き込みご飯やパウンドケーキ、焼き芋などの仕込みをしてから勤行をしたりw 出前を注文してから(やって来るまでの間に)勤行をしたり…w

そんな不届きな事もしています。( ̄∇ ̄;) 

やる気の出ない時はそうやって、馬の前に人参というか、ご褒美を作っておかないとやる気が出ないのですw そんな日もありますw

いや、ご褒美を作らなくても勤行できる時はそれで良いし、中座しないで集中するのが本当です。それこそが正しい勤行で、成仏の近道ですから。

でもね。どうにも難しい、やる気が出ない時は、そんな方法も「続ける方法」としてアリだと管理人は思いますw ( ̄▽ ̄)




御書を御書のままに拝読するメリット、デメリット。 
その対策について。

(管理人の考察と提案)

「御書を御書のままに拝読する(余計な解釈を加えない。)」これは日蓮正宗の基本のようです。

このメリットは、大聖人の教えをそのままに保持する事で、御本尊様を正しく保ち、御書の通りの功徳を得る事です。

宗教として最も大切な部分を守り、後世に伝えていくために欠かす事のできない重要な基本事項です。


しかし、デメリットも同時に存在してます。

御書を御書のままに拝読するデメリットは、御書が書かれた鎌倉時代当時の社会認識が、現代のお坊さんの中で【無意識に】引き継がれるという事。

(これにより、現代社会の信徒に対して、基本的な認識が微妙にずれる事で、要らぬ誤解を招く確率が上がる。)

そして、お坊さんが信徒に対して誤った指導をした時に「御書に書かれていた事だから、間違った事は言ってない(信徒の聞き方と理解が悪いのだ)」と

無意識に御書を免罪符として利用し、自らの責任と問題から逃げてしまう事。

その結果、信徒の心が信心から遠ざかり、人に伝える事もなくなり、広宣流布が遠のき、人類の即身成仏が果たしにくくなるという事。


御書を御書のままに拝読する。それにより、御本尊様に対して正しく向き合い、適切な祈りを捧げ、人々を即身成仏へ導く御本尊様を正しく保つ。 これは絶対に必要な事ですが、デメリットを補うための対策も必要不可欠です。

誤った指導に対してお坊さん自身が向き合わず、御書を免罪符とする甘さを残しては、足元をすくわれる隙ができます。

お坊さん同士、お寺の中では通用しても、信徒と世間一般には一切通用しません。信心の姿勢や進まない折伏として、影響は確実に現れます。


「信仰自体とは関係のない事」と見て、人間としての過ちと信仰上の立場や功徳を分けて考えられるのは、お坊さんや功徳の確証がある信徒だけであって、それ以前の状態にある多くの信徒や世間一般には通用しません。大石寺は、その世間一般こそが広宣流布の鍵を握っている事を知る必要があります。

人間としての道理、現世としての道理が成っていなければ、人はついていけないのです。逆に、見せかけであってもそう感じられる状況があれば、邪宗であっても人はついていってしまう。

それを愚かと嘆く前に。蔑む前に。日蓮正宗は魂の救済、成仏の方法として本物であるからこそ、その性質を上手に利用するべきだと思います。

それは、邪宗のように人をマヤカシの言葉で騙す事ではありません。誤った指導によってトラブルが起きた時は 、僧侶と信徒ではなく、人間同士として気締めをつけて話し合うという事です。ここは死後の精神世界ではなく、現世の物質世界なのです。現世では現世としての対処が必要という事です。それを無視しては、成仏という魂の話、精神の世界に理解を得ることはできないという事です。


ここでお寺が「信徒の聞き方の問題だ」と判断する場合、広宣流布は叶いません。

(信徒が自分でその都度 御書から学ぶには、基本的な拝読の仕方を学ぶための学校が必要ですが、それも正宗は今のところ作っていませんからね。聞き方の問題だと言い切るには、信徒に向けた教育機関を作る必要があります。教学試験では、とても信徒の日常の信仰問題には対応できません。日々、御供養のためにも仕事をしている一般信徒に対して、副業禁止の下に社会と隔絶されている僧侶と同じ「御書を読め。それから質問しなさい」という時間のかかる指導では、とても解決しない事【退転しかねない諸難を前に手遅れになる事】を知って頂きたいです。)


大切なのは「お坊さんである以上、間違ってはいけない」という事ではなく。

人間である以上、間違う事は誰にも必ずあるという前提で

【あらかじめ間違った指導をした場合の対応策、適切な謝罪と指導の方法を勉強し、会得しておく必要がある】という事です。

大石寺はこの部分について、得度後の僧侶の教育を見直したり、第三者による監査機関を作るなど、何らかの具体的で効果的な対策を取る必要がある と管理人は強く思います。それは確実に広宣流布に繋がります。


ま、単に謝って、その上で信徒の話をよく聞いて、

改めてアドバイスしたら良いだけですw

そんなに難しいことじゃないはずですけど、

それができないタイプの住職さんに限って、そういうトラブルを起こしやすいというか。

「申し訳なかった。そういう事だったのですね。

それだと…難しい問題ですが、今のところはこういう風にしてはどうでしょうか。

問題が解決するよう、祈っております。」

 そんな風に言えば良いだけなのですがw


お坊さんは‥3年~5年くらい、ホテルのフロントで修行した方が良いと思うw

一時的な研修や講習じゃダメです。身に付きません。

お坊さん自身の修行だけだったら今のままでも良いでしょうが、

広宣流布を目指すなら、相手の怒りや要望から上手に必要な意図をくみ取って

上手に宥めて帰す話術と姿勢、接客技術を勉強した方が良い。

御仏智任せでは限界があるからこそ、僧侶と信徒のトラブルは起きるんです。

三毒に走る人間は云々…なんて講釈してる場合じゃありませんw

「自分の気付かなかった不備を、

将来のため、広宣流布のために改善できるように知らせに来てくれた」

という視点を持つ事が大事。


お坊さんは信徒が気に掛けないところで変に気を張って、

つまらないところで格好をつけて保身に走る。

色んな面で、それは効率が悪いのよ。┐(´д`)┌



人生が辛い時に。
サイト管理人お勧めの御書

現世安穏、後生善処。即身成仏… そう言われても、現状を思うとなぁ… (-ω-;)

そんな時にお勧めの御書を紹介します。

御講では住職さんのチョイスで色々な御書を拝読しますが、その中で、管理人は下記の御書から勤行や御開扉のモチベーションをキープしています。


【現世安穏ならざることを なげかざれ。(=嘆かざれ)】 

開目抄

法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる。

いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかへれる事を。 】 

妙一女御前御消息

参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし。是にて待ち入って候べし

南条殿御返事


この3つの御文を、管理人は常に自分に言い聞かせています。

開目抄を読むと更によくわかりますが、この3つの御文だけでも以下の事がわかります。


・大聖人は、御自身の開いた宗教について、本当によくわかっていたという事。

・御指南の通りに修行しても、現世が簡単には安穏に至らないという事を、よくご存じだったという事。

・その上で。簡単には安穏に至らずとも、四季の中で冬が秋に戻る事がないのと同様に、決して成仏への道のりが後退する事はなく、信心を続ければ成仏する事は確実であるという事。

・この信心が大変である事、即身成仏に至るまでの過程で、転重軽受・更賜寿命の功徳によって多くの困難な事象が起きる事を理解した上で、

来訪の途絶えた信徒を心配し、その身体の安否と魂(成仏)の双方を気にかけて、来訪を促し「あなたが来られるまで、ずっとここで待っていますよ。」と、温かく励まして下さっているという事。


ここから、管理人の勝手な解釈となりますが‥

その他の御書を見てもわかる通り、大聖人は実際に信徒が来訪した時には、ねぎらいの言葉を掛けられたと推察します。

現代の大石寺の奉安堂の御本尊様も、おそらくは同じでしょう。

日蓮正宗の信徒として、勤行や唱題、折伏を続ける信徒が、多くの困難を乗り越えて御開扉に来ることを、「大変な中、本当によく来たね。しばらくぶりだね。心配していたよ。待っていたよ」と きっと褒めてくれています。

現代は鎌倉時代と違って、電車や飛行機などの交通が発達していますが、それでも御開扉に行くのは大変な事です。

何よりまず、スケジュールを立てる事が大変ですからね。^^;

自身を取り巻く日々の環境に関わる信心に対する心理的な側面、体の健康状態、スケジュール管理と、そして交通費・金銭の面。それらを整えるには努力が要ります。

実際に、南条時光殿が病に体調を崩された時に、この御書(急ぎ来臨を企つべし。)は書かれています。

体調を心配されると同時に、(現代において)御開扉による功徳、謗法罪障消滅と成仏によって種々の障りが解消する事を示唆されています。


☆豆知識☆

現代では信徒の家庭に御本尊様が御下付されていますが、当然、最初はありませんでした。

しかし、交通事情などが厳しく、僧侶の人数も末寺の件数も少なかった時代、一般信徒がお寺に参詣する事は非常に難しかったので、各家庭への御下付が始まったそうです。

なので現代でも、お寺の御本尊様、特に大石寺の御本尊様にお参りする事が一番重要で、最も功徳があるのです。各末寺で定期的な支部登山が設けられているのはそのためです。

「 (-ω-;) 支部登山・・あのワイワイ・ガヤガヤと気忙しない・・疲れるなぁ💧」と思ってしまう時は、ぜひ添書登山で申し込んでみて下さい。

御開扉は【転ばぬ先の杖】ですので、魂にとって本当にお得な修行です。せっかく日蓮正宗の信徒になったのに、御開扉に行かないのは勿体ないですので。(^_-)-☆



朝の勤行が面倒な時に。
諸天善神の守護について。

毎日の勤行。とりわけ朝の勤行。これ・・・ ( ̄∇ ̄;) 面倒ですよねw

功徳を実感すると喜んで勤行できる訳ですが、それでも眠気に負けますw 体調不良にも負けますw 健康であれば仕事や学校の前は1分でも多く寝ていたいですし、体調が悪ければ、何もしないで息だけしていたいですw

それなのに、朝の勤行は夕方に比べて長いし。初座と四座があるから…。(◎_◎;) 休日だって、体調が悪くない時だって、面倒になっちゃいますw 凡夫ですものw

 

そんな時には、管理人は下記の日顕上人の御教示と御書を思い出します。


二十七、諸天善神の守護

・南無妙法蓮華経と唱える者は、法華経の行者である。その者が、心が不実であっても、智慧がなく愚かであっても、また種々の不浄な行いがあっても、諸々の戒による徳がなくとも、題目を堅く信じて唱える者は必ず菩薩、諸天、十羅刹等が、法華経の恩徳を報ずるために守護されるのである。

出典【総本山第67世 日顕上人猊下 御教示 

すべては唱題から 唱題の功徳と意義六十一カ条   大日蓮出版】


【殊に十羅刹女は法華経の題目を守護せんと誓わせ給う。此(これ)を推するに、妙密上人並びに女房をば母の一子を思ふが如く、犛牛(みょうご)の尾を愛するが如く、昼夜にまほらせ給うらん、たのもしたのもし。】

御書  妙密上人御返事


👀これ、すごくやる気になります。管理人的には「信じて唱えれば、どんなアホでも守ってくれる!」と聞こえますw どんなアホ(=サイト管理人🐧)でも!!!w

ありがたや・・ ええ、唱えますょ、唱えますょ。凡夫の管理人は、犛牛(みょうご)の尾でございますw どうか守ってくださいませw (〃▽〃) アホ丸出しの図w

あくまでも「日蓮正宗の御本尊様に、信じて勤行唱題をする人に対して」守って下さるので、初座だけをやれば良い(成仏できる)という訳ではありませんが、 朝の勤行のモチベーションは確実にアップします。


これで時間がない時、寝過ごした時、体調が悪い時でも、お水替えと三唱くらいはしっかりやれますw


まぁ・・ 本当に起き上がれない時は、広宣流布のお役に立ちますと念じながら 寝たままお題目を唱えるんですけどね。大変ながらも唱えると、一遍、二遍で少し楽になって寝てしまいます。 体調不良の信心には、それが一番効きます。

(急に全快するのではなく、まずは「痛む中でも呼吸を整えて休める」という功徳です。痛みや苦しみによる筋肉の変な強張りが解けて、息を取り戻すというか…そんな感じです。経験すると本当に有難く、不思議な感覚です。)

 



法華経の行者を守るとは、日常的にはどういうことか。
その一面について。管理人の考察です。

上述のような法華経の行者を守護すると誓った諸天善神や菩薩など、御本尊様に明記されている存在は、具体的には私たちを(現世的において)どのように守ってくれているのでしょうか。

お寺で聞く体験発表等の内容から知る事もできますが、信徒の1人1人が日常的に守護を感じる事は… あったり なかったり しますよね?w

管理人自身も「こっちは守られて、あっちはノーガード?」と思う重大な場面は何度か経験しています。^^;

大きなトラブルから救ってもらえた時は特に守護を実感しますし、日常的な問題については謗法罪障消滅のため、転重軽受・更賜寿命の功徳が顕れているという事もわかってはいますが、

「(法華経の行者を)守る」という以上は、そもそもトラブルに遭わないように守ってほしいとか、日常の困難から守ってほしいと思います。


サイト管理人では、例えばこんなケース…

〇 小学生からの難病により、身体的にも社会的にも、人間関係においても、健康であればしなくて良い苦労と危険を日常的に重ねているが、常に経済は担保されている。高額な医療費にもかかわらず、安定した生活ができている。精神衛生を保てる気力と経済基盤、物の見方・考え方、発想力、運と縁がある。

これは気休めではなく、周囲の患者仲間の弱っていく様子、自殺未遂を繰り返す様子を見ていても、自分の恵まれている部分・守られている部分だとわかる。

それと同時に、日常的に継続して寝てはいけない程に病状の変化が激しく、非常に困難の伴う生活があった。(ここ1年くらいは寝られる事が増えてきた。発症してからは30年。信心を意識してからは22年ほどかかりましたねw)


〇 2つ目の疾患であるバセドウ病について。薬が効かずに悪化する一方で、難病への影響・負荷も大きく、甲状腺手術を間近に控えていた頃。

難病の希少な治療器具が手に入り、それによって不思議とバセドウ病が落ち着いたという功徳(あるいは守護)。

それから約1年後に、バセドウ病ではなく橋本病であった事が判明。主治医から「手術をしていたら大変なことになっていた」との説明。

(その後、10年以上経過した今も寛解状態が続いており、甲状腺についてはほぼ終診の扱い。)


(^^;) ・・・うん。これが全てではないけど。もっとすごい話もあるけど。

大変な割に、それでも外見上はそう見えないらしく、周囲の理解や協力が得にくかったり、変な誤解をされたり、まぁ中々の人生です。まだ半世紀も生きてないけど。

いや、転重軽受・更賜寿命とはいえ、我ながら中々の人生を生きてるなぁw

南条時光殿は、妻子が着る服もないほど生活に困窮した時期もあったそうですが…

その後は武士として名を上げた、出世したとの事で…。

参照: 日蓮正宗 向陽山 仏乗寺 平成18年9月 御報恩御講 開目抄


実大乗教、法華経の乗り掛かった舟です。たとえ退転しても 法華経の金剛法器械は「他者によって破られる事はなく、自分で破ろうとしても、絶対に破れない戒律」ですから、転生の中で再び巡り合って、成仏を果たすまでその戒を生きる事になります。

ここまで唱え続けて乗り掛かった舟です。降りてたまるかw 生き切りましょう。管理人は信心を全うして、その先を見るのですw 現世の人生と魂の繋がり。末法における日蓮正宗での修行は、あの世から見てどういう事だったのかと。釈迦や大聖人は何を知っていたのかと。もっと現世においてわかりやすく、取り組みやすく伝える方法はないのかと。


👀 さて。(脱線を失礼しましたw)成人後から毎月の御開扉や日々の唱題を続けながら上記のような経験をした管理人の場合、彼らは一体「日常においては」何を守ってくれているのでしょうか。

上記のように書けば数行で終わりますが、上記のような日常を送るのは、それなりに大変です。 重大な交通事故や、突発的なアクシデントから守って下さる事は本当に有難いですが、どうか日常も守って頂きたいと思います。

管理人は考えた結果、これは「守る」というより「(成仏を)助ける、妙法を唱え続ける事、そのモチベーションを保つ事を助ける」という意味の方が近いと思いました。


「法華経の行者を守る理由=妙法の功徳の顕現を助けると誓った理由」について意識を向けてみます。

御本尊様に明記された存在が法華経の行者を守る事を誓った理由は、法華経のお題目が最も強い成仏の功徳を持っており、その功徳によって自身も成仏したからです。

そして。

御本尊様の功徳には、成仏に至るまでの経緯の1つとして、過去遠々業現在満々の謗法罪障を消滅させるための困難(現世で抱える諸問題)があります。具体的には「問題に遭遇する、潜在的な問題が表出する、解決に時間のかかる問題に悩む」という感じです。

(潜在的な問題=魂の抱える業や因縁にまつわる問題。これが表出しないまま寿命を迎えた場合、当然、その問題は魂が解決するべき課題として来世に持ち越されるので、即身成仏はできません。)

法華経の行者を守ると誓った存在は、自身もその功徳で成仏している事から、成仏に至るまでの謗法罪障消滅の経緯と大変さを知っているために「手伝おう・助けよう」としてくれているのではないでしょうか。

日常に継続して現れる困難を未然に防ぐことはしない(できない)けれども、唱題によって緩和するよう手伝う事はできる、と。それによって生涯にわたる信心を保ち、妙法の功徳を人に伝える折伏を促し、即身成仏を果たせるように手伝ってくれているのかもしれません。(折伏は徳を積む行為)

それを御書の中では「守る」と表記されているのではないかと。管理人の勝手な(狭い)解釈ですが、日常の中の守護についてはそんな風に感じています。

そしてもしかすると「自分の覚えていない今生の魂のテーマ(転生の目的)を果たさずに死ぬことはない」という意味でも、守ってくれているかもしれません。

もちろん、大聖人の生きていた時代の交通事情や治安、衛生環境を思うと、信徒の登山中(下山中)の身の安全を助けて、守ってくれていた事は御書にある通り事実だと思います。現在でも、大石寺参詣の往復を守ってくれていると思います。





賢者、人格者と成仏・不成仏について。
提婆達多についていかないために。
提婆達多にならないために。
提婆達多を作らないために。


賢者、人格者と成仏・不成仏について。

提婆達多の話。

釈迦を何度も殺そうとした提婆達多は、地獄に落ち、仏敵として名を残した。

しかし、一般庶民と比較した時、彼は現世において賢者の1人であった。

その一方で。

多くの人々から愚鈍と評され、提婆達多に比べて能力的に大きく劣っていた様子の修利槃特 (スリハンドク)は成仏した。


ここからわかる事は

現代でも、優れた経営者や邪宗の一部の教祖、僧侶などに見られる賢さや人徳のある様子は、現世において優秀に映り、羨望を集め、信奉者を増やすけれども、

それと「本人の魂の性質や成仏は、別の問題である」という事。

私たちは提婆達多についていかないために、この事をよく覚えておく必要がある。

目の前の優れた人物、社会的に成功している人物が邪宗の信徒だからといって、宗教的にも邪宗が優れているのでは‥と勘違いして、そちらについて行かないように注意する必要がある。

そして。

現世的に優れた人間であるほど、三毒(貪欲、怒り、愚痴)に溺れた心で優れた能力を利用し、自らが地獄に落ちる提婆達多とらないよう気を付ける必要がある。



(=ω=) 管理人は…

少しだけ、気の毒だと思う。提婆達多の状況が。


愚鈍と評される修利槃特 の話を読むと、非常に素直な面を感じる。

素直でまっすぐな心と強い志が成仏への道を開いたように見える。

修利槃特 の兄は同じく仏弟子で、非常に優秀だったが、修利槃特 はそれに強く嫉妬したり、自身の低い能力に拗ねる事なく、ただ自身の愚かさを嘆き、釈迦と兄の言う通り地道に修行に励んだ。そんな素晴らしい心を持っていた。

そして、修利槃特 は周囲からバカにされ、自身でもあまりの記憶力のなさ、至らなさを自覚する能力=智慧と、強い志を持っていたために、三毒に強く侵される余地がないほど修行に必死な心持であったことが伺える。

一方、提婆達多は現世的な能力に優れ視野も広い。釈迦の教えについても理解力が高く修利槃特 に比べて気持ちに余裕がある分だけ、三毒の入り込む隙、余計な事を考える隙があった。結果、釈迦への嫉妬を増幅させて殺傷を試み、地獄に落ちた。

成仏に至るまでの人生、魂の修行の状況としては、

修利槃特 の方が易しくて、提婆達多の方が難しい状況があったように見える。

この意味で、管理人は提婆達多の状況を少しだけ気の毒に思う。

修利槃特が苦労していないという事ではない。現世的な面では周利槃特 の方が辛い。自身の至らなさを自覚する中で、他の優秀な弟子たちを見ながら、バカにされながら自分の修行をリタイアせずに続行する事は非常に辛いはず。そんな中で修行を継続する志は、本当に凄い。

しかし、あまりの至らなさ具合に、三毒が過っても囚われる余裕もないというのは、修行の面で提婆達多よりも継続しやすい部分があったはずだ。提婆達多のように道を大きく外れなくて済むし。)

現世的には、能力の低い人間は伸びしろが大きく、小さな負荷(課題)でも成長しやすいが、能力の高い人間が成長するには、より大きな負荷(課題)が必要になる。

現世的に見た場合、修利槃特 と提婆達多はそれを地で行ったケースかもしれない。



善悪と正解・不正解の違い
適切か否かという事。


(この項目は管理人の考察です。)

提婆達多は、何を間違えたのか。

過去世において、釈迦の師匠にもなった経験を持つ魂が、なぜ道を踏み外したのか。

釈迦には及ばずとも、彼は世間一般の人と比べて知恵があり、運動や技芸などの技術も優れ、信奉者を集められるほどの人望もあった。彼が現世的に見て優秀な人間であったことは間違いないでしょう。

そんな優秀な人がなぜ、道を踏み外したのか。自身の釈迦に対する嫉妬を客観的に見つめて、適切に自制する事ができなかったのはなぜか。

これについて、サイト管理人はこう考えます。


サイト管理人は提婆達多の研究をしたことはなく、文献を集めて読み比べた事もありません。ですが、提婆達多が本当に釈迦への嫉妬だけを原因として仏敵となったのかどうかは、疑問が残ると思っています。

優秀な人は、物事の理解力や判断能力に優れているため、周囲の状況と自身の状態を客観視できます。これによって、自分の悪い心理状態を(理解力や判断力が低い人と比べて)自制しやすいです。

そういう現世的に優秀な人が、釈迦の(他人の)殺傷に及ぶほど自制心を失った原因について想像すると..、単純に嫉妬だけが原因とは言えないような気がするのです。

(もちろん、動機を総括的に見れば嫉妬であるのは確かだと思います。)

そこで、嫉妬以外の動機、殺害を試みるほどに三毒が強くなった原因について、少し考えてみました。


提婆達多は信奉者に、釈迦を害する手助けを依頼(指示)しているのですが

それは釈迦を害する理由について、信奉者に納得させるだけの切っ掛け(表向きの理由、提婆達多なりの嫉妬以外の理由、自身に向けた大義名分・あるいは虚妄)があった可能性を伺わせます。

具体的には調べてみないとわかりませんが、釈迦との日常(個人的な会話・関係)から説法・教法に至るまで、細々した部分について「もっとこうした方が良いのに。これはないんじゃないか? どうしてこうしないんだろう?」 というような、提婆達多なりの信条があったかもしれません。

サイト管理人は提婆達多の釈迦を害する行為を容認する気はありませんが、その動機や、殺傷に及ぶに至った1つ1つの小さな問題の積み重ね・経緯を考える時、2人の間には単純な善悪では判断できない要因が存在する可能性に思い至りました。

お互いの過去世からの因縁はもちろんですが、

【釈迦と提婆達多が対峙する過去の現場で何が起きて、具体的にどういう話があったのか。当事者ではない人間、その場に居合わせていない人間には、真実は見えない】

という点においても、これは確かだと思います。

ただ1つ確かな事は、対立の内容、部分部分の問題や対応について善悪がどちらにあったとしても【試みて叶わない以上は、目的(動機)や方法、あるいは時期が適切ではない=不正解という事】だとサイト管理人は思います。


提婆達多が釈迦を害した具体的な動機はわかりません。本当に嫉妬だけだったのか、部分的にも大義名分と言えるものがあったのかどうか。おそらく、最期は本人もわからない状態だったでしょう。それほどの強い三毒に侵されていたと伺えます。

(提婆達多の最期は、自分の爪に猛毒を塗り、釈迦の肌に突き立てる事で釈迦を殺そうとして失敗。釈迦に向かって走る途中で石につまづいて転び、猛毒を塗った爪を誤って自分に突き立ててしまいます。結果、釈迦は無事に存命し、提婆達多は猛毒に苦しんで亡くなりました。)

提婆達多の人生は、謗法とその罪(仏を害する愚か者、謗法者の末路)という教訓だけではなく、現世的な能力に優れた人の過ち、落とし穴という部分。また【仏教的な正解とは何か。仏教的な善悪とは何か。】を考える上で、非常に勉強になると思います。


仏教には、時に理不尽を是とするかのような話があります。現代・現世を生きるサイト管理人にとっては、「んなアホなw」と思える話があります。

衣裏繋珠(えりけいじゅ)の話とか、阿那律尊者の話、ダンミカの話など…。 わかるようで尻切れトンボ。全くわからない訳ではないけれど「ちょっとまてw 成仏とか魂とか、精神問題のケースならそれで良いんだろうけど、それ・・現世的にはなんか変。道理が通らないよ? 良い話でも何でもないよ。それおかしいよ。」 と言いたくなる話があります。

「この法話だと… こっちは解決しても、問題の発端となった部分を防ぐにはどうしたら良かったのか? 防ごうとして防げない話じゃないし、内容的にそこが重要に見えるんだけど。ケースによって実害もある訳で。そこは置き去りですか? 他の場所、他の人々で同じことが起きますよ?」 と言いたくなる話もあります。

そして、日常の問題についてお坊さんに相談しても、似たような感想になるアドバイスをもらう事があります。

極論すると、本人の成仏については精神の対処こそ大事となりますが、現世的な対処を放置しては、生きていけなくなるわけです。そこの問題を無視した話が結構ある。1つの法話の中で、精神と現実のバランスが非常に悪い部分がある。下手をすれば虐待を肯定したり、百姓一揆(解決や防御の行動)を否定するようなものなのに。

そこに気付かないで、現実問題を抱える信徒に同じ感覚でアドバイスをする状態は、説明方法の上達のために、もっとお坊さんに現世の(=世俗の)経験と勉強が必要だと感じます。たとえ同じ結論でも、より有意義なアドバイスができるはずです。

(まぁ…お坊さんにとっては

「精神領域の話を、現世の世俗を生きる信徒の身に納得できるように説明するにはどうすれば・・・?」という、難しい課題だという事もわかりますが‥。

そもそも、魂や精神の影響が物理の現世に現れる(精神先行)という点でタイムラグがあり、理解とともに現在への反映や証明が難しい上に、輪廻転生による更なるタイムラグまである訳です。

成仏や精神で考えれば、現世の自分の境遇は、重い年貢に飢えようと何だろうと 「本人のせいだ。環境や時代、周囲のせいにするな(=受け入れろ。文句を言うな)」となりますが、百姓一揆を起こさなければ生き延びる事はできず、今ほど多くの子孫は残らなかった事でしょう。現在、僧侶として生きる人にも、そうした行動で子孫を残した先祖がいる可能性はありますし、直接一揆に加わらなくても、遠隔的に恩恵を受けた人々は数多くいるでしょう。虐待や雇用待遇の改善などもそうです。

全ての人が「この理不尽で酷い扱いは、自分が悪いのだ。だから成仏のためにも文句も言わず耐えねばならない」と動かずにいたら、身分制度はなくならず、職業の自由も、人権も法の下の平等もなく、教育の普及も遅々として、現代は今よりも荒れた混沌とした世界になっていたかもしれません。

お坊さん達には、そういうバランスを考えた上で話をしてほしいですね。信徒からの相談に、法話と全く同じ感覚でアドバイスするのは無理があります。その部分がわからずに、にこやかな顔で乱暴な感覚を持つお坊さん、意外といます。世俗を生きるサイト管理人からは、世間知らずなお金持ちの傲慢さに似て見える事もあります。)


こういう現世と離れた(少しズレた)仏教的な観点は、提婆達多(優秀でありながら、強い三毒に囚われて堕ちた人)を考えると、少しわかるような気がしてきます。

末法の超絶荒凡夫であるサイト管理人の場合「理屈はイマイチわからないけれども、結果として・・・」という理解の仕方です。

問題や対応について善悪がどちらにあったとしても【試みて叶わない以上は、目的(動機)や方法、あるいは時期が適切ではない=不正解という事】です。

そして善悪や自身の信条に囚われ過ぎると、苦しみを深くし、三毒をより増して、結果的に本人が一番馬鹿を見てしまう】という事です。 


(「大きなトラブルほど善悪はつきものだ。ケジメ持って白黒つけんかい!( ー`дー´) 」と言いたくなりますが、対処しても早期に解決しない問題の場合、そこはどうか抑えて下さい。ストレスを増した結果、疲労や注意力散漫を招いて変な怪我をしたり「泣きっ面にハチ」になりやすいですから、唱題と気分転換に励んで、どうか抑えて下さいませ。(≧人≦;)  

そんな時は、信心のヒント1【三毒が戒められる理由。貪瞋痴について】を参照して、御本尊様に問題の行方を預けて、意識の視点を切り替えましょう。


(-ω-;) それにしても…提婆達多は痛ましい。

結果的に自分で制御できないほど三毒が募る状態に陥る事って、ありますよね。

生きていれば、大なり小なり…。

誰かを害する前に、自暴自棄になる前に、無茶な事をする前に、そこに気付く事。 そして、自分の目的や動機、方法に問題がないと思うのであれば、時期が熟していないと見て(耐えて)唱題に励む事。

事態が動くときは、動くものです。そして、事態が動く事なく、不思議と消滅する時もあるのです。(それ以上、考えなくても良い状況になるというか‥。状況が様変わりするというか。)


(耐えて…10年でも、20年でも30年でも、頭がハゲ上がって耐えていた事も忘れるほどに耐えて!?w

えぇもう・・ 管理人など、心臓の毛まで抜けて禿げ上がっておりますw)

サイト管理人は、そんな風に考える未熟な浅識の一般信徒ですw 


( ̄∇ ̄;) 仏教、難しいですw

その分だけ、法華経と日蓮正宗の御本尊様にはチートなパワーがあるのかも…。  そしてチートなパワーを現世の常識や理屈で考える方が、ナンセンスなのかもしれません。それほどに開きのある世界を知った上で、人々に解き明かして成仏への橋渡しを試みた釈迦は…変人だと思います💧末法に継いだ大聖人もまた、きっと…。本当に愛情がなければ、できない事ですね。(-_-;) 理解できない凡夫は、素直に唱題あるのみです。



「普段着の折伏」をして良かった事
やってみてわかる、意外で大事な事

折伏。日蓮正宗と言えば、寝ても覚めても折伏w 言葉が先行しているようにも聞こえる折伏w

サイト管理人としては、多くの信徒さんの現状を思うと日々の勤行と唱題、寺院参詣(=自行)をもっと推奨した方が折伏は増えると思えますが、そんな中でも、やればやっただけの功徳や効果が出てくるのが折伏です。何より、折伏は大聖人の願いです。(余が願いに力を添え云々… と、御書にもある通りです。立正安国のためにも折伏を! という事ですね。よくわかります。)

(・・・disってんだか、resってんだかw 

いえ、当然リスペクトですよ?w)

折伏の功徳(入信に繋がった折伏の功徳)ついては、お寺でよく言われているので信徒さんはご存じだと思います。ここでは、【普段着の折伏】についてサイト管理人が実際にやってみて気付いた意外な良い効果を御紹介します。


【 普段着の折伏の効果 】

・日蓮正宗について、自分の理解度をテストする事ができる。人に話す事で(聞いてもらえることで)自分の勉強にもなり、教義について自分の理解と信心を深めることができる。信心について意識する事が増えて、折伏のモチベーションも上がる。自分の中の無意識に邪宗の入り込む隙をなくす事もできる。

・宗教に関心の薄い多くの人や、日常としての宗教に忌避感を持つ人、宗教を非日常のイベントとして捉える人々が、宗教や日蓮正宗に対してどういう視点と感覚を持っていて、どういう方向から話すと理解しやすいのかを知ることができる。


・こういう「あたり障りない距離感の人々」との経験を繰り返す事で、やがては自分の未入信の家族や身内、親しい人たちへの折伏がしやすくなる。少しずつ、自分の信心について話すスキルが上達して、難易度の高い身近な人々への折伏の準備が自分の中にできあがってくるという意味です。

(・ω・;) 実は管理人はこれ、同時進行しちゃったから、今思うと勿体なかったと思います。もっと普段着の折伏で経験を積んでから、親しい友人に話せば良かったと思います。合計で3名。物凄い逆縁を作ってしまいました。私が至らなかったばかりに、友人たちには申し訳なかった‥凹 将来に正宗に巡り合って入信した時に、その信心は順縁の人より難しくなるかもしれない・・・💧

このサイトを見た日蓮正宗の信徒さんで、折伏未経験の方は、ぜひ普段着の折伏からトライして下さい。普段の心がけと行動が、いざという時に役立ちます。


【 ('ω')ノ 解説 】  

これは普段着の折伏として、自分が日蓮正宗の信徒である事や、日々お経をあげている事、たまに御講などでお寺に行く事などを折に触れて周囲の人に話していると、何かの拍子に日蓮正宗や仏教全般について詳しく質問される事が出てきます。

そういう時に、これまで自分がお寺で聞いた話や、読んだ教学の本、お寺の配布物などで得た知識のおさらいができます。

(数学や国語と同じです。 勉強した内容を人に話して聞いてもらえる事で、自分の理解度を確認し、強化できるという事です。)

その後は自然と自分から、教学の本や御講をそれまでよりも意識を持って聞く(読む)ようになり、日常でふいにやってくる思いがけない宗教の質問に備えたり、答えることで、自分の理解の確認や信心の強化ができます。

(お寺に誘っていない人たちから、詳しく聞かれる&聞いてもらえるという珍しいことは、最初は一過性だと思いきや、徐々に増える傾向となります。なので、自分に特にやる気がなくても、無意識に「次があれば、その時にはもっとわかりやすい回答を」と考えて、自然と勉強が進みます💦 最初はかなり緊張しました💦)

また、繰り返す事で程よく慣れてきて、説明に意識が偏りすぎる事なく、お寺に誘うことができるようにもなります。観光的なノリで「よかったら、お寺に来てみる?」と。

(もちろん、相手の返事は気にしない事が大事。NOでも気にしません。でも、お寺に誘う事が最も大事です。これは普段着の折伏ですから、ひとまず相手からは「日蓮正宗のお寺に縁のある人なんだな」と認知されればOKです。

もちろん、相手が「行ってみたい」と返事をした場合には、予想外の言葉でも慌てず、焦らず、スムーズにお寺へ案内しましょう。)


【 参考 勉強になった質問 】

これまでサイト管理人が受けた質問の中で、最も勉強になった質問を紹介します。

「ご両親は健在なのに、どうして家で毎日お経をあげるの?」

これ。宗教の話をしていない時に、唐突に聞かれました。

タイミング的にも、内容的にも、瞬間的に頭の中が真っ白になりました💦

(両親が生きていても、先祖は亡くなっているのでそのために・・・ といっても、相手の疑問はそこではない事がわかります。そこはお盆とお彼岸で十分でしょ、という感覚なのが伺えます。)

普段着の折伏をしていると、信心の抜き打ちテストのようなシチュエーションは起きやすいですが、その中でもこれは最も印象に残る質問ですw どこから回答するべきか!? 一瞬のうちに色々な事が頭の中を過りました。(;´▽`A``

で。どう回答したかというと、ひとまず・・ 

先祖供養、故人の供養がどうして必要か、という事から話しました。そもそも「成仏するための修行は、体をなくした死後に自分ではできない事なので、体を持って生きている人、故人の子孫やお坊さんが祈ってあげる必要がある」と、お寺で聞く説明を思い出しながら伝えました。

そして「実は、死後に成仏するためには、生きている間に本人が成仏に向けて修行をする必要がある。お坊さんが法事のない時でも日々お経をあげているのは、そういう理由もある」と伝えました。

そこまで話してようやく「先祖の魂の状態は生きている子孫に影響を及ぼすので、日蓮正宗では常盆常彼岸として毎日先祖供養をするし、日蓮正宗では即身成仏を目指すので、お坊さんだけでなく、信徒も毎日お経をあげる」という日蓮正宗の話ができました。

この後、即身成仏の意味について、邪宗との違い(歴劫修行との違いや、末法における唯一の成仏への修行が法華経という話など)を伝えたかったのですが、途中で時間切れとなりました💦

日蓮正宗の信徒としては、そこからが一番大切な伝えるべき話だと思うのですが、それでも・・唐突な質問に、よく言葉が追い付いたと自分では思います。

話している間は頭の中が真っ白で、最初は自分が何を話しているかわからないほど慌てていたので‥💦


「両親が健在なのにどうしてって、え? そこから!? Σ(゚∀゚ノ)ノ  いやでも、お坊さんしか読経しない宗派もあるし、変な質問ではないっていうか、葬儀の後は家で故人の写真に手を合わせるだけの人もいるし‥ ああでも、この段階の人には、どこから説明を!? 」

世間一般の宗教に対する意識を具体的に知る上で非常に勉強になる良い質問で、子供のころから日蓮正宗で日々信心をしている自分との(宗教全般に対する)認識の差を自覚し、将来の折伏に活かすうえで本当に良い経験でした。

ですが、その瞬間は完全に抜き打ちテストですw 相手が興味を失わない内に説明する必要があるし、じっくり考えていられないし、間違えて下手なことは言えないし‥ もうテンヤワンヤですw Σ(゚Д゚;≡;゚д゚)

常盆常彼岸の話あたりから、ようやく意識が戻ってきたような感じでした💦

なのに、肝心なところでタイムアウト!(>ω<;)

その後・・ 緊張が抜けてボーっと脱力した状態で、御本尊様にお題目を唱える管理人がいましたw 

よく真っ白な中で瞬時に話したものだわ… ( ゚ ρ ゚ )ボーw

「話させてくれてありがとう。静かに聞いてくれてありがとう。次はもっと、適切に話ができますように…」と。

この時だけでなく、信心の抜き打ちテストの後は、いつもそう思いながら唱えています。

もちろん同じ抜き打ちテストでも、不思議と教義についてピンポイントで話させてもらえる人(聞いてくれる人)もいるので、そういう時は驚いても、割と落ち着いて答えられています。(これが噂の「変化の人」かな? 五十展伝とか、十界互具とか、折伏の理由=二乗作仏などの話を自然とさせてくれる人、自然に質問してくれる人がたまにいます。感謝です。)

そんな訳で、普段着の折伏は「自分が日蓮正宗の信徒である」と知らせるだけで、折伏や入信に繋がるとても良い勉強ができるので、お勧めです☆彡


☆ポイント☆

急な質問に頭が真っ白になっても何とか言葉になったのは、お寺で住職さん達が何度も話してくれているお陰です。たとえ同じ話が繰り返されても、御講や各種イベント・お盆・お彼岸は行くべきです。ちゃんと住職さんの話を最後まで聞きましょうw お経だけで帰るのは勿体ないです。 いや、管理人もやった事あるけどさw

ちゃんと聞いておくと、こういう時に役立ちます✨ 耳にタコが張り付くほど聞くからこそ、信心の抜き打ちテストに対応できますw

あと、質問を聞いた時に「お寺で聞いた(教学の本や体験集で読んだ)どんな話を選択すれば良いか」という問題には、もう… 普段の唱題あるのみですw

サイト管理人の場合、急な予想しない方向からの質問には手が震えるほど慌てるので、説明のとっかかりは恐らく、御本尊様か大聖人か歴代の猊下やお坊さんか・・諸天善神か‥誰かが助けてくれている気がします。

そもそも、私の=お坊さんではない素人による  信心や教義の話を静かに聞いて納得してくれる「変化の人」を遣わして下さった上での事と思うので、本当にありがたいです。(;´▽`A`` 

まだ入信に繋がった人は一人もいませんが、少しでも日蓮正宗の話をさせて頂けることは、自分の修行にもなっていると本当に思います。



余談:みんなの折伏
その折伏は、誰かの引継ぎかもしれない。

周囲の人に自分が日蓮正宗の信徒であると知らせておくと、稀に見知らぬ信徒さんからの引継ぎを受ける事があります。

「あぁ、サイト管理人さんは日蓮正宗だったのね。実は私、以前に日蓮正宗の人から折伏を受けて、すごく困っちゃったの。これがさぁ‥ その人自身はすごく良い人で、普段から親切だし、悪気はないのがわかるだけに(折伏に)熱心すぎて怖くなっちゃってね。どうしてあんなに熱心なの?」

という風に、相談を受ける形で折伏を引き継ぐことがあります。

普通は同じ宗派の人間とわかれば警戒するところを、サイト管理人を信じて話してくれたことに感謝するとともに、「せっかく開いてくれた心と勇気を無にする事はできない」と緊張し、慎重に対応しました。

どこまで理解してもらえるか不安でしたが、何も伝えずに帰る事はできません。

まずは「困った」と言っている相手に共感を示しながら、マイナスに傾いている日蓮正宗の印象をゼロに近付ける事を目標に、ダメで元々、できるだけの事をしようと思いました。

(詳しく聞くと、その信徒さんは相手の仕事中の短い休憩時間に、何度も「私の車で今すぐお寺に行こう」と誘ってきたそうです。折伏にあたり、相手の状況や立場、TPOを考慮しなかった・気付けなかったという問題です。)

サイト管理人からは、熱心な折伏の理由として二乗作仏と五十展転の話、経典による十界の成仏可能な範囲の違いなどを紹介したところ、「そうか。大きな功徳のある話を独り占めしてはいけないから、他人に勧めるんだね。なるほど。それならあの熱心さも納得だ」と言ってもらえました。

「詳しい理由がわかったからもう大丈夫だけど、管理人さんに聞かなければ怖いままだった。ありがとう」とまで言ってもらえて、サイト管理人の方こそ恐縮でした。帰る時には、部屋の奥で話を聞いていたらしいその方の娘さんまで出てきて私に深く頭を下げてくれたので、緊張しながらも伝えて本当に良かったと思えました。


ここで、管理人はある事に気付きました。

相手のTPOを考慮できずにお寺へ誘ってしまった信徒さんには問題がありますが、それは純粋な好意と熱意による行動だったために、相手に恐怖を抱かせても「(同じ日蓮正宗の信徒さんに)聞いてみよう」と思うだけの余裕を残す事ができたという事。強い防御反応を誘って、相手を怒らせることがなかったという事。

また、サイト管理人には絶対に不可能な「TPOを考慮せずに何度も強くお寺に誘う」という先人の積極的な行動があったために、折伏に対して緩く慎重な管理人でも法華経について話す機会を得られたという事。

相手が(同じ宗派の信徒さんから迷惑を受けたにもかかわらず)話を聞いてくれる心の優しい人であった事に感謝するとともに、御本尊様の采配に不思議を感じました。

折伏は自分一人で行っている訳ではない事を、実際に知る機会となりました。

そして、何よりも…【いかに純粋な好意でも、相手に恐怖を与えるような誘い方をしてはいけない】という教訓を得ました。(;^_^A 「人のふり見て我がふり直せ」ですね。

受け身な折伏が多いサイト管理人ですが、先人の失敗に学び、好意や熱意のあまり相手のTPOを忘れる事のないように、重々気を付けたいと思います。m(_ _"m)

自分が日蓮正宗の信徒であると伝える以上は、世間から見て「集団全体」として映る事をある程度自覚して、日蓮正宗を紹介していこうと思いました。


(・ω・) あ! そうそうw

こういう折伏の場面ごとに応じた方法は、普通は所属寺院の班長さんなどと行く折伏(お寺の折伏実行日)で学べると思うのですが

サイト管理人の場合、複雑な健康状態のために、健康な多くの信徒さんと一緒に行動する事ができないので、自分なりに工夫して(いつもぶっつけ本番でw)1人で実行する事が多いです。

もちろん健康な信徒さんでも、お寺の折伏日とスケジュールが合わない事は多々あると思いますので、サイト管理人のような緩い折伏も参考にして、御自身の生活状況に合った取り組み方を見つけられる事を願っています。

焦らず、気負わず、ひとまず「日蓮正宗の信徒です」と周囲に知らせておくと、知らない内に車輪が回り出すので、あとは御本尊様が御縁を作ってくれます。



修利槃特(スリハンドク)の話と
管理人の感想

【修利槃特(スリハンドク)の話】

抜粋(あらすじ)

過去世の罪により、現世では自分の名前も覚えられないほど記憶力に乏しく生まれついた修利槃特(スリハンドク )。彼は修行仲間の僧侶からも、世間からも馬鹿にされて泣いていました。

釈迦は修利槃特 の状態をよく理解した上で「お前は智者だ。自分を愚かと知る者には、智慧がある。自分に智慧があるとみだりに口にする者こそ、本当は愚かなのだ。」と教え励まし、他の弟子とは異なる修行、記憶力に乏しくても何とか修する事ができるような、過去世の罪障消滅を兼ねた修行を指示します。

(「われ塵を払う、われ垢を除かん」と言いながら、毎日すべての僧侶の草履を掃除する修行。)

修利槃特は釈迦の言葉通り真面目に、素直に、地道に修行に取り組んだ結果、三毒について悟り、舎利弗に肩を並べるほどの(釈迦の)高弟となりました。

そして、悟りを得た修利槃特は釈迦の指示により、500人の僧侶に三毒とその対処について説法をします。この500人の僧侶たちは、記憶力に乏しい修利槃特をいつも馬鹿にして、さらに「説法の場で恥をかかせてやれ」と貶めようとさえしていました。 しかし修利槃特 の説法を聞くと感動し、自らの愚かさ・傲慢さに気付き、恥じて涙を流しました。

三毒については仏道修行の中で誰もが聞いた事のある話で、珍しい内容ではなかったのですが、修利槃特の言葉は僧侶たちによく届き、感動させました。

こうして修利槃特の初めての説法は大成功をおさめ、煩悩を断ち切れずにいた500人の僧侶は彼の説法によって阿羅漢果を得たとの事です。

釈迦は、記憶力に乏しい修利槃特 が一気に悟りを得た理由を聞かれて、こう答えました。

「お経文をいかにたくさん暗記しようとも、行ずることの方が尊いのです。たくさんの経文を暗記しても、文の心がわからなかったならば、何の功徳もありません。たった一つの経文でも、正しく理解し、修行したならば、大きな功徳があるのです。」

(あらすじ 終わり)


この修利槃特の 話から、サイト管理人は下記の3つを学びました。


1.成仏にあたり、三毒がいかに大きな障害となるか。自分の中の三毒(貪・瞋・痴)を排除する事・振り回されない事が大切という事。

多くの教えがある中で、記憶力に乏しい修利槃特に釈迦がまず教えたのは「三毒について」だったことから、三毒を理解し、制御する事は成仏にあたり最も大切な事なのだと推察できます。

これは現世的な能力において 、修利槃特 よりも遥かに優れていた提婆達多の堕ちた理由(釈迦の殺傷を何度も試みた根本的な動機)が三毒にある事からもわかります。


2.どんな事があっても、正しい修行を素直に、まじめに、地道に続ける事が成仏の近道という事。

修利槃特には修行中に助けてくれる人もいれば、邪魔をしてくる人もいました。助けてくれる人とは、修利槃特 が 「われ塵を払う、われ垢を除かん」の言葉を忘れてしまった時に教えてくれる人々のことで、邪魔をする人とは、修行に取り組む姿を馬鹿にする人々のことです。

初めての説法をする時に「恥をかかせてやれ」と修利槃特 を貶めようとする僧侶たちがいた事を思うと、修行中にも馬鹿にするだけでなく、何らかの態度で具体的に邪魔をする人々もいた可能性があります。(管理人の勝手な想像ですが。)

しかし修利槃特は何があっても、どんな思いを抱えても、ひたすらに釈迦の言葉通り(=正しい修行に)正しく励んだ結果、修利槃特 は正しく文の心を理解し多くの人が驚くほどの速さで悟りを得たという事。


3.修行には、経験者の言葉が効果的という事。

釈迦や高弟たち(兄弟子たち)の説法だけでは成仏に至る事が難しい人々でも、実際に自ら経験を積んだ上で三毒を悟った修利槃特の説法 により阿羅漢果を得ることができた。そこから、仏道修行には、机上の学問や説法で(=頭の中だけで)理解した人の言葉よりも、経験者の言葉の方が効果的であるという事。


修利槃特の話からはこの3つだけでなく、 他にも色々な事が勉強できますので、次の項目に全文を記載します。 釈迦の言葉から「暗記バカでは意味がない」とか、三毒の他に慢心が修行や成仏を妨げる事、学問よりも行じる事の方が大切だという事、最初は理解できなくても、行じていけば次第に理解できるようになる事もわかります。

日蓮正宗での勤行や唱題、御開扉、折伏もそうです。本当に・・。やればやった分だけ、功徳を得られてわかるようになります。続けていけば少しずつ、御書の話も住職さんの話もわかってきます。

👀あらすじには入れなかった話からも、仏教における罪と結果など、修利槃特の話は 色々勉強になります。 次の項目をぜひ読んでみて下さい。

出典は【 迦陵頻伽声  著者:岩切仁道  和党編集室 】です。

著者の岩切さんは、日蓮正宗の住職さんです。御安心ください。m(_ _"m)



(余談。ちょっと長いです💧 読まずに飛ばして下さいw)

サイト管理人は修利槃特の話 を、登場人物それぞれの状況・背景や心情を想像してゆっくり読んでみたのですが、慢心について・・・お坊さんたちが言うほど簡単な話ではないという印象を持ちました。

迦陵頻伽声 には多くの話が掲載されていますが、どのお話もテーマに関わらず読んでみると、意外なところで勉強になります。そして、御講や色々な住職さん達の言葉を振り返って思うのです…。

仏説を結論ありきで弟子や信徒に伝えていたら、理解されないのも当然だ。弟子の得度者相手なら「御書を御書のままに」で押し通せるし誤魔化せるけど、世俗の信徒を相手には通用しない。

大聖人の仏法は正しく、そのままで完成されている分だけ「何も足さない、何も引かない、余計な解釈を加えてはいけない(完成されているので、解釈の余地もない)」という事はわかるけど、今の状態は、信徒の理解と信心修行を進めるためにお寺の努力がもっと必要に見える。

なんていうか、やっぱり世俗の経験不足だねw 仏教の話は本質をついてる部分はあるけど、そのまま世間の状態に安易に当て嵌めて言う姿勢はいい加減にやめて、世俗ではどういう日常に当たる事なのかをもっと具体的に勉強して、伝え方を見直した方が良い。今のままでは多くの信徒に理解されず、信心も折伏も進みにくいままだ。幽霊信徒が復帰するにも程遠い。

それができないなら、大学や専門学校、あるいは私塾でも作って信徒にもっと勉強する場を作る方が良いと思うなぁ‥。御講や教学試験だけでは、資料や文献の読み方や探し方、御書の古文としての読み方まで「御書を日常に役立てられるほどには」勉強できませんから。

一般に大学は、単に研究する場所というだけではなく、疑問に思う事を「どうやって調べたら良いか」「テーマに応じて、どこにアタリを付けて見ていけばいいか」を勉強するところでもあります。基本中の基本である「専門書の読み方を知る場所」というか。課題を通してそれを勉強するわけで、そこが最も大事です。(大学の一番の価値は、実は課題の出来具合よりも、研究の前提となる基本的なスキルを養う事だと思います。)富士学林を一般信徒に開放できないなら、信徒用の学校を別に作ってほしいですね。

管理人は狭いお寺の中で、お坊さん同士でお互いに揶揄してみたり、自分を必要以上に戒めてみたり… という光景を見た事もありますが、なんというか‥お坊さん。外を見ようよ。もうちょっとさw 

自己の研鑽に励む姿は立派だけど、正しい内容を、的外れな場面で言うケースも結構あるから、もうちょっと外を見て世俗を経験してほしいな。^^;  今の様子だと、まとまった社会経験が10年くらいは必要じゃないかな?

結論そのままとか、極論でまとめてしまう仏説を当てても、世俗を生きる信徒の理解や信心修行は進まないです。人間はそんなに簡単じゃないょw 正しいことを言うだけで信徒の信心修行が進むなら、そんな簡単な事はない訳でw

お坊さんが世俗をメディア情報だけで理解したつもりになっていたら、的外れな助言は改善されず、信徒の信心は進みません。世俗の社会経験が積めないなら、信徒が勉強するための学校を作ってください。

「つべこべ言わずに行じればわかる。頭では理解できても、心が理解できない状況は多々ある。だから行じる事がまず先で、それが全てだ」それはその通りです。サイト管理人も経験済みです。

(たとえば三毒や慢心その他諸々を理解したところで、それについて適切に対処できるかどうかは、自分の意識だけでは難しく、御本尊様への信心修行が欠かせません。現在の意識だけでなく、自分の心身のスペックともども、過去世からの因縁が絡んだ結果である故に。現世の問題だからといって、現世の理屈だけでは測れず、解決できないという遣る瀬ない事実。だからこその法華経です。だからこそのお題目です。どんな馬鹿でも、理解できずとも信じて行じていけば成仏できるという教えです。 そしてちゃんと・・・信じて行じた分だけ、気分転換にも、わずかな息継ぎに手を貸してくれる。法華経の行者を守護し、修行を励ましてくれる存在もいる。 こんなけしからんサイトを作った管理人ですが、結論の一部については経験上、わかっているのです。)

行じ続けて一端であっても功徳を経験したサイト管理人は「つべこべ言わずに行じれば良い。それが最も近道だ」という事をわかっているのですが、それはよくよくの環境背景がある人間でないと実行し続ける事は難しく、多くの人には理解できない(理解されない)のが現実です。

(たとえば難病、極端な経済苦、極端な精神不調、血で血を洗うような酷い人間関係の縁など。「理屈がどうでも、まずやってみよう。とにかく何とかしなければ。他に手がない」という状況に常にある人でないとモチベーションは保ちにくく、実行の継続は難しい。

それだけ現世では、宗教の必要性を感じにくいのです。魂や死後の世界は目に見える世界ではなく、その一部が今世に現れていても非常に気付きにくいのです。)

現代は科学技術が進歩して、国民の大半が天候に左右される農業のような第一次産業の従事者ではありませんし、昔の人ほど「人力では叶わない事、しかし生活に必要不可欠な今日明日を左右する問題」に直面する事が少ないです。

第三次産業の従事者が多い現代では、人間関係の問題は昔以上に多発し、複雑化しています。その分だけ、言葉や理屈が昔以上に重要な位置を占めている時代とも言えるでしょう。そこに世俗の社会経験が少なく、御書にないことは言えないという縛りまである住職さん達では、信徒への適切な指導や助言が難しく、結果的に信徒の信心・行動のモチベーションを上げる事は更に難しい。

そんな状況で日蓮正宗の信徒が修行を継続するには、信徒が任意で学べる学校を作り、少し間口を広げた方が、信心に積極的に取り組むきっかけとして 有益ではないかと思うのです。

「社会経験といっても、御本尊様への誓いや修行、祈念する能力を保つ観点から、どうしても副業は禁止で僧侶からは動けない。信徒が自分で登ってきなさい」と言いながら、教育機関も作らないのではそれこそ・・怠慢ですw 夏期講習や教学試験だけでは「日常で困ったら御書を読んで考えて、一人で対処する」という事ができるレベルには学習が追い付かないんです。

「御書にないことは言えない」をどんな場合でも貫いて、肝心な時に本堂の裏に消えてしまう「世俗の現実問題に弱く、極端に及び腰な住職さん」が一部に存在する状況ではね。



修利槃特(すりはんどく)の話。
出典:迦陵頻伽声  著者:岩切仁道  和党編集室

 

迦陵頻伽声(著者:岩切仁道  和党編集室 )から、修利槃特のお話を記載します。著者の岩切さんは、日蓮正宗の御住職です。著者紹介によると、出版当時は妙長院に赴任されていたそうです。

迦陵頻伽声 は、御住職が普段の御講でお話しされる内容を本にされたとの事ですので、非常に勉強になります。

転記にあたっては、句読点を含めて原文のまま記載していますが、読み仮名については2か所、カッコ書きでサイト管理人の付け加えたところがあります。

・一偈(いちげ) ・著(つ)かない

また、ネット掲載のため、改ページの代わりに場面ごとに4つの区切り線を入れました。【修利槃特が悟りを得るまで/500人の僧侶に説法をする話/修利槃特の過去世の因縁/王城での出来事/岩切御住職のお話と、大聖人の御書】

それでは、ここから修利槃特 のお話の始まりです。


ここから
迦陵頻伽声(著者:岩切仁道  和党編集室 )【修利槃特 (すりはんどく)】
転記開始。

【 修利槃特 (すりはんどく)】

 釈尊のお弟子の中で、十六羅漢の一人でもあります修利槃特(すりはんどく)尊者についてお話し致します。この修利槃特尊者につきましては、『法句譬喩経巻第二』・『根本説一切有部毘奈耶巻三十一』等に詳しく説かれております。

 昔、インドの舎衛国(しゃえいこく)の、あるバラモン(司祭者)に、二人の男の子がおりました。

 お兄さんを摩訶槃特(まかはんどく)と申し、大変優れた頭脳の持ち主でありました。

 弟を修利槃特と申します。この修利槃特は大変頭が悪く、自分の名前を覚えことができず、自分の名前の書かれた板を首にかけていたそうです。

 世間の人々は、修利槃特のことを「馬鹿の槃特」「馬鹿の修利槃特」と呼ぶようになりました。

 やがて、御両親は亡くなり、摩訶槃特 ・修利槃特 の兄弟が残りました。兄弟二人は大変仲が良く、いつも一緒におりました。

 後に、兄弟は釈尊のお弟子になりました。兄の摩訶槃特はあらゆる煩悩を断ち切って、阿羅漢の位になったのであります。しかし、弟の修利槃特の方は、そう簡単にはまいりません。

 摩訶槃特 は修利槃特に一偈(いちげ)を授けまして、これを一生懸命暗誦するように勧めました。

 その一偈とは、

「 守口摂意身莫犯 如是行者得度世  ( しゅくしょういしんまくぼん にょぜぎょうじゃとくどせ = 身体と口と心に悪業を作ってはいけない。正しい思いをもって、そして、無益な苦しみから離れなさい)」

との教えであります。

 一生懸命になってこの一偈を覚えようとしましたが、三年間、結局、覚える事はできません。

 兄の摩訶槃特は、弟は、到底、普通の方法では。御法門を暗誦することも、仏道修行をすることもできないと知って、心を鬼にしまして、

「このバカ。大バカ者。お前は世界一の大バカ者だ。お前が僧侶になって一体どうなるんだ。無駄だから今すぐここから出て行け」

と言い渡しました。

 追い出された外で修利槃特は大声で泣きました。

 その時、釈尊がそこをお通りになって、泣いている理由を問われたのであります。

 すると、修利槃特は、

「私は生まれついての大バカ者で、今まで一偈も暗誦することができません。そして今、ついにお兄さんにまで見放されて泣いているのであります」

と答えました。

 釈尊はそれを聞いて、お叱りにはならなかった。それどころか忘れる事を「頼もしい」とお褒めになりました。

 人は大事なことは忘れるくせに、つまらないことを覚え過ぎております。場合によっては、忘れる事も大事なのであります。そして、修利槃特に

「愚人、自らを愚と説かば、これを名付けて智者となす。愚人みだりに智と言わば、これを名付けて愚痴となす」

と一偈を説かれました。

 即ち、愚かな人が自分を「愚か」と言ったならば、これを「智者」というのであり、愚かな人が「自分は智慧のある智者だ」と言ったならば、これが本当の「愚人」であると説かれたのであります。

 修利槃特は生まれて初めて「智者」と言われました。それも仏様にです。

 そして、釈尊は修利槃特に、

「われ塵を払い、われ垢を除かん」

との二句を授けられました。

 しかし、修利槃特はこのわずか二句も覚える事ができません。

 この事を見て、釈尊は修利槃特の過去の罪障が、甚だ深いことを知られ、この罪障消滅のために一つの行を授けられました。

 それは、全ての僧侶の履物を拭き清める事であります。

 そして、泥を落としながら口に。

「われ塵を払い、われ垢を除かん」と唱えさせました。

 当然のことながら、他の仏弟子たちは一日で、その二句を暗記しました。更に、舎衛国の仏法を信仰している人も全て、この二句を暗記してしまったのであります。しかし、修利槃特にとっては、このわずか二句を、なかなか覚える事ができなかったのであります。

毎日毎日、たくさんの僧侶の履物の汚れを落とすということは、大変な事であります。しかし、素直な修利槃特は少しも嫌がることなく修行に励み、口に

「われ塵を払う、われ垢を除かん」

と唱えました。

 すると、一日一日、修利槃特 過去の罪障が少しずつ消滅してゆき、ある日、ついに悟りを開くに至ったのであります。

 それは、「塵」とか「垢」というのは、単に履物についている塵や垢ではなく、人間の心の中の塵や垢である。その心の中の塵や垢は一体何か。それは貪瞋痴(とん・じん・ち)の三毒である。

 貪とは、むさぼりの心、ケチな心、欲望の心であり、瞋とは、瞋り(いかり)の心であり、痴とは、愚かな、自分本位の心である。

 この三つの塵や垢を払い落とす事が大事なんだと悟ったのであります。さっそく、槃特尊者は釈尊のもとへ行き、そのことを報告しました。

 すると、釈尊は大いに喜ばれ、修利槃特に、ついに阿羅漢の位を許されたのであります。


 釈尊は、修利槃特に比丘尼に説法をするよう命ぜられました。比丘尼とは、女性の僧侶、尼さんの事であります。釈尊の御弟子の中には五百人の比丘尼、尼さんがいたわけでありますが、釈尊は、この比丘尼達のために弟子の中で最も優れた高弟といわれる方々に、毎日交代で説法教授するように命じられておりました。

 と言いますのも、女性を教化することは、今も昔も変わらず、大変難しいことであります。

 修利槃特は、その女性五百人の比丘尼に対して、説法せよと釈尊に命ぜられたのであります。

 これを聞いた比丘尼達は、心の中で、修利槃特を馬鹿にしておりましたので、慢心を起こしました。

「私の方が先輩だ」とか、「私の方が仏教の事を知っている」とか、「馬鹿の槃特 」・「馬鹿の槃特 」と散々こき下ろした挙句、一人の比丘尼が

「明日、あのバカの槃特が説法する時、私たちが先に『われ塵を払い、われ垢を除かん』と言って、恥をかかせて、笑ってやりましょう 」

と提案しまして、皆それに賛成したのであります。

 翌日、いよいよ槃特尊者が比丘尼達の所に現れました。

 五百人の比丘尼達は、皆ニヤニヤと笑っております。

「さぁ、今から、このバカの槃特に恥をかかせてやろう 」

と心に思っていたのであります。

 槃特尊者は、手を洗い、口をすすいで、高座に登られました。槃特尊者にとって、生まれて初めての説法が始まりました。

 すると、それまで恥をかかせてやろうと思っていた五百人の比丘尼達の口が、だれ一人開かず、皆ポロポロと涙を流して泣き出したのであります。

 五百人の比丘尼達は、自分達の思い上がった心、汚い心に恐怖と恥を感じて、その涙が止まらなかったのであります。

 そんなことは、何一つ知らない槃特尊者は、「われ塵を払い、われ垢を除かん」の二句を説き、貪瞋痴の三毒が心に著(つ)かないようにと、仏道修行の方法を説き教えたのであります。

※ 著く(つく)= 着く・付く の意味

大辞泉などの辞書の記載とは異なるが、昭和8年の小説「キド効果 海野十三(著)」にて

「列車が興安駅に著くか著かない裡に」という記述がある。文脈的に「著く =つく」と読める。

 槃特尊者にしてみれば、生まれて初めての説法であります。ですから、決して上手ではありません。上手ではありませんが、心を込めて一生懸命説法しました。別に珍しい話ではありません。今まで何度も他の人から聞いた事ばかりであります。

 すると、どうでしょうか。この槃特尊者が、まるで釈尊が御説法をされているように感じられたのであります。

 そして、今までどんな立派な方々が御説法されても、煩悩を断ち切れなかった比丘尼達が、この槃特尊者の御説法によって、煩悩を断ち切ることができまして、五百人の比丘尼達がそろって阿羅漢の位に登ることができたのであります。

 比丘尼達は、心を込めて、槃特尊者を礼拝しました。


 時に、釈尊の御弟子達が集まって、釈尊に修利槃特尊者の因縁について尋ねられました。

即ち、

「槃特 尊者はなぜ、御自分の名前も覚えられないほどの世界一の愚か者であり、一旦、悟りを開くと、あっという間に舎利弗尊者に肩を並べるほどの高弟となられた。これには、一体どういう因縁があるのでしょうか」

 この問いに対し、釈尊は次のようにお答えになりました。

「昔、迦葉波仏(かしょうはぶつ)という仏様がいらっしゃった時に、二万人の御弟子がおられました。その中で、最も優れて頭の良かったのが、この槃特 尊者 である。槃特 尊者 は仏様の教えを全て暗記し、人々から大法師として崇められました。しかし、槃特 尊者 は次第に慢心を起こし、他の弟子たちをバカにするようになりました。物惜しみの心を起こして、人々に法を説かなくなったのであります。つまり、

『自分は頭が良い。他の者は皆バカだ。そんなバカのために説法したくない』

と思い、人に法を説かないという慢心の科(とが)と物惜しみの科との二つの罪を犯し、そして、命終したのであります。

次に生まれ変わった時は、仏様のいらっしゃらない時代で、勿論、仏様の教えもない時代でありました。

その時、槃特 尊者 は猪を殺して、その肉や皮を売って生計を立てるという仕事に就きました。

数えきれないほどの猪を殺し、しかも「かわいそう」という憐愍(れんみん)の心を起こすこともなく、ただただ一円でも多くお金を稼ぐことを目的としておりました。ある日、川で溺れた時、一人の縁覚(ひとりで悟りを求める人)に助けられました。

槃特 尊者 は、その縁覚に恩返しをしようと思って、縁覚の住する所に行きました処、そこには五百人の縁覚がおりました。

槃特 尊者 は、どの人が自分を助けてくれた縁覚か判らなかったので、その五百人の縁覚に御給仕をして恩返しをしたのであります。

そして、命終して、今世に生を受けたのであります。

昔、大法師だった時、人を軽蔑し、人の為に法を説かなかった罪と、多くの畜生を殺した罪によって、今世には、自分の名前も覚えることができないほどの愚鈍な者として生まれたのである。

だから、君達も、決して法を説くことを惜しんではいけない。きれいな心で、人の為に法を説きなさい。そして、全ての生命に愍(あわれ)みの心を持ちなさい」

と言われたのであります。


 釈尊は、この槃特 尊者が過去世の罪障を消滅して、今世には立派な僧侶になった事を世間の人々にも知らせたくて、槃特 尊者と三百人の僧侶をお供に、波斯匿王(はしのくおう)のお城に向かいました。

 お城には門番がおりまして、門番は釈尊と三百人の僧侶をお城の中に入れましたが、槃特 尊者を見るや、槃特 尊者を馬鹿にして、お城に入れなかったのであります。

 槃特 尊者は一人門の外に残されました。

 槃特 尊者は、

「今日は、釈尊の御給仕をさせて頂く為にお供してきたのに、釈尊とはなればなれにさせられてしまった。それならば、この門の外で御給仕をさせて頂こう。」

と思いまして、釈尊の御姿を思い浮かべ、お給仕の真似ごとを始めました。

 それを見ていた門番は、

「又、バカの槃特 が変なことをやり始めた」

と思ったのであります。

 そのころ、お城の中では、大変なことが起こっておりました。

 釈尊がお城に着くや、水の入ったタライが、空中に浮かんで近づいてきた。よく見ると、そのタライには、人間の臂(ひじ)から先が付いていたのであります。

 次は、水の入ったコップが、次は、きれいな手ぬぐいが、空中に浮かんで、釈尊のもとに来て、釈尊も又、当然のようにそれを使い、手を洗い、口をすすがれたのであります。

 波斯匿王は、それを見て、大変驚いて、釈尊に、

「これは、どういうことでしょうか。この手は、一体、どなたの手でしょうか 」

と尋ねたのであります。

 釈尊は、

「この手は、私の弟子の修利槃特 の手であります。今日、私は修利槃特に給仕をさせる為に連れて来たのでありますが、門番の人にとがめられて、実は今、門の外にいるのです。そして、門の外で、私に給仕をしているのです。私と 修利槃特 は、どんなに離れていても、心が通じているから、こういうことができるのです。」

と仰せになったのであります。

 波斯匿王は、慌てて門の外の槃特尊者をお城の中に招き入れました。

 そして、再び、釈尊に尋ねました。

「失礼ですが、釈尊、聞くところによりますと、槃特尊者 は大変頭が悪く、三年経っても一偈も覚えることができず、最近、ようやく二句を暗記する事ができたそうでございますが、一体どうして、このような立派な御僧侶になられたのでありましょうか。」

 この質問に対し、釈尊は、

「王よ、お経文をいかにたくさん暗記しようとも、行ずることの方が尊いのです。たくさんの経文を暗記しても、文の心がわからなかったならば、何の功徳もありません。たった一つの経文でも、正しく理解し、修行したならば、大きな功徳があるのです」

と仰せになりました。

 これを聞いて、三百人の僧侶は阿羅漢の位を得ることができました。又、国王も、婦人も、太子も、大臣も大変喜び、国中の人々は、もう誰も「バカの槃特 」と呼ぶ者はいなくなり、「釈尊の御弟子、十六羅漢の一人、修利槃特尊者 」と褒め称えるようになったのであります。

 後に、釈尊は『法華経』を説かれ、槃特尊者は、この『法華経』を全く疑う事なく信じたのであります。この『法華経』を素直に信ずる大功徳により、釈尊より「普明(ふみょう)如来」の記別(きべつ=仏様が弟子の未来の成仏を御約束されること)を受けられたのであります。


 余談ですが、この槃特尊者のお墓に、見慣れぬ草が生えまして、この草を食べると、物忘れをすると言われました。人々は槃特尊者が草となって現れた。槃特尊者はお若い頃、御自分の名前を荷っておられたということで、この草に草冠に名を荷うと書いて、「茗荷(みょうが)」と名付けたのであります。この「茗荷」は、仏様の功徳という意味の「冥加(みょうが)」にも通じるのであります。

 仏様の功徳、『法華経』の功徳の大きさを示された槃特尊者を見習って、純粋な信心をしたいものであります。


引用:『南条兵衛七郎殿御書』

たとひ五逆十悪無量の悪を作れる人も根だに利ならざれば得度なる事これあり。提婆達多・鴦掘摩羅 等これなり。たとひ根鈍なれども罪なければ得度なる事これあり。修利槃特等これなり。我ら衆生は根の鈍なることすりはんどくにもすぎ、物のいろかたちをわきまへざる事羊目のごとし。貪瞋痴 きわめてあつく、十悪は日日にをかし、五逆をばをかさざれども五逆に似たる罪又日日におかす。又十悪五逆にすぎたる謗法は人毎にこれあり。

(新497・全1494)



ここまで。

迦陵頻伽声(著者:岩切仁道  和党編集室 )【 修利槃特 (すりはんどく)】

転記終了。


※ 鴦掘摩羅とは

アングリマーラの音訳・意訳。鴦掘摩羅 はバラモンの弟子であった時代に、ある事件をきっかけに彼を陥れようとした師匠から、ワザと誤った教えを与えられ、多くの人を殺し、その指で髪飾りを作った。1000人目の犠牲者に自分の母親を殺そうとした時、釈迦に教化されて仏教へ改宗。その後は自らの過ちをひたすらに懺悔し、修行に励み、悟りを得た。


御書に提婆達多と並べて書かれている人なので「相当な悪人なんだろう」と思いつつ検索したところ、出てきたのがこの内容。

バラモンの師匠が悪意を持って教えた内容を、師匠の指導だからと忠実に実行して罪を重ねた訳ですが、これ・・・ねぇ‥💧 提婆達多と並べて書かれているけれど、罪の種類や方向性が大分違うような・・・本人に悪意があったという事はなさそうに見えるけど…でも・・・凄惨だ。||orz... やることやっちゃって、大罪って事で変わらないね💧

信心の信が間違った本尊や教え、修行に強く傾けば、一貫の終わり。その分、信心の信が正しい本尊と教え、正しい修行に強く傾けば、一気に成仏に辿り着く。

わかっちゃいるけど、大変なことだわ...💧 紙一重の極端な世界。





サイト作りの独り言w と、今後の予定 (このページが完成したら消す予定)

このページ、今のところ7~8割方完成。

もうちょっと表現を穏やかにしたり、文体の統一とか、掲載の順番を整理するとか、色々やりたい感じ。

追々・・一年くらいかけてやると思う。





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2020年2月12日 サイト工事開始
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